国道を横切り、千早川に架かる赤阪大橋から水路への取り込み口を見る。 上に水分神社があり、水を司る神を祀っている。上水分、出会、下水分と厳密な秩序があり、盆踊りや地車などの宮入の順序にいたるまで上の水支配権が優先している。 楠木正成があれほど活躍できたのも、実は水利権を押さえていたからだとの説もある。 横の坂道が下赤坂城跡へと続く甲取坂(カブトリザカ)であるとの説明板が立っている。 この甲取橋(カブトリバシ)の上から水の取り込み口を見る。 ここから取り込んだ水流は勢いよく側溝を流れて、早くも下の川よりも数段高い岐路となっている。 この辺りの村でも、下水道が完備されており、マンホールのふたには「太平記の村の文字、村の木である楠、村の花コゴセユリ、金剛山と菊水の模様」がデザインされている。
石道標は、旧かな使いの文字で「左たきだに道、右とんだばやし道」と書いてある。 地元の人の証言(1)「この地蔵さんの向きは珍しくここだけだそうで、遠くからお参りにくる人があります。」 更に水路に沿った道を行く。地元の功労者「菊井為治郎翁碑」がある。
地元の人の証言(2)「水路の掃除は田植え前に誰か来てしている。水の流れを調べる言うたかて、水は高い所から低い所に流れているに決まっている。あんたら何か魂胆あるのと違うか?もう少し暖かくなるとマムシがでるで。今はまだ大丈夫や。」 水路の両岸はまだ最近の工事のようだがコンクリートで固められている。一部の道は細くなって、草が生い茂っている。所々で人工的に堰(樋、ユルとも言う?)をつくり、水を支流に流したり、又、戻して合流させたりするように巧みに工夫して流している。ポンプでくみ上げるようにしている所もある。 行く手、右側は金剛の山並み、左前方にはPLの平和塔、左後方には嶽山頂上の簡保の宿が見える。
畑田井路の水は寛弘寺、富田林の別井(ベッツイ)、河南町の寺田や白木(今堂=イマンドウ)にも流れる。 夏至が稲作の為に堰を開ける基準日になっているそうだ。
もう一人地元の人の証言(4)「水利については、ずっと昔より続いている慣習による細かい不文律があり法律よりややこしい。5月25日に掃除、6月28日に大水掘り、9月25日に彼岸の水切り。休日に変更して欲しいという人が多いが慣行で変わらない。出られない場合は代理の人を出さねばならない。水路の上にコンクリートを張って道巾を広げてある道路下の溝の場合は、中に入って中腰で掃除をするので当番の人は大変な重労働だ。4・5年前の水不足の折、夜中にバレないように懐中電灯を下に向けて水の流れを変えに来た人が見つかり、水路の中でにらみ合いになったことがある。パトカーまで来たが、どうにもならず、”手だけは出すなよ”と言うだけであった。水の優先順位は江戸時代のルールが今でも不文律として生きている。」 今では、米を作らなければ、補助金が出るような時代ではあるが−−−。 虎ヶ池に至る。 虎屋七兵衛が作ったため池という意味だ。水路はこの虎ヶ池を避けてコの字型に流れている。 たんぼの中を横切り村の入り口にさしかかると、必ず昔流に言う「村のお地蔵さん」がある。 関電の変電所に至る。この辺から水路は広くなっているが、逆に流れは弱まり、水も少し淀んできている。
金剛葛城の峰から石川に至る段丘の高低が良くわかる。 大ヶ塚の寺内町は中世に御坊を中心に発展したそうだが、今では古びた建物と最近の新しい家が混在しており、まとまりがないように思える。 寺内町として代表的な建物(もと酒造業)の前を通る。横から見ると痛みが激しい。 角に石の道標があり、「左、国宝大仏道、右、金剛山道」と書いてある。正面が融通念仏宗(大念仏宗)の大念寺で、このお寺は平野の総本山に次ぐ由緒ある寺らしい。屋根のひさし瓦の狛犬や台石になっている人物石像や立派な鐘つき堂など色々と趣向をこらしてある。となりは善正寺。 お寺の前の道は市場通り。 昔の市が並んだ名残の通り名になっている。門前に比較的新しい地蔵堂がある。 町の角には「日露戦役記念碑」と「土井義蔵頌徳碑」がある。土井翁は庄屋でどういう訳か皇室のお見舞いの記帳に名前が載っている名士らしい。河南町も観光に力を入れているのか「ツール・ド.大阪・ウオーキングコース」の看板が随所にある。河南町の「町の木はさくら、町の花はユリ。」
庄屋であった角の土井家を曲りながら、顕証寺に出る。 途中の道の角は富田林と同じく、見通しの効かない「あて曲げの道」になっている。 顕証寺は町の中心にあり御坊と言われるだけあって、立派なもので、門前の説明板によりと、旧暦の8月1日からの3日間の八朔市が有名らしい。今では9月1日から3日間道路は交通ストップとなり賑やかな市が立つ。門前の鐘楼と高い回廊の本堂は何か時代劇にでも出てきそうな背景を感じさせる。 明治の頃までは東京相撲にも匹敵するほど大阪相撲が盛んで、力士は武士と並ぶ力があったそうで、ここの境内にも力士である都松の墓があった。 その後、東京相撲に吸収されてしまったが、大阪相撲の力士が京都の新撰組とけんかをしたのは有名なエピソード。
石川源氏発祥のいわれを書いた大きな石碑が立っている。横の急な坂を下りて大ヶ塚に別れを告げる。 この坂はかって鉄砲を射ちあって信長軍と戦ったことで有名な坂だそうだ。 坂を下りて富田林を目指す。 国道をしばらく進むと横手の山の中腹、緑の木々の中に顕証寺の屋根だけが大きく見える。 ここからでは、あの緑の木々の森の中に大ヶ塚のような大きな寺内町が存在するとはとても思えない。 しばらく行くと、石川に至る手前の墓地の中に大阪相撲の力士達の墓が数基建っていた。 熊を台石にした「熊鹿毛(クマカゲ)の墓」は一段と大きく立派であった。 北大伴町内にも電柱に「5月3日は下溝掘」と地域の水路掃除の通知板が電柱にかけてあった。 やがて石川にでる。
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