05「モーツァルト!」レポ 



2005年6月梅田芸術劇場で初日を迎えた「モーツァルト!」再演は、
帝国劇場、中日劇場を経て、11月の博多座まで公演が続きました。
ブログにアップしていた毎回の観劇レポと感じたことを、まとめてみました。

6月4日 再演初日 @梅田芸術劇場


 2年半ぶりに、「モーツァルト!」が帰ってきた。キャストもほとんど変わらず、舞台美術、演出、衣装、曲に、ほとんど変更はなし。ほんとに”帰ってきた”という言葉がピッタリくる。書きたいことがいっぱいあるのに、言葉が浮かんでこない。なので、まとまらないけど、思うがままに・・・。

 なんといっても、井上芳雄くんの成長に感激した。歌が、きっちりと譜面どおりを追いかけるというより、時には感情のままに、より芝居に近づいていく、その感じがすごく良かった。『僕はウィーンに残る』の最後、「僕は、いまこそ自由だ」の部分や、『何故、愛せないの?』の最後の「なぜ愛せないの?」の部分などは、感情の入り方が目立っていた。初演は、曲を歌うことにいっぱいいっぱいだったのかもしれない。今回は、感情が溢れて歌につながる感じがよかった。パパが亡くなった後のシーンなど、感情の激しい場面の多い二幕中盤あたりからの芝居が、特にすばらしかった。かといって、歌がおろそかになっているわけではなく、初演より、声の出かたも伸びもよいし、声も少し変わったように思う。「ハムレット」や「ミス・サイゴン」での演技や歌の経験が、この再演できっちりと出てきたようで、井上くんの出演作品を観続けてきた私も、すごくうれしい。

 そういえば、「ミス・サイゴン」では、男性キャストはメイクしていなかったので(演出家の指示)、ヴォルフガングが最初に舞台上に現れた時は、「化粧が濃い!」と感じてしまった・・・。すぐに見慣れたけど。「ファンタスティックス」でも、井上くん、メイクしていたはずなんだけどなぁ。今回は、席が、すごく舞台に近かったからかも。

 他のキャストのみなさんも、初演とほぼ変わらず。
市村正親(パパ)・・・カーテンコールで、かわいいポーズをきめて、お茶目さんだった。
山口祐一郎(コロレド大司教)・・・素敵な歌声と、おトイレシーンで笑わせるのも相変わらず。
西田ひかる(コンスタンチェ)・・・声量がないから、ソロ曲が弱い。激しい『ダンスはやめられない』が聴きたいなぁ。 
                   ヴォルフガングとのデュエットは、いい感じ。
久世星佳(男爵夫人)・・・優雅なんだけど、高音部で声が・・・。緊張でもされてたのかな・・・?
                初演千秋楽のころのほうが、歌、よかった気がするので、これからに期待!
高橋由美子(姉・ナンネール)・・・初演と同じ。ちっちゃくて、かわいい。
                    ちょっと声がしんどそうな場面もあったけど、安心して見られる。
吉野圭吾(シカネーダ)・・・華やか!初演時より、目立つ気がする。
阿知波悟美(セシリア)・・・最後のシーンまで、すごい悪人なのに、なぜか嫌いになれない、不思議な役。
                この人の持つキャラのせいかな。

 アマデ役は、高橋愛子ちゃん。小柄で、すごくかわいかった。ヴォルフガングに対する厳しい表情は、初演ほどじゃないけど、子供なので、これからかな?(話はそれるが、舞台に登場した瞬間から、隣に座っていたエリザベート先輩が、「Eにそっくり!」と囁いてきた。そう、友だちに似ているのよ。Eさん、あなたよ、あなた!)

 さて、この日、初日なので、カーテンコールで挨拶があった。総立ちの観客席を、市村パパのアドバイスで、井上くんが「長くなるので、みなさん、腰掛けてください。」と座らせる。井上くんの挨拶の後、演出の小池先生が呼ばれ、舞台端で挨拶。「成長した井上芳雄」という小池先生の言葉に、大きくうなずく。初日なので2、3の不手際があったことのお詫び。その後、作曲家のシルベスター・リーヴァイさんの挨拶。英語で少しと、メモを見ながら日本語で挨拶。
「世界で最も素晴らしい『モーツァルト!』の公演は、日本の『モーツァルト!』です。」などと、うれしいことを言ってくれる。井上くんの締めの挨拶のあと、幕が下り、再度、幕が上がったときは、奥のセットにキャスト全員が座ってのお手振り。鳴り止まない拍手に、井上ヴォルフガングと、高橋アマデが手をつないで、舞台袖から走って現れ、下手、上手、中央と挨拶して、最後は高橋アマデを抱えて、井上くんが「ありがと〜!」。井上くん、いいキャラだな〜。公演初日というのは、キャスト・スタッフも感慨ひとしおなんだろうが、再演を待ち続けた私も、とても感激だった。今日観ることができて、ほんとによかった。

 とりあえず、チケットは、あと手元に3枚あるけど、増やしてしまうかも・・・!

 

「モーツァルト!」のアマデって・・・?


 初日観劇の日のブログは、感じたことのみを書きなぐってしまったので、ちょっと落ち着いて、芝居のことなどを・・・。

 このミュージカルには、暗示的な表現があって、単純明快とはいかない。そもそも、この芝居で大きな位置を占める、子供の姿のアマデの存在が、実在ではない(「奇跡の子」のシーン除く)。ヴォルフガングの側に常に一緒にいるが、ヴォルフガングにしか見えておらず、光る小箱を持ち、ひたすら白い羽根ペンで、作曲をしている。さて、アマデは何ぞや、というと、やはり、ヴォルフガングの“才能”そのものなのでしょう。夢いっぱいの頃は、アマデを抱き締め、『僕こそ音楽』と歌うヴォルフガングが、コロレド大司教と決裂した後には、「息が詰まりそう」「自分の影から自由になりたい」と、アマデを恐れる。アマデも、遊び回るヴォルフガングを止めようとして、怒った顔を見せる。パパが亡くなったときには、「オマエなんかいなけりゃよかったんだ!悪いのはオマエだ!」とまで言ったヴォルフガングが、アマデなしでのレクイエムの作曲に苦しみ、自らの死を前にした時には、もう一度『僕こそ音楽』を歌いながら、愛しそうにアマデの頬に触れる。アマデの存在を“才能”に置き換えると、その気持ちの流れが、よくわかる。愛しそうにアマデの頬に触れる、その井上ヴォルフの表情が、何とも言えず、よい。神から委ねられた才能の重さに苦しみながらも、最期はその才能を愛していたことを思い出したのかな、と。ただただ音楽を愛し愛されていた日々を思い出したのかな、と。

 パンフレットでは、演出の小池先生が、アマデが持っている小箱のことを“作品”だと書かれている。ヴォルフガングの死後、ナンネールが小箱に気づき、蓋を開けると、きらめくように、モーツァルトの音楽が流れ出してくる。その美しさにナンネールがよろめく。アマデは神から与えられた小箱の中の作品を、楽譜に書いていたのか?羽根ペンも、アマデが使うのは、白。ヴォルフガングが使うのは、赤。色が違う。『魔笛』の成功のあと、「MOZART」と書かれた幕を、ヴォルフガングとアマデが引っ張り合うというのも、名声を奪い合っているということかな。ともかく、アマデがヴォルフガングの影というところから始まって、いろいろ比喩的な表現になっている。私は、感覚と感情に任せて、心で舞台を観るほうで、あまり頭で観ることはなかったんだけど、この作品については、観た後から、いろいろと考えてしまう。

 

6月12日マチネ @梅田芸術劇場


 
初日を観て、あまりに良かったので、急遽、増やしたチケットでの観劇。今日も、井上芳雄くんがヴォルフガング。初日は、開演5分前、すべり込みセーフで、大汗かいたので、今日は余裕を持って、劇場に到着。開演前に、ゆっくり売店もチェック。ブタペスト版のCDを買った。
いろいろ考えたこともあるけど、それは後日として、とりあえずは観劇レポ第2日を。

 井上ヴォルフガングは、好調。初演と比べて、まぁ、よくもここまで、声も演技も伸びやかになったと思うほど。苦しむ場面などの演技は、「ハムレット」での経験が活きている気がする。外に出て、鍛えられるって大事なんだと思った。
 初演からの作品ファンで、なんとなく歌詞を覚えてしまっている者としては、『並みの男じゃない』での歌詞間違いに気づいてしまった(いや、初見でも気づく?)。「♪お偉方は説教大好き〜」から「♪怠け者と非難されても」までをゴッソリ、先の歌詞を歌ってしまい、「♪石頭はマッサージ」からを2回歌うハメに。ま、楽しい歌だから、間違えても、ご愛嬌ということで(^_^.)

 西田ひかるさんのコンスタンチェは、初日よりも声が出てきて、『ダンスはやめられない』にも迫力がでてきた。松たかこのコンスタンチェ(初演)は、激しくて気の強いコンスタンチェ像だったけど、西田コンスタンチェは、上手くいかない可哀想感が強い。

 山口祐一郎さんのコロレドは、絶好調。『神よ、何故許される』での歌声は迫力。初演も、あんなに動いていたかな?おトイレシーンは、やり過ぎ(-_-;)?いくら、喜劇的要素の少ないミュージカルと言われているからといっても、あのシーン見ると、コロレドが憎たらしい君主に見えなくなっちゃうんだよー。

 市村正親さんのパパが、いいのは、もう当たり前な感じで、書くことない。年をとってからのシーンでは、リウマチのせいか、足を引きずるように歩いていて、きちんと年齢を感じさせている。「お前の顔など死ぬまで見たくない!」と、ヴォルフガングに言い放った後に、ひとりで「私ほど、お前を愛する者はいない」と歌う声が、ものすごく悲しい。上手いなぁ。

 このミュージカルの魅力のひとつは、曲だと思うんだけど、それらを歌うアンサンブルのみなさんの歌が素晴らしい。『モーツァルト!モーツァルト!』や『影を逃れて』では、いつも感動!すごい!

 

ヴォルフガングとアマデ@「モーツァルト!」


 再演2回目の観劇。初演の頃から好きな曲が、たくさんある中で、『影を逃れて』『何故、愛せないの?』は、聞いていて、胸が苦しくなる2曲。今回は、『残酷な人生』も、井上ヴォルフガングの感情が溢れていた。優しかった母の死で、傷ついたヴォルフガングの叫びが悲しい。同じように、父の死の後の『父への悔悟』も、つらい気持ちに溢れている。井上芳雄君は、感情を歌で表現するのが上手くなった。

 ヴォルフガングは、純粋で心がむき出しだから、ちょっとしたことでも一喜一憂し、さびしくて人恋しいから、他人の言葉もすぐ信じて、裏切られ、大きく傷つく。父・レオポルトの『心を鉄に閉じ込めて』が、息子を愛するがゆえの言葉だということも、今はよくわかる。その通り、心を鉄に閉じ込めていれば、傷つくこともない。だけど、もしそうなら、彼の音楽の数々は生まれなかったのかもしれない。彼は、「感じる全てを歌に乗せ」、曲を書き続けたのだから。
 
 ヴォルフガングとアマデの関係にも注目。
一幕では、アマデは、ヴォルフガングの後ろをついて歩くことが多かったが、一幕終わりに、コロレドとの決裂後、「行こう!」というヴォルフガングを無視することから始まり、二幕では、ヴォルフガングに愛想を尽かしたアマデが去っていく場面も多いし、一緒の時は、アマデがヴォルフガングの前を歩く場面が多くなる。人間の部分が才能に引きずられ、精神的に疲弊していくってことか。
 ヴォルフガングも、ブルク劇場での成功の時には、アマデの手をとり、一緒に喝采に応えていたのに、「魔笛」の時には、アマデのほうには見向きもせず、『MOZART』という幕を独り占めしようとさえする。
 そうやってヴォルフガングと分裂していったアマデが、死を前にした時、白い羽根ペンをヴォルフガングに差し出す。ふたりの向かう方向がまだひとつだった頃、『僕こそ音楽』を歌いながら、ヴォルフガングが白い羽根ペンを持ったとき以来だ。

 その羽根ペンのことも、気になる。ヴォルフガングが、使っているのは、いつも赤い羽根ペン。アマデと離れ、『レクイエム』を、ひとりで作曲する時も、そう。『モーツァルト!モーツァルト!』の合唱の中、ヴォルフガングは、取り憑かれたように、苦しんで、搾り出すように、作曲を続ける。その姿を見ながら、赤い羽根ペンの“赤”は、血の色なんじゃないかと思った。ヴォルフガンフの血が通ったペンだから“赤”。じゃ、アマデの持つ白い羽根ペンの“白”は?神の与えた才能だから、血が通っていない?でも、ヴォルフガングの感じることを、曲にしているんだよね。そういえば、一幕の終わり、アマデは、作曲の手をふと止めて、ヴォルフガングの腕に羽根ペンを突き刺し、その血をインク代わりに作曲を続ける。モーツァルトの音楽は、神の才能と、人間・ヴォルフガングの合作というところだろうか。赤い羽根ペンを使って、『レクイエム』を作曲している姿を見ていると、ヴォルフガングが自らの血を流しながら、肉体も精神も自分の全てを酷使して、音楽を求めたように感じられた。

 「個人が生まれながらに背負った運命=影を逃れることは出来るのか」というテーマどおり、ヴォルフガングは、その運命に真正面からぶつかり、傷つき、必死に戦う。たとえ天才という稀な運命を与えられていたとしても、そんなヴォルフガングをとても人間的だと思うし、その激しい感情に心を揺さぶられずにはおれない。

 

6月14日ソワレ @梅田芸術劇場


 ヴォルフガング役を中川晃教くんで観るのは、初めて。休暇中で出かけた先で、夕方、急に思い立って、当日券を購入。平日で、しかも開演時間が早くて会社勤めじゃ間に合わないからか、前から11列目のセンターブロックが残っているなんて・・・。舞台全体が一目で見える、いい席だった。

 ここからは、あくまでも、私の印象で、私の好みで、私の感想なので、悪しからず・・・。

 初見の中川ヴォルフガングだが、井上芳雄くんのヴォルフガングとは全く違う印象。役者本人の年齢(井上:25歳、中川:22歳)、身長(井上:長身、中川:小柄)によるところもあると思うし、本人の役の解釈の違いもあるかもしれない。この違いが、なかなか面白い。井上ヴォルフガングは、身体ばっかり大きくなっても、性格がイノセントなままで、みんなに振り回されたり、利用されるというイメージ。一方、中川ヴォルフガングは、まだまだ少年の部分が抜け切らず、「理由なき反抗」のようで、年若いために、大人たちに振り回されたり、だまされたりというイメージ。

 役の表現も、かなり違いがあった。いちばん記憶に残った違いは、『モーツァルト!モーツァルト!』でのレクイエム作曲の場面。井上ヴォルフガングは全身全霊をかけて、搾り出すように作曲を続けようとして、精魂尽き果て椅子の背もたれに倒れこむ。一方、中川ヴォルフガングは、途中で書けなくなって、最後は放心状態のまま。
 他の場面のソロ曲では、井上ヴォルフガングのほうが、動きでも表現しようとしていたように思う。中川くんは動きが小さかったので、もうちょっと全身を使って表現してほしい気がした。

 いちばんの違いは、たぶん、役者かミュージシャンかという部分だと思う。井上くんは、ストレートプレイにも出るから、基盤が役者寄り。中川くんは、基盤はミュージシャン。
 どこにそれを感じたかというと、中川くんは、他の役者さんとの掛け合いの曲の時に、客席に向かって歌うことが何度かあった。それが悪いというのではなく、私の好みの問題でしかないけど、私はストレートプレイ
ミュージカルという流れで好きになっているから、台詞代わりの部分は、やはり相手の役者に向かってほしいと思ってしまうのだ。
 また、ソロ曲は、心情の吐露であったり、溢れる感情が歌になったものと、私は思っている。中川くんも確かに溢れる感情を歌っているんだけど、自らの感情を吐き出しているというより、観客に対して歌っていると感じてしまう瞬間が何度かあった。ミュージシャンのライブの感じかな?こちら側にグググっと押してくる感じ?それが私は、ちょっと苦手だった。
 歌は抜群に上手い。声量もすごい。感情にも溢れていて、歌声だけで、もってかれそうになる瞬間も何度かあった。でも何かが違った。
 「SHIROH」のシロー役は好きだったので、なんでかな?と思ったら、シローは、“歌声で人の心を操る”という役だった。歌で皆を鼓舞したり、という、役自体がミュージシャンぽかったんだね。

 

6月18日ソワレ @梅田芸術劇場


 再演4回目の観劇。席は、6列のセンターブロック。表情はもちろん、汗まで見える。ヴォルフガングは、井上芳雄くん。男爵夫人の香寿たつきさんは、16日からの登場なので、初めて観る。

 男爵夫人の『人は忘れる』にのって、ピアノを弾きながら登場するヴォルフガング。この場面、大好きなんだけど、久世星佳さんが男爵夫人のときの暖かい声が印象に残っているので、ちょっと違和感。男爵夫人の名曲『星から降る金』では、香寿さん上手い。でも、私の好みは、久世さんの男爵夫人。二幕で、ヴォルフガングが父の死で混乱してしまう場面で、傷ついたヴォルフガングを包み込むような、『星から降る金(リプライズ)』の久世さんの歌声に、いつも心動かされた。久世さんのイメージがあるから、ヴァルトシュッテッテン男爵夫人は、暖かな母性を持った、ヴォルフガングの良き理解者と思っていたのだけれど、また違う個性があってもいいのかもしれないけれど。

 今日のコロレド(山口祐一郎さん)。おトイレシーン、ますます動きが派手になっていた・・・。内股、お尻を手で押さえ、衝立の向こうまでたどりつけないんじゃないかと思うほどの苦しみよう。面白いんだよ。面白いんだけど、あのシーンの必然性は謎。面白ければ面白いほど、権力者のコロレドの迫力が目減りするような気がする・・・。二幕の『神よ、何故許される』の最後、「無礼で 傲慢 自惚れ 愚かな男が 創り出す」も、どんどんテンション高くなってきて、ほとんど叫んでいる状態。それほどまで、ヴォルフガングに腹立ってしょうがないのかなぁ。あまり激しすぎると、ちょっと子供っぽい気も・・・。それも狙い?

 今日の私的ポイントは、パパ(市村正親さん)。一幕の『私ほどお前を愛する者はいない』で、パパとヴォルフガングが手を取り合い、奥へはけていくところで、今日のパパは、ヴォルフガングをバシバシ(音が聞こえるほど)叩いていた。ここ、笑わせるとこだっけ・・・?でも、二幕では、しっかり泣かせてくれる。パパの「お前の顔など、死ぬまで見たくない!」に、「・・・わかったよ。」と、ヴォルフガングが走り去った後、パパがひとり、うつむいて肩を震わせているのを見ていると、パパの愛が胸に痛くて、泣けた。

 今日のヴォルフガング。初日ほどの勢いはない気はしたけど、好調をキープ。表情の動きなど、丁寧に芝居をしている。歌はもちろん、台詞の部分も、初演と比べて、ずっと良い。 『チョッピリ・オツムに、チョッピリ・ハートに』や、『並みの男じゃない』は、生の舞台で観るのが本当に楽しい。井上君はダンスレッスンをしてきた人なので、動きもきれいで、軽やか。

 中川ヴォルフガングを観た後で、井上ヴォルフガングを観ると、その天真爛漫さが目立つ。大人なのに、無邪気で、子供っぽくて、純粋で陽気。中川晃教くんのほうが、ワイルドなぶん、ちょっと無邪気さが少ない。どちらがいいかは、あくまでも好み。
 無邪気に、パパの愛を求めてやまないヴォルフガングは、とても悲しい。ヴォルフガングが、パパや現実と上手く折り合うことができないのを見ているのは、とてもつらい。だけど、最期の場面の『僕こそ音楽』を聞いて、自然と溢れてくる涙は、悲しいからではない気がする。上手くいえないけど、何か違う。ヴォルフガングがアマデとひとつになって、死という安息の地を見つけられたようで、それは必ずしも不幸ではないと思うからかな。う〜ん、やっぱりうまく言えない。

 『モーツァルト!モーツァルト!』『フランス革命』などは、アンサンブルさんのコーラスがきれいで、いつも聞き惚れる。私がミュージカルを好きな理由のひとつは、このアンサンブルさんのコーラスの迫力と、生オケ。なので、大作ミュージカルが好き。

 手元に残っている大阪公演チケットは、井上ヴォルフガング1枚、中川ヴォルフガング1枚。
私の“モーツァルト!月間”は、そろそろクライマックス。

 

6月25日ソワレ 井上楽 @梅田芸術劇場


 泣いた。一幕の『影を逃れて』で泣き、二幕の『ウィーンのレオポルト』あたりからは、ずーーーっと泣き続けた。涙腺が壊れたかと思ったほど、途中で涙が止まらず、なぜか『フランス革命』の間も、泣いていた。ちょっと変な人状態?!今日は観る前から、頭では何も考えず、真っ白で、心で感じようと思っていた。その結果が、これ。気持ちが痛くて、苦しくて、終わったら、ものすごく疲れていた。

 今日の井上ヴォルフガングは、すごかった。明るくはしゃいで、ピョンピョン飛んだり跳ねたり、『友だち甲斐』でも奇声を発したり。かと思うと、パパが亡くなった後の混乱の場面では、狂気を感じさせるほどに、動き、つぶやき、コンスタンチェに縋り付き、アマデに怒りをぶつける。最期の『僕こそ音楽』の、あのせつなさ。演技などではなく、ヴォルフガングが生きていた。夢を持ち、周りとぶつかり、愛を語り、愛を求め、そして音楽を求めた、そんな人生を駆け抜けていったヴォルフガングが、そこに生きていた。
 井上くんの表情、リアクション、感情溢れる歌や台詞、引き込まれずにはいられなかった。

 千秋楽近くだからか、役者さんの小さなお遊びもあり、私を含めたリピーターの笑いがあちこちで聞かれた。
 『私ほどお前を愛する者はいない』で、パパとヴォルフガングが手を取り合い、舞台奥へ消えていく時に、市村パパはヴォルフガングにヘッドロックをし、背の高い井上ヴォルフが振り回されていた。大聖堂に、ヴォルフガングを探しにきたパパは、ヴォルフガングと遊んでいた女を見つけて、手で顔を覆い、あきれる、という小芝居も登場。いい間で笑わせてくれる。
 コロレド大司教のおトイレシーンは、派手だった・・・。どれくらい我慢したら、そんな状態になるの?っていうほど、足元もおぼつかない様子。ドリフ(古っ!)や吉本新喜劇もビックリなほどのコントだ。舞台上で、その姿を見ても笑わないアルコ伯爵や従者は、役者だなぁ。
 『僕はウィーンに残る』では、ヴォルフガングが「あんたとの関わりなんて、願い下げだ!」と投げた白いカツラを、コロレドはキャッチ。山口コロレドは、この後、そのヴォルフガングのカツラを、匂っている。笑ってしまったんだけど、そのとき同時に、ヴォルフガングの芝居は続いているわけで、ちょっと注意をそらされてしまう感も。(「じゃ、コロレドを見るな。」と言われると、それまでだけど・・・。)

 井上芳雄くんと、アマデ役の高橋愛子ちゃんは、この日が大阪公演千秋楽。カーテンコールで、市村パパ司会で、挨拶もあった。愛子ちゃんは、マイクがついてないので、市村パパが代わりに「今まで生きてきた中でいちばん幸せ、だそうです。」と挨拶。ほんとに愛子ちゃんが、そう言ったかは謎。井上くんは、市村さんに紹介され、「ありがとう、パパ。」と言ってから、挨拶。「さっき、愛子とふたり、死んだばっかりで、頭がボーッとして何を言っていいのかわからないのですが・・・」という前置きに始まり、「アゴが外れそうになったこともあるし(笑)、このまま死んじゃうんじゃないかと思うこともありました。」「みなさんの心の中や記憶の中に、この『モーツァルト!』がいつまでも残ってくれれば、うれしいです。」「観足りないかたは、東京、名古屋、博多に観にきてください。」などと、「いつかまた大阪で、この『モーツァルト!』を観ていただきたい。」というようなことを話していた。ほんとに、また再演があることを、祈りたい。

 26日マチネの中川楽。私の“モーツァルト!月間”も、とうとう千秋楽を迎える。

 

6月25日ソワレ 井上楽のヴォルフガング @梅田芸術劇場


 まだ「モーツァルト!」の余韻から抜けきれない。頭の中で、いろんな曲が渦巻いている。そんな中で、今も目に焼きついて離れないのは、6/25ソワレの公演。この日の井上芳雄君のヴォルフガングが、忘れられない。

 この日の公演、一幕から、井上ヴォルフガングは、陽気なはしゃぎっぷりだった。『チョッピリ・オツムに、チョッピリ・ハートに』では、今まで観た公演では、シカネーダーやアンサンブルと一緒に、きれいに踊っていて、それはそれで好きだったんだけど、この日は、ひとり飛び回って跳ねて、はじけていた。『並みの男じゃない』でも、いつもよりも、やんちゃっぷりを発揮。そんな陽気だったヴォルフガングの『影を逃れて』は、息が詰まるようで、その歌も表情も苦しくて、涙を堪えられなかった。でも、まだこの時点では、こちらの気持ちの持ち方で印象が違うのかと思っていた。

 二幕冒頭、ドクトル・メスマーが「彼の精神状態は非常に不安定」「エキセントリックに見えた。」と言うように、ヴォルフガングがアマデを見る表情が、不安に満ちている。井上ヴォルフガングに、いつもとの違いをはっきり感じたのは、『友だち甲斐』の場面。曲ができあがり、「お祝いしなくちゃ!」と、シカネーダー達とヴォルフガングは踊り、みんなで舞台奥へはけていく。いつもの井上ヴォルフガングは、両手を広げ、女の子達と一緒にきれいに去っていた。それが、この日、正面に向かって、奇声を発したり、大きく舌を出し、中腰で飛び跳ね、明らかにエキセントリックな雰囲気。井上君は、どちらかというと、お行儀の良い芝居をする役者さんだと思っていたので、驚いた。そして、「今日、凄いかも。」と、思い始めた。精神的な不安定さと、ひ弱さを感じさせ、パパに拒絶された、その悲しみは深い。縋る相手はコンスタンチェだけなので、ウェーバー一家が借金に断られたあげく、コンスタンチェを連れて帰ろうとした時の、ヴォルフガングの「ダメだ!」という台詞ひとつにも、不安が溢れている。パパの死後の『父への悔悟』では溢れるほどの悲しみ。
 そして、アマデに首を絞められた後の混乱の場面。つぶやくように歌いだしたかと思うと、立ち尽くすコンスの腰に縋り付き、立ち上がると、手を口の前で小刻みに動かしながら早足で歩き回り、目は何も見ていない。狂気だ。精神的に壊れている。「お前は悪魔だ!知ってるぞ!」と、アマデに向かって、その怒りをぶつけ、「お前なんか、いなけりゃよかった。お前のせいだ!お前が悪い!」と、泣き叫ぶヴォルフガングに、こちらも涙が止まらない。ヴォルフガングの追い詰められた精神に、息が詰まる。いつもとは、動きも立ち位置も全く違っていたので、芝居を合わせるコンスタンチェ(西田ひかる)は、大変だったに違いない。そこまで、井上ヴォルフガングは、役に入ってしまっていた。このすり減った精神状態が、「レクイエム」作曲の場面に繋がり、さらに精神的に疲弊し、死へと向かう流れの芝居が、とても自然。そこまで追い詰められたヴォルフガングが、最期にアマデと微笑みあう。
この日の井上ヴォルフガングには、泣けて泣けて、たまらなかった。
演技ではなく、舞台の上で、ヴォルフガングが思いっきり生きて、運命と闘って、死んでいったのを見ていたような、そんな気分だった。たった今、死んだばかりのヴォルフガングの扮装のままで、カーテンコールで笑顔で挨拶する井上君を見ているのを、少し不思議に感じるくらいだった。

何度も観ている公演で、こんな舞台に出会えることが、ライブの楽しみ。
役者さんの嬉しい変化を見ることは、その役者さんの出演作を観続ける楽しみ。
「モーツァルト!」は大好きな作品であり、井上芳雄君はその初演から始まり、他作品も観ている役者さんなので、この日の公演は、宝物になった。そして、私は、また、こんな公演に出会えることを祈って、劇場へ足を運んでしまう。

 

6月26日 大阪公演千秋楽 @梅田芸術劇場


 6/4に始まった「モーツァルト!」大阪公演が、今日、千秋楽を迎えた。1ヶ月に満たない公演期間に、井上ヴォルフガング4回、中川ヴォルフガング2回、計6回の観劇。毎週末、梅田芸術劇場に登場していたので、今日が最後だと思うと、かなり寂しい。

 今日のヴォルフガングは、中川晃教君。アマデは黒沢ともよちゃん。今日の、アッキー(中川くん)は、すごかった。ガンガン感情が伝わってきて、昨日に引き続き、今日も二幕途中から涙が止まらなかった。14日に観た公演より、ソロ曲も全身で表現していたし、歌に心の叫びが入っていたし、なんだか圧倒されて、泣かされた。

 ヨッシー(井上芳雄くん)のヴォルフガングとは、やはり印象は違う。井上ヴォルフガングは、無垢な心を持った大人で、人間が好きで、パパに愛されたい欲求も強いのに、楽しいことや自由が好きで、上手く振舞えずに、周りの現実に馴染めない感じがした。一方、中川ヴォルフガングは、もうちょっと孤高の感じで、やんちゃでワイルドで縛られるのが嫌いで、音楽を極めたいという気持ちが強い印象。なので、パパに愛されない傷つき度は、ヨッシーのほうが強い。自分の音楽を追求したい度は、アッキーのほうが強い。あくまでも、これは私の印象。

 コロレドの山口祐一郎さん。やり過ぎです。千秋楽だから、と、笑ってしまったけど、明らかに遊び過ぎ。トイレシーンで、いくら我慢の限界でも腕をブンブン振り回すのはおかしいし、衝立から顔を出す時に、髪を逆立てることには、何の意味が??アルコ伯爵が上着を着せる時に、手ぐしで髪を直してあげたけど、ウィーンで馬車から降りて決めポーズをしても、まだ髪が乱れていて、かっこよく決まらない。

 レオポルトの市村正親さん。すごくいい。天才を息子に持ってしまった悲しさに溢れている。自分の夢をも託そうとし、愛するがゆえ厳しくなる。何回観ても、「お前の顔など死ぬまで見たくない!」と言ってヴォルフガングを傷つけるのと同時に、自分も傷ついているパパがとても悲しくて、あの場面は、私の泣きポイント。あそこから、涙が出て、その後の『何故、愛せないの?』で、涙腺が決壊する。昨日からこのパターン・・・。

 この作品の好きなところは、ヴォルフガングだけでなく、レオポルトやナンネール、コンスタンチェの人生も描かれているところだ。それぞれが、自分の人生を生きている。悲しみや苦しみの中で必死で生きている。だから、誰の歌を聴いても、その心情に打たれる。そして、それらを演じる役者さんが、いい芝居をしてくれる。アンサンブルの皆さんも、素晴らしい歌声を聴かせてくれる。

カーテンコールでは、大阪公演楽なので、簡単な挨拶があった。
 市村さんは、カーテンコールに踊りながら出てくる理由を説明。ダンサーの出身なのに、この役はあまり動きがないので、そのうっぷんをカーテンコールで晴らしている、これからも公演が続くので、どんな出方にしようかと考えないといけないので、憂鬱だけど楽しみでもある、と笑いをとっていた。
 香寿男爵夫人は、こんな素敵な作品に参加させていただいて、自分が毎回感動している、皆さんの足を引っ張らないように、がんばりたい、と真面目にご挨拶。
 高橋ナンネールは、素敵なカンパニーで、これからもやらなきゃいけないことがたくさんあるので、がんばりたい、とかそんなだったような・・・。
 西田コンスタンチェは、初演は大阪公演に出られなかったので、今回大阪で公演できて、大阪の熱いお客様の反応に感動した、と。
 山口コロレドは、感動のあまり、昨日から考えていた挨拶を全て忘れたらしい。(←うそつけ!)
 ともよアマデは、マイクなしなので、市村さんに伝言で「モーパパ大好き」と。(←ほんま??)
 中川ヴォルフは、目が潤みっぱなしで、それを見て、私も感動していたので、何を話したのか、ほとんど覚えてないけど、やたらしっかりした落ち着いた挨拶だった。

 ヨッシーとアッキー、このふたりは、ビジュアルもキャラも歌い方も全く違う。他の出演作を見ても、ヨッシーの演じたルドルフ(「エリザベート」)やクリス(「ミス・サイゴン」)をアッキーはできないし、アッキーの演じたシロー(「SHIROH」)をヨッシーはできない。だけど、この「モーツァルト!」のヴォルフガングは、どちらもそれぞれの役作りで、はまっている。どちらも素晴らしいヴォルフガング。このふたりをキャスティングした小池先生に拍手を贈りたい。

 とうとう終わってしまった、私の“モーツァルト!月間”・・・。しかし、帰り道、井上、中川の両ヴォルフガングを観るために、名古屋日帰り遠征することを心に決めている自分がいた。博多だって、行くぞ!チケットを取るために、がんばらねば。

「モーツァルト!」、バンザイ!
ふたりのヴォルフガング、バンザイ!バンザイ!バンザイ!

 

再び、アマデ  @「モーツァルト!」


  
初演3回、再演で既に6回観た「モーツァルト!」。繰り返し聴いたCD。それでも、もうひとつ、自分なりの解釈に、すっきりしきれないものがあった。アマデの存在だ。子供の頃のモーツァルトの姿で、常にヴォルフガングについて回る、実在ではない存在・アマデ。アマデは、何なのか。才能の象徴と言われているし、私自身も、そう思っていた。でも、なんとなく、気持ちのどこかで引っかかっていた。なぜ、才能が暴走するのか。なぜ、才能が離れていくのか。なぜ、死ぬ時に、才能と再び一つになるのか。

 『月刊ミュージカル』のインタビューで、井上芳雄君が、アマデの存在について、こう話している。
「ヴォルフガングの心の中にあるものが、絵として出てきただけで、“思い”なのではないかなと。」
「才能を持ちすぎたゆえに自分とは別に存在しているような感覚」
これを読んで、アマデの見方を変えたら、違う解釈があらわれた。

 二人一役とはいえ、アマデをヴォルフガングと別の存在に考えてしまいがちだから、わからなくなるんじゃないか。井上君が話しているように、アマデは、あくまでも最初から最後まで、ヴォルフガングという人間の一部だとしたら、どうだろう。アマデの行動、表情、全て、実は、ヴォルフガングの心の中にある“思い”なんじゃないか?

コロレド大司教と決裂した後、ヴォルフガングを無視し作曲を続けるアマデ。
遊び回るヴォルフガングを、引きとめようとするアマデ。
友だちが多勢押しかけてきて、耳を押さえるアマデ。
パパが亡くなって泣き崩れるヴォルフを責めるアマデ。
どんな状況下にあっても、ただ作曲を続けたいアマデ、それは、ヴォルフガングの心の片隅にある“思い”なのかもしれない。全部、ヴォルフガングのもうひとりの自分の声なんじゃないか?
アマデを恐ろしく感じるから、アマデは恐い存在になっていく。
アマデなんていなけりゃよかった、アマデが悪いと思うから、アマデは悪いことをする。
アマデがいなくても作曲はできると思うから、アマデは離れていく。
そして、やはりアマデは自分の一部だと思ったから、アマデが戻ってきて、白い羽根を差し出す。
アマデ=才能をもてあましたヴォルフガングの心の中の“思い”の投影で、アマデが行動していたような気がしてきた。

 そういえば、実在のモーツァルトは、彼の手紙の中で、作曲について、
「構想は奔流のように心の中にあらわれるが、どこから来るのかわからない」
「頭の中で実際にほとんど完成される」
「書く段になれば、脳髄という袋の中から蒐集したものを取り出してくるだけ」
「周囲で何事が起ころうと、かまわず書ける」などと書いている。
頭の中に、ほんとうにアマデがいたような感じだ。そのことに対して、モーツァルトが苦しんだかどうかは、わからないけれど。

 井上君も、「決まった解釈があるわけではない」と話しているように、アマデについては、様々な解釈ができる。こういうところも、「モーツァルト!」は、面白いと思う。だけど、恐らく、こういうところが、アメリカでは上演されないであろう理由のような気もする。

 「モーツァルト!」は、来週7/4(月)〜帝国劇場で、2ヶ月間の上演が始まる。その後、1ヶ月あけて、10月中日劇場、11月博多座と続く。私は、10月まで、お預け。耐えられるかなぁ・・・。

 

「モーツァルト!」帝劇遠征決定・・・など、もろもろ


 
 「天才は、狂人と紙一重」 という言葉を、よく聞く。
同じように、天才について書かれた言葉が、「モーツァルト!」のパンフレットにある。
「どんな子供もある意味で天才であり、いかなる天才もある意味において子供である」(アルトゥル・ショーペンハウアー)
私は、この言葉のほうが好きだ。
今回の再演「モーツァルト!」を観るたびに、この言葉を想う。ヴォルフガングが純粋で無垢であるから、天才であり続けられた。ヴォルフガングが、現実の周囲に迎合したり妥協したり計算できるような大人になっていたら・・・、父や同時代の人に広く受け入れられるような、単純な音楽を書き、恐らく、アマデという才能は消えていただろう。神童の姿のままのアマデ、それは、ヴォルフガングが持ち続けた子供のままの心の姿なのかもしれない。

 ぴあMOOK「ミュージカルワンダーランド」誌上に、作曲家のシルヴェスター・リーヴァイさんと、演出家の小池修一郎さんの対談が載っている。この中に、うなづける言葉がいくつもあった。
「モーツァルトの人生をなぞるだけではなく、私たちの誰もが経験するであろう人間ドラマの断片を示したかった。」というリーヴァイさん、「観客も含めた一人一人の人間のトラウマ、生きていく上での枷のようなものについて語る作品」という小池さん。
フィナーレの『影を逃れて』を聴いていると、いつも苦しくなるのは、こういうことだったのか。

 そろそろ「モーツァルト!」禁断症状が出てきたところで、帝劇公演の良席のお誘いがあり、いきなり、8月に遠征することを決めてしまった。新幹線代がかかるのに、何やってんだ、自分・・・と、自分にツッコミをいれつつ、それでもやっぱり行く。また、あの劇場空間に包まれるのが楽しみ。

 

8月7日マチネ @帝国劇場


 
 勢いにまかせての帝劇遠征で、大阪千秋楽以来、1ヶ月半ぶりの「モーツァルト!」。やっぱり、大好きな作品。この日のヴォルフガングは井上芳雄くん、アマデは伊藤渚ちゃん。木村佳乃さんのコンスタンチェは、初見。席は、D列下手サブセンター。

 ザルツブルクで幸せな頃のナンネール(高橋由美子)が、とってもかわいくなっていた。『赤いコート』で、最愛の弟・ヴォルフガングとふざけあう姿が、お茶目。ヴォルフに驚かされた時は、おさげの髪を振り回して怒ってみたり、「息子よ、馬車に乗れ、いざ!」とヴォルフがパパの真似をした後、ふたりで並んで馬に乗る真似をしてみたり。「サイコロひとつ!」とヴォルフが博打のお金でコートを買ったことを言うと、「またついてたのね!」と腕を振り上げ、パパがいることを思い出して、慌てて、振り上げた右腕を左手で押さえる。幸せいっぱいの仲良しの姉弟。

 井上ヴォルフ。歌に力が入りすぎ・・・?と思う瞬間が何度かあった。大阪の頃のほうが、もう少し丁寧に歌っていた部分があった気がする。テンポが速いのかな?私は所詮、素人なので、よくわからないが・・・。とはいえ、『影を逃れて』『父への悔悟』は、その力の入り具合がいいのか、すごくよかった。芝居は安定。いちばんグッときたのは、最後の『僕こそ音楽』の表情。なんともいえない、幸せも悲しみも全てを湛えたような柔らかい表情だった。

 木村コンスタンチェ。ウェーバー家でのなまけっぷりや、ヴォルフへの一目惚れの様子など、なかなか1幕は良かった。・・・でもねぇ・・・『ダンスはやめられない』が・・・。動きを追うのに精一杯、歌詞を歌うのに精一杯で、表現までに至っていないと思う。今月しか出演しないけど、なんとか進化してくれるといい。私は、もう帝劇遠征予定はないので、確認できないけど・・・。

 

ナンネールのこと


  8/7マチネが、初演から通算10回目の「モーツァルト!」観劇だった。
ヴォルフガングの人生を辿る物語なので、場面によって、他の人物の感情に思い入れることはあっても、なかなかヴォルフ以外の人物の心の流れをつかみにくい。
 ところが、7日に観た時に、ふと、ナンネールのことが気になってしまった。ヴォルフガング以外では、唯一、最初の『奇跡の子』のシーンから、最後の『モーツァルトの死』の場面まで、登場する。これは、天才を弟に持ってしまった姉・ナンネールの物語にもなるかもしれない。

 もしも、ヴォルフガングが、神の子と、もてはやされるような才能を持っていなかったら、モーツァルト一家は、平凡に幸せな家庭だったのかもしれない。その才能があるから、才能を信じて、ヴォルフは、どこまでも強気で飛び出してゆく。パリで家の蓄えを使い果たしたり、ウィーンに行ったきり戻らない。
 ナンネールも、子供の頃は「奇跡の少女です」とパパが歌っているし、「弟とふたり神の子と言われ、私も愛されたわ」と本人も歌っているので、相当な才能の持ち主だったようだ。(実際の史実でも、そう言われているらしい。)ところが、あの時代では、女性が宮廷音楽師のような仕事につくことは許されていなかった。『終わりのない音楽』では、「もし私が男なら音楽を続けた。家でピアノを弾くだけ。私に自由はない。」と歌い、音楽という夢をあきらめるしかなかったナンネール。弟に重ねて、夢を見るしかなかった。パパも、ヴォルフに自らの夢を託した。
 ナンネールは、弟の才能を少しは嫉妬したかもしれないが、いつも誇らしく思い、ずっと愛し、応援し続ける。なのに、ヴォルフは、どんどん家から離れていく。『プリンスは出て行った』で、「別の世界に生きているの」「プリンスは出て行った、残されたプリンセス」と、置いていかれた孤独を歌う。それでも、皇帝陛下の前でヴォルフの演奏が決まった時など、大喜びする。
 そんなナンネールが、パパを亡くした悲しみから、「パパを裏切った、私を裏切った、決して許さない」と、弟に言い、去ってしまう。姉さんは、ずっと自分を愛してくれていると思っていたヴォルフは、父と姉を、同時に失った。でも、ナンネールは、悲しみが大きすぎて、それをどこかにぶつけずにはいられなかっただけで、ヴォルフを憎んでいたわけではないと思う。永遠に、最愛の弟を失ってしまった後、フィナーレの『影を逃れて』で、ナンネールの表情は歪んでいて、胸に痛い。

 と、こんなふうにナンネールの物語として思い返してみても、なかなか面白い。『赤いコート』から野菜市場の場面あたりのナンネールは、ヴォルフガングと一緒になって、はしゃいだり、「私はプリンセスで、弟はプリンスよ〜」と夢見る夢子さん状態だったりと、あの弟にして、この姉ありって感じで、とっても可愛いんだけど、大人になるにつれ、運命に縛られていくようで、苦しげになる。“運命から逃れられるのか”−このミュージカルのテーマは、誰にでも当てはまるという。もちろん、ナンネールにも。ナンネールも、“才能”や“家族”や、そんな運命と闘った人生だったのだろう。

 ナンネールを演じる高橋由美子さん、はまり役だと思う。少女時代にも違和感はなく、最後の悲しみに満ちた表情も印象深い。この役は、再々演があったとしても、高橋さんでお願いしたい。(ヴォルフガング、パパ、コロレドも、続投希望。)

 「モーツァルト!」帝劇公演もそろそろ終盤。次の観劇は、10月の名古屋・中日劇場。それまでは、届いたCDでも聴いて、舞台を思い返していよう。

 

10月15日 @中日劇場


  名古屋へは初遠征。新幹線で53分なので、ソワレを観ても、充分、その日のうちに家に帰れるのが、うれしい。お天気さえよければ、名古屋をブラつこうかと思っていたのに、残念ながら朝から雨。しょうがなくて、劇場へ直行した。席は、1階20列上手サイド。客席に結構傾斜があるので、1階とはいえ、少し斜め上から、舞台全体を観るような感じ。
ヴォルフガングは、井上芳雄くん。アマデは、黒沢ともよちゃん。

 井上ヴォルフは、声の響きと伸びは、今までで一番よかった。ヴォルフガングのキャラは、また少し変わっていたように感じた。大阪では、とにかくやんちゃで、時にはエキセントリックに、はじけていたヴォルフガング。名古屋では、もっと、明るくてポワンとした、なんだか可愛いヴォルフガングになっていた。安定した感じはするけれど、私の好みでは、もうちょっと何が飛び出すかわからないギリギリ感が好きかも。 
 何度観ても、『僕こそ音楽』と『影を逃れて』の2曲は、すごく好き。他には、『残酷な人生』が、よかった。ヴォルフガングが、母の死で、「ロウソクの炎のように消えた。」と命の儚さを知る、その思いが胸に痛かった。

 名古屋から登場した、大塚ちひろちゃんのコンスタンチェ。今までの作品で、声が細い印象だったけど、思ったよりも地声でがんばっていた。『ダンスはやめられない』でも、必死に歌っているのが、子供っぽいコンスタンチェの必死さとも思える。今までのコンスタンチェ役(松たかこ、西田ひかる、木村佳乃)と比べて、実年齢が、実際のコンスタンチェの年齢に近いので、ヴォルフガングよりも若くて子供っぽいコンスタンチェ役に説得力がある。ウェーバー一家の中でも、何もできない甘えっ子な感じ。ヴォルフガングに対しては、ずっと“恋”であって、“愛”ではない。だから、精神的に疲弊していったヴォルフガングの逃げ場所にもなれない。
 井上ヴォルフも、ウェーバー一家が借金をしにきて、コンスタンチェを連れて帰ろうとする時に、「ダメだ!」と引き止める芝居で、今まではコンスタンチェを抱き締め、すがるようにしていたのが、逆に間に立ち、守る仕草に変わっていた。相手役によって、芝居も変わっていくのが面白い。

 一路さんの男爵夫人は、歌い方が私の好みではなかった。声の出し方や、歌にビブラートがかかるのが、気になってしまった。久世さんのような母性で包み込む男爵夫人でもなく、香寿さんのようなお金を出してくれるパトロンな男爵夫人でもなく、なんだかよくわからないけど、上品な貴族の男爵夫人だった。ヴォルフガングとの関係性が、いまいちつかめない。

 市村パパ、山口コロレド、高橋ナンネールは、もうすっかり安定。この人たち以外に考えられない。

 再演では、今回ほど後方から観たのは初だった。表情がもひとつよくわからないかわりに、舞台全体のセットやライティング、ステージングなどを観られたのはよかった。たまには、客観的に観るのも悪くないと思った。

 

10月24日マチネ&ソワレ @中日劇場


  会社を休んで、2度目の名古屋遠征&初のマチソワ。同じ日に、二人のヴォルフガングを観る。それぞれが全く違うヴォルフガングを作り出していることを、再確認した一日だった。

 ふたりのヴォルフガングを何かに例えるなら、井上芳雄くんのヴォルフガングは風、中川晃教くんのヴォルフガングは炎。
井上ヴォルフは、いつでも自由に、気持ちのままに、吹き渡っていたい風。
中川ヴォルフは、自分でも燃え上がっていくのを押さえられない炎。

 何よりも違うのは、井上ヴォルフのほうが、精神的に弱いということだ。アマデと役割を完璧に分けていて、ヴォルフガング自身は、ごく普通の青年。甘ったれで遊び好きの呑気な青年が、神からアマデという才能を与えられてしまったがため、周りの人間や世間に求められるがままに振り回され、利用され、神経をすり減らし、押しつぶされていく。ヴォルフガングの悪夢『謎解きゲーム』で、既に井上ヴォルフは頭を押さえ、パパの幻影に怯え、パパなくしては幸せを得られないという思いに取り憑かれている。『借金の手紙』でも、自分を利用しようとするウェーバー家を拒否したものの、背を向け怯える。その直後にパパの死を知り、ナンネールに「許さない。」と責められ、絶望し、精神的錯乱に陥る。『モーツァルト!モーツァルト!』で、歌声の中、レクイエムの作曲をする井上ヴォルフは、のしかかるような人々に追い詰められていく。その結果の死。そんな最後に、アマデに白い羽根ペンを差し出され、そこに救いを見る。『僕こそ音楽』は、救いを得たヴォルフの解放された心だ。だから涙を浮かべながらも微笑みがある。

 一方、中川ヴォルフは、最後まで、精神的に芯がある。アマデとの役割がキッパリとは分かれているわけではなく、中川ヴォルフの中に、アマデが宿っているという感じ。自分の情熱を押さえられず、飛び出してはいくけれど、周囲の人間に振り回されているのではないので、神経を磨り減らしていってはいない。パパに自分の音楽を理解してほしくて、追いかけはするけれど、井上ヴォルフほど精神的に依存していない。『モーツァルト!モーツァルト!』で、作曲をしていても、その耳には、人々の声は届いてはいない。あくまでも自分の音楽との孤独な戦いだ。その結果の燃え尽きての死。最後の『僕こそ音楽』をそっと優しく歌う中川ヴォルフの歌声は、燃え尽きる寸前の残り火のようだ。

 コンスタンチェ(大塚ちひろ)との別れも印象が違う。井上ヴォルフは、精神的に余裕がないから、わめくコンスタンチェを抱えられなくなって、背を向ける。中川ヴォルフは、作曲に専念したいから、背を向ける。
 
 今回、マチソワ続けて観ても、そこに感じるキーワードは、大阪でそれぞれを観た時と同じで、井上ヴォルフが“人間”で、中川ヴォルフが“音楽”だった。同じ物語を観ているのに、主人公の役作りが違うだけで、こうも違い、また、そのどちらもが素晴らしい出来になっていることに驚く。まさしく、井上くん、中川くんが、役を演じるのではなく、役を生きているからに違いない。

 6月の大阪公演と比べて(井上くんは帝劇でも観たが)、井上くんは声の伸びと響きがすごくよくなり、中川くんは演技がよくなった。3ヶ月で、どんどん変わっていく。井上くんは1幕の『影を逃れて』が歌はもちろん、表情や動きでの感情表現もあって、胸に迫った。中川くんは、2幕の死へ向かう場面で、感情の昂りでか、手がずっと震えていて、目が離せなかった。

 この日マチネもソワレも、市村パパが、すごかった。『心を鉄に閉じ込め』では厳しさの中に愛を溢れさせ、この歌で初めて、胸が詰まった。二幕で老いていくパパが、思い上がったヴォルフガングを拒絶した後に、「成長した天才を守ることができるのか、私以外誰が」と、むせび泣くように歌うパパには落涙。

 『影を逃れて』に、いつも泣いてしまうフレーズがある。1幕終わりのヴォルフの「心捨てれば忘れられるのか」と、2幕の「戦い終わり、命果てて」の部分を聞くと、なんとなく堪らなくなる。心を捨てたいと一瞬でも思うのは悲しすぎるし、戦い続けたヴォルフのしんどさを思い、運命の重さを思い、歌っているキャストの顔を見ながら、みんな何がしかの運命を背負っているんだとか、いろんなことが心の中で渦巻いて、フィナーレでは泣かずにいられたことがない。

 以前、宝塚を好きだったという、後輩のパンダちゃんが「悲しいお話を見ても、その後に楽しいレビューがあるから好き」と言っていた。宝塚を好きでない私には、そのときはわからなかったんだけど、「モーツァルト!」のカーテンコールには救われるので、ちょっとわかる気がしてきた。カーテンコールでヴォルフガングがアマデとおそろいの赤いコートを着て、笑顔でみんなに祝福されて出てくるのを見ると、ヴォルフガングは、こうやって生きていたかったんだろうなぁなどと思う。映画「タイタニック」の最後で、同じ船に乗っていた人々に祝福されて、ジャックとローズがキスする夢の場面のように、カーテンコールを見ている。舞台の上にいる間は、私の目には、井上君でもなく中川君でもなく、あくまでもヴォルフガングなんだなぁ。

 

『残酷な人生』 @「モーツァルト!」


 10月の中日劇場公演での発見は、井上芳雄くんの歌う、『残酷な人生』。ヴォルフガングのソロ4曲の中で、私の中では、今までいちばん影が薄かった。ところがどっこい、中日劇場で、井上ヴォルフガングの『残酷な人生』を聴いた時に、今までになく、ズシズシ感情が伝わってきた。

 この歌、ヴォルフガングが唐突に母の死に直面した衝撃の中で歌われる。私は、ちょうど初演の前年に、現実に母の死を体験している。
「ろうそくの火みたいに消えた。街は、いつもどおり、何事もなかったようだ。」というヴォルフの台詞も、『残酷な人生』の歌詞に出てくるヴォルフの感情も、リアルに全部体験済。
街がいつもどおりに動いていることに違和感を感じたり、街を歩いている人みんな、自分も含めて、み〜んな死んじゃうんだって思ったり、最期はひとりだって思ったり、etc.母親の死というのは、他の人の死と少し違っていて、自分の一部を失くしたような感じだった。
私の中にあった、そんないろんな感情を、中日での井上ヴォルフは、思い出させた。

 そういうマイナスの感情もいっぱい抱えていたけど、逆もあった。母は64歳で逝ったので、世間で“老人”と呼ばれるには、少し早い年齢だった。それを思うと、「人生は短い」ってことが、私にはものすごく実感としてある。
 そんな短くて儚いなら、楽しく生きなきゃ、と思った。いつ死ぬか、わからないから、長いスパンで、物事を考えられない。(とはいえ、貯金もするので、ヴォルフとは違うけど・・・。) 
やってみたいことがあるのに、続かないかもしれないからとか、来年きっとやろうとか、そんなことを言い訳にグズグズするのもやめた。とりあえず、やってみたらいいやん、と。ダメもとで始めて、イヤになればやめればいいやん、と。
今、やりたいことをやる、行きたいとこに行く、食べたいものを食べる、観たいものを観る。
(・・・というわけで、「モーツァルト!」も観たいだけ観て、リピートしすぎなんだが(-_-;)・・・)
 ヴォルフが、ママが亡くなっても、アホっぽく遊び続けたのにも、もしかしたら、人生の儚さを知ってしまったからかなぁ・・・などと勝手に思ったりする。いや、まぁ、元々、ヴォルフは遊び好きなんだろうけど(特に、井上ヴォルフのほうが、アホっぽいな)。

 博多座へ行くのは、まだもう少し先。やっぱり、井上くんの作ったヴォルフガング像が好きなので、見納めも井上ヴォルフで。納得できる舞台だといいなぁ。

 

11月27日ソワレ & 11月28日マチネ @博多座


 6/4大阪初日から始まった『モーツァルト!』の公演。11/30博多座で大千秋楽を迎えるが、どうしても仕事で行けないので、27〜28日泊まりで、博多座へ遠征。
27日ソワレ、J列サイド。通路横なので、舞台までスコンときれいに見える。
28日マチネ、E列サブセンター。最後の観劇に最前列。エリザベート先輩(会社の先輩です)、ありがとう!
ヴォルフガングは、両公演とも、井上芳雄くん。
アマデは、27日ソワレが伊藤渚ちゃん、28日マチネが黒沢ともよちゃん。

以下、27ソワレ、28マチネの印象混ざります。
 井上ヴォルフは、中日でのアホっぷりから、梅芸のハイテンションに戻っていた。アホっぽいフワフワヴォルフもかわいかったけど、私はテンション高めのヴォルフのほうが、しっくりくる。

 とにかく、もう『人は忘れる』で、ピアノを弾きながらヴォルフが登場した途端、目が潤んでしまう。『僕こそ音楽』は、愛されることに何の疑いも持たず、幸せに包まれていて、音楽が好きで好きでたまらないヴォルフの気持ちが溢れている。そこにいるのは、ヴォルフ以外の何者でもない。コロレドに譜面を投げ捨てられたヴォルフは、怒りながらも何度も譜面を拾おうとしている。自分の音楽に誇りを持つヴォルフの自然な行動だ。ヴォルフには、音楽が命。生きることが音楽。
『レクイエム』を書けなくて苦しむヴォルフに、もう書かなくていいよって言いたくなるけど、ヴォルフにとって、生きるためには音楽が必要だった。だから、つらくても苦しくても、書き続けるしかなかった。音楽を愛すれば愛するほど、愛する人々を失っていくヴォルフを見ているのが、ひどく悲しくて、それが、ヴォルフが背負ってしまった運命で、業なのかもしれないけれど、音楽と人間との間で、もがき続けるヴォルフを見ているのが、つらかった。天才という名の肖像画のモーツァルトではなく、ただのひとりの生きた人間としてのヴォルフが愛しくて、たまらなかった。
 
 ヴォルフとアマデの関係は、表裏一体で、“愛憎”という言葉が似合う。愛するがゆえに、離れられず、縛られ、「こいつさえいなければ」と憎くなる。最後に、白い羽根ペンを差し出すアマデを見ると、アマデもヴォルフのことを愛してたんだよねと思う。ふたりでひとり、ひとりでふたり。
 
 市村パパは、ヴォルフに対する愛情が深くなってて、すごく泣かされた。ブルク劇場での成功でうぬぼれるヴォルフを一度は両手を広げて抱き締めようとしながら、ヴォルフを叱り、突き放し、ひとりで、むせび泣く。自分の夢を息子に重ねて託したり、自分の手の内に置こうとしたり、そんなこともするけど、でも無茶苦茶、愛が深い。バカ息子のヴォルフが可愛くて可愛くて、しかたない。

 リピーター的には、28マチネは特に小ネタが多かった。
『赤いコート』でのナンネールの真似するヴォルフとか、「また、ツイてたのね」と両手で大きく丸をしたかと思うと、パパの「博打はやめろ」に、手でバツを出すナンネール。
怒って出て行くパパの後を追いかけて、「どうしてわかってくれないんだ!」という場面。何かを投げたら、跳ね返ってきて頭にぶつかったという、ヴォルフのひとりパントマイム。
おトイレシーンでは、コロレドはとうとう「ダメだ・・・」という声まで出して、身悶えしていた。
居酒屋では、「あ、ぴょんと〜」と言いながら跳ぶ、お茶目なシカネーダ。『チョッピリ・オツムに』の最初で、野沢さん演じる肉屋さんと、ヴォルフは抱き合って仲直りしていたのね。
『友達甲斐』で、ベロベロに酔っ払ったシカネーダが、ヴォルフにコンスタンチェとの仲を、「大丈夫か?」と聞くと、余りの酔っ払いっぷりに、ヴォルフは「お前も大丈夫か?」と聞き返す。シカネーダのステッキを杖にして、ヨロヨロと酔っ払いかおじいさんのフリをして遊んでいるヴォルフ・・・アホや(笑)。

 まだまだ、書きたいことは尽きないけれど、長くなったので、このへんで。また後日、思い出して書く・・・つもり。とにかく、ボロ泣きを通り越して、ダダ泣きのMy千秋楽でした。カーテンコールでも、ずっと泣きながら見てた変な人は、この私です。終わったら、タオルハンカチが濡れていた。

6/4に初日を観てから、いっぱい感じて、いっぱい考えた、いい半年間でした。
大楽はまだだけど、とりあえず、「モーツァルト!」カンパニーのみなさん、ありがとうございました!
再々演(いつだ?)では、今度はどんな舞台を見せてくれるのか、楽しみに待っています。

  
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