私 の 故 郷
私には、故郷がない。多分、1943年に生れたということが、そのことの原因の1つであろうかと思う。
赤ん坊のころの、唯一残された写真を見ると、日の丸の旗に囲まれて、タスキ掛けの父と、モンペ姿の母に抱かれた私と、二人の兄が写っている。出生地の兵庫県尼崎市西大島字南ノ口の小さな長屋の借家の前の、再び生きて合えるか否かも判らない、家族総出の写真である。 この日を最後に、母方の祖父に引き取られ、福井県遠敷郡上中村という滋賀県と福井県の県境の村に移り住むことになったらしい。 県境の寒村では、憎まれ盛り、食べ盛りの兄たちとは違って、家の前を通り過ぎる村人達から「健坊」、健坊」と声をかけられ、その返事が可愛いいと、可愛がられていたらしい。ある時は、家の前の渓流を桃太郎の桃のように「ドンブラコー、ドンブラコー」と流されて行って、九死に一生を得たことや、この山村にも敵機が襲来し操縦士の姿が確認できる高さまでの低空を飛んでいったこと、母や兄たちの度肝を冷す出来事の数々もあったらしい。
もちろん、幼かった私の記憶にはそのようなことはまったく残っていない。覚えているのは、かなり遅くまで「お寝小」が直らず、辛い思いをしたこと.....。 物心のついた頃には、父の故郷三重県四日市市の郊外にいた。当時はまだ石油コンビナートもなく、喘息など全く関係のない地方都市で、石原産業の煙突が折れたまま放置されていた。海岸には、多くの海水浴場があり、中には、「霞ヶ浦海水浴場」という入場料の必要なところもあったように記憶している。 しかしながら、小学生の水遊び、鮒釣りには、資金のいらない小川があり、水も豊かに流れていた。兄たちは、橋の欄干から水面に飛び込み、野球道具は学校で準備されているものを使い、子供たちの遊びに資金が必要になることがある等ということは、夢にも思わなかった。 小学校5年生のとき、大阪府八尾市に引っ越して来た。驚いたことには、都会周辺の子供たちには、水遊び・鮒釣りは有料であり、自前のグローブを持っていなければ野球にも参加させてもらえないのである。 中学校を出て直ぐに働きに出た兄に無理を言って、安物のグローブを手に入れ、やっとの思いで仲間に入れてもらった記憶がある。 日暮れを過ぎても家に帰らず、銭湯の湯船に足を浸け、テレビの力道山に声援をおくった少年は、貧しいながらもそれなりに豊かな17歳を迎えました。 昨今の17歳の少年たちに、大人たちが語ってやれる幼年時代は、どのようなものがあるのでしょうか? 育った土地は荒れ放題、右も左も真っ暗闇じゃございませんか? 私の17歳は1960年、あの「安保」の年であります。 以上で中締めとさせていただきますが、機会がありますれば、またの機会に...... その後、慌ただしく、喧騒な大阪の街から夜逃げ同然の姿でこの街に来て、もう28年になる。人生の半分をこの街で過ごしたことになる。
この街が私の故郷ということになるのでありましょうか? 西 脇 健 三