早すぎた維新、若くして散った天誅組の悲劇
 今に残る天誅組の足跡
(堺〜南河内〜五條)
文久3年(1863)8月長州藩勤皇派が天皇の攘夷祈願の大和行幸と称して討幕軍をおこすことを企てた。
これに呼応した吉村寅太郎ら天誅組が先回りして討幕軍を迎えようと京都を出発、淀川を下り、大阪湾から堺へ上陸し、大和へ向かって五条代官所などを襲撃した。
しかしながら、政変により長州藩勤皇派が失脚し、大和行幸が中止となったため、天誅組は追討され壊滅した。(堺の上陸地記念碑の説明板より)

     
文久3年8月16日天誅組堺に着く。総大将中山忠光卿、吉村寅太郎ほか同志38名。 「天誅組上陸繋船の楡」記念碑
一向は狭山を経て水郡邸着、狭山藩、白木藩から物資、武器の献納を受ける。
狭山藩陣屋跡付近。
     
狭山市の報恩寺に駐屯
物資や武器の調達交渉をする。
錦織神社の境内(富田林市甲田)  錦織神社の境内にある河内勢天誅組記念碑(富田林市甲田)
     
水郡(にごり)邸(富田林市甲田)に宿泊。
水郡善之祐はじめ河内勢が合流す。
養楽寺(富田林市甲田)
吉村寅太郎はここに一泊す。

高野街道を観心寺へと向かう。
養楽寺(富田林市甲田)内にある水郡家の墓所。
     
養楽寺(富田林市甲田)内にある森本勝定之碑 三日市の油屋旅館で休憩し観心寺へ向かう。(油屋跡付近) 天誅組の駐屯地、油屋旅館の跡地、ここでも物資や武器を調達した。(河内長野市三日市)
今は建売住宅が建っている。
     
観心寺の楠木正成像(後村上天皇御陵や楠木正成の首塚に参拝) 桜井寺(五条市)に駐屯 8月17日五条代官を討ち取る。
桜井寺(五条市)の首洗い手水鉢。
     
五条代官屋敷跡、当時の形に再現し資料館になっている。 長野一郎記念碑(河南町大ヶ塚)  古市代官屋敷跡、ここで河内出身の天誅組の隊員が厳しく取り調べられた。(吉川冶太夫は捕らえられて、ここに送られる途中で自害した。)
     
伴林光平記念碑(藤井寺市光平氏神社付近) 投げ文の丸窓(伴林光平が逃げ延びる途中、今村文吾宅に迷惑を掛けないため、この丸窓から文と金銭を投げ入れたと言う。)(奈良県安堵町) 仏陀寺前の「天忠組松田重政先生」の碑(太子町)
     
井澤宜庵宅跡の石碑(五條市) 井澤宜庵先生宅跡地(五條市) 伊勢神戸藩の神戸城跡に建つ記念碑(三重県鈴鹿市)
「勤皇烈士吉川冶太夫忠魂碑」

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