「寺山修司の演劇世界」

 

1、はじめに

 私は、演劇を観ることが好きで、度々、劇場へ足を運んでいる。舞台を見つめる数時間、日常とは違う別世界に誘われる。演劇とは、戯曲に書かれた物語を、舞台上で、俳優が役を演じることで表現し、観客は舞台に感情移入し、擬似的に喜怒哀楽を体験する。私は今まで、演劇に対して、そのような固定観念を持っていた。今回、芸術学基礎テキストの第5章「身体芸術−演劇と舞踊」を読み、私が今まで思っていたものとは、全く違う演劇があることを知り、寺山修二の実験演劇について大変な興味を持った。寺山修司は既に亡き人である為、彼の劇に直接参加することはもはやかなわず、また残念ながら今回はビデオも手に入らなかったが、文献からだけでもその一端を知ることで、演劇とは何であるかを考えるきっかけになればと思い、寺山の演劇についてレポートを書くことにした。

 

2、演劇実験室「天井桟敷」について

 1960年代の日本は、めざましい高度成長を続けたのと同時に、安保闘争や学園紛争などの、変革をめざす政治的な運動で揺れていた。この時代、新劇等の既成演劇に反旗をひるがえし、乗り越えることをめざした若手劇団が多く誕生した。これら小劇場演劇は、一般的には異端の演劇として見られており、アンダーグラウンド演劇、略して「アングラ」と呼ばれた。小劇場系の集団には二つの流れがあった。一つは、学生演劇を母体とする流れであり、唐十郎の状況劇場や鈴木忠志の早稲田小劇場などがそれにあたる。もう一つは、既成の新劇の劇団から発した流れであり、蜷川幸雄の現代人劇場などがある。この二つの流れに属さない異色の存在であったのが、寺山修司が率いた演劇実験室「天井桟敷」(1967−1983)である。寺山は、この頃、既に、詩人、歌人、放送作家、評論家として有名人であったが、俳優や演出家ではなく、新劇や学生演劇とは無縁だった。演劇の外部からの出発である。天井桟敷は、結成当初「見世物の復権」をかかげ、特異な肉体をもった人間を舞台上にオブジェのように展示することから始まり、その後、次のような、奇抜で多種多様な実験劇を次々と生み出しては、国内外で上演した。

「俳優のいない演劇と誰もが俳優である演劇、劇場のない演劇と、あらゆる場所が劇場である演劇、観客のいない演劇と、相互の観客になり代わる演劇、市街劇、戸別訪問劇、書簡演劇、密室劇、電話演劇」(引用註1)

観客が登場人物を探しまわる迷路の演劇や、暗闇の演劇もあった。次の一文は、寺山の演劇を端的に表現していると思う。

「寺山は演劇を演劇として成立させる制度に異議を申し立て、その批判作業自体を演劇化した。彼は演劇の外にあるものを演劇の中に持ち込み、逆に演劇の内部にあるものを宙づりにしたり、外部に持ち出したりした。こうして彼は従来の演劇の価値基準では評価しがたい、これまでの演劇の枠からは大きく逸脱した『演劇』を作り出した。」(引用註2)

寺山の演劇が、既成の演劇の枠に当てはまらなかったこと、また、ジャーナリズムで風俗的な話題を呼んだこともあり、演劇界からは異端視され続けることとなった。寺山は、演劇に対し果敢に挑戦を続けるが、彼が早過ぎる死を迎えた1983年、天井桟敷も解散をする。

 

3、寺山の演劇論

「私は、劇場で数千の目に見張られたいのではなく、数千の人と「出会い」たい」(引用註3)

このように、寺山は、観客論の中で、何度も「出会い」という言葉を繰り返し使用している。寺山にとって、観客は演劇を鑑賞するだけの存在ではなく、演劇を創造するものでもあり、観客と俳優は、同一次元の現実の上に立つのである。観客は、一方的に劇を「観せられる」のではない。私が今までに観た演劇の中には、観客を引きつける為に客弄りをするものもあった。しかし、それは舞台に目を向けるきっかけに過ぎず、同じ次元に立ったことはなかったように思う。

「私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ、ということなのです。」(引用註4)

この寺山の言葉は、劇は舞台上でのみ作られていると無意識に考えていた私にとって、非常に新鮮であった。

 演劇を呪術とするならば、俳優は呪術師として、接触の媒介の役割を果たし、ただ「観られる」のではなく、「まき起こし」「引きずりこむ」のが、寺山の俳優論である。俳優は、経験を再生し自己を模倣するだけであってはならないと言う。舞台上の俳優が自分の思いもよらない表現をした時に、その演技を上手いと感じることはあるが、後々までも観客の記憶に残るのは、俳優の表現方法や技術ではなく、その表現に込められたものに感応した経験だ。観劇での感応は、映像で見るものとは違い、生身の人間が生きて目の前に存在することで、直接的に受ける。まさしく呪術のようなものだと思う。

「演劇を通した出会いのなかで、観客と俳優という階級的分離思考を拝し、共同的相互的に関係を生成してゆくことであり、そのことによって偶然性を集団意識のなかで組織してゆくことである。」(引用註5)

このように、寺山の演劇とは、夢の共有、集団妄想のたくらみであり、そのための出会いの組織化である。俳優と観客は、作る側と観る側とに分類されるのではなく、二つの「作る側」として分類されるべきものなのだ。

 また、劇場論では、劇場とは施設や建物のことではなく、劇的な出会いが生成される場であり、役者や観客があることによって、どんな場所も劇場となることができると言う。劇場とは、共有経験の機会を探す場なのだ。寺山は、密室ではない開いた空間としての「市街」へ演劇を持ち出した。市民を巻き込むことで結果として社会的なスキャンダルとなった天井桟敷の市街劇「ノック」は、観客が「劇」を求めて街を歩き回るというものであった。この市街劇に、観客として参加した演劇評論家の扇田昭彦氏は、こう書いている。

「私たちはしだいに街を『虚構』の目で眺め始めた。見慣れた路上の光景も商店街も道行く人々も、すべてが虚構のフィルターをかけられて浮かびあがり、劇的に変形していったのだ。」(引用註6)

既成の演劇では、虚構という前提にたった上で、虚構の出来具合を楽しむ。ところが、寺山の実験劇では、虚構と日常を混ぜあわせ両者の境界線を消してしまうのである。

 このように、寺山は、演劇という既成概念の中にある様々な境界を破り、演劇そのものを解体しようとしていたのだ。

 

4、前衛・寺山を知って

 寺山は、既成の型や枠組みに対して衝突を続け、壊そうとした。演劇に対して、様々な可能性に挑戦をし続けた寺山の前衛演劇を知り、芸術に対する時に、無意識のうちに既成概念に縛られ、狭い世界を作っていた自分自身を知ることとなった。寺山の演劇論が、演劇の全てだとは思ってはいない。テキストにもあるように、演劇は身体芸術であるがゆえに、その言説が多様であることも理解しておきたい。

 また、演劇を「芸術作品」、観客を「鑑賞者」と置き換えてみると、寺山の観客論は、芸術全体においても通じるところがあるのではないだろうか。これまで、私は舞台芸術や日本美術以外には、あまり興味を持ってはいなかった。しかし、それは鑑賞者になりうるはずの自分自身が芸術作品に対して距離を置き、最初から出会いを拒否していたのではないだろうか。出会いを求めて自らが積極的に鑑賞者となることで、芸術に参加し、興味も生まれていくのではないだろうか。寺山の劇場論も、やはり他の芸術にも当てはまる部分があると感じた。美術館や建物という密室に置かれているものに限らず、屋外の彫刻やオブジェが周囲の空気感をも作っていることがある。作品と鑑賞者があれば、どんな場所も芸術空間となるのではないか。

 今回、自分の思いもよらなかった寺山の演劇論を読むことで、他の芸術においても、広く様々な角度から、積極的に芸術を感じ、掘り下げてゆくことの必要性を感じることができた。

 

引用註

1、寺山修司著『迷路と死海』白水社、1993年2月、11ページ

2、扇田昭彦著『日本の現代演劇』岩波新書、1995年1月、157ページ

3、寺山修司著、前掲書、47ページ

4、寺山修司著、前掲書、39ページ

5、寺山修司著、前掲書、75ページ

6、扇田昭彦著、前掲書、149ページ

 

参考文献

寺山修司著『迷路と死海』白水社、1993年

扇田昭彦著『日本の現代演劇』岩波新書、1995年