臨床脉診の修得と病理について(1)

はじめに
 漢方理論を基礎とした鍼灸医学の脉診を修得する為には、脉診学の基本論からはじめる事は論ずるまでもない。この様な「脉診学」の基礎習得があってこそ、臨床実践に活用できる臨床脉診の研修が可能となるのである。ただ脉診の技術論ばかりを追求しても余り効果はあらわれないのである。
 では、脉診で何を診るのか。目的は、気血津液を基本とした病証・病理・病因等を踏まえた「証」の診察である。また、治療量(ドーゼ)の目安、治療法の適否、治療結果の判定等、治療に関する全てに活用出来るのである。この様な脉診の修得には、臨床病症の基本となる漢方病理の理解が最も重要となる。表題である「臨床脉診を修得」する為にはなおさらである。

 本論考では、以下の項目について所論を述べる。
1. 脉診文献の多様性と臨床脉診について
2. 鍼灸臨床における病理について
3. 浮沈脉の脉証と病理について
4. 脉状診と脉差診・虚実脉の考察
5. まとめ

1.脉診文献の多様性と臨床脉診について
 漢方医学における脉診法の文献は種々ある。脉診修得の第一関門は、どの様な脉診法を学ぶべきかからはじまる。そこで『素問』『霊枢』に書かれている脉診と難経流の脉診について簡単に考察する。
 私共が行なっている脉診は難経脉診が主体である。『素問』『霊枢』等には様々な脉診法が述べられているがその主なものは三部九候論・脉要精微論・人迎脉口診などに述べられている脉診法である。そこで、これらの脉診法を考察し、更に難経の脉診とはどの様なものであるかを検討してみる。

@『素問』三部九候論に述べられている脉診法
 身体を上部、中部、下部の三部に分けて、上部は頭に中部は手に下部は足に夫々天、人、地と三ケ所づつの脉診部を定めて三部九候としている。
上部
天……「両の額の脈動」「頷厭」「懸鍾」頭の気を診る。
人……「耳の前の脈動」「和?」耳、目の気を診る。
地……「両頬の脈動」「居?」「地倉」「大迎」口、歯の気を診る。
中部
天……「手の太陰経の脈動部」「経渠」肺を診る。
人……「手の少陰なり」「神門」心を診る。
地……「手の陽明なり」「合谷」胸中の気を診る。
下部
天……「足の厥陰なり」「五里」女子は「太衝」を取る。肝を診る。
人……「足の太陰なり」「箕門」胃の気は「衝陽」で診る。脾胃の気を診る。
地……「足の少陰なり」「太谿」腎の気を診る。

『素問』三部九候論は最も古い形の素朴な脉診法で、直接経絡上の脈動を触ることによってその流注する蔵府や組織の状態を知ろうとしたものである。しかし、この脉診法では脉診部位が離れ過ぎている為、局所的診察が主であり、全身の病理を把握することは困難であったと思われる。

A『素問』脉要精微論に述べられている脉診                            
 脉要精微論では、現在と同じ様に手の太陰肺経の脉動部(寸口)だけで身体全体の蔵府や組織を診察する事ができる。しかし、その内容は「難経」の脉診法とは異なっている。
右寸口 外―肺 内―胸中                            
左寸口 外―心 内―?中                                
右関上 外―胃 内―膈                                 
左関上 外―肝 内―?中                                
左右尺中 外―腎 内―腹中

 脉要精微論の蔵府組織の配当は解剖学的な位置関係によって定められており、経絡は配当されていない。これに対して『難経』では形の上ではこれを採用しているが、内容的には蔵府経絡説、陰陽五行説に基づいて藏府経絡の配当がなされている。

B人迎脈口診について                                        
人迎とは胃経の人迎穴の部であり、脈口とは気口とも寸口ともいって脉診している手の太陰肺経の脈動部である。                                  
 人迎と脈口を比較して、三陰三陽のどの経絡に病変があるのかを診察する。            
 人迎……全身の陽気、三陽経と腑、外傷を診る。                        
 脈口(気口、寸口)……全身の陰気、三陰経と臓、内傷を診る。
 人迎脈口診は『素問』『霊枢』を通じて最も秀れた脉診法といえる。『難経』の脉診法はこれらの脉診研究の成果を全て踏まえた精密で最高度に完成された脉診法である。そして現在古典として残されている脈書の主流は「難経」の流れをくむものが主であるといえる。

C『難経』の三部九候論
『難経』の三部九候論については、江戸時代の臨床家が書いた『杉山流三部書』を抜粋して参考にしたい。

『医学節用集』(脉のこと)抜粋                               
《夫れ脉は古は人迎、気口を候うて内傷外感を診るなり、然るに手の三部を以て一部にて浮中沈を候い、上焦中焦下焦五臓六腑を攷へて病の軽重、大過、不及、生死を識る。
三所(寸関尺)に三指を当て浮きては腑の病を候い、押ては臓の病を知り、中に押しては胃の原気を診るなり、是を浮中沈と云う。寸口は上焦、陽にして天に象る、是に由て胸より頭に至るまでの病を候い、関上は中焦、半陽半陰にして人に象る、此の故に胸より臍に至るまでの病を候い、尺中は下焦、陰にして地に象る、故に臍より足に至るまでの病を候う。寸口を陽脉とし尺中を陰脉とす。故に関上は寸口と尺中との間、陰陽の界目と云り。扨て左手の寸口の脉を心、小腸と取り、関上の脉を肝、胆と取り、尺中の脉を腎、膀胱と取るなり。右手の寸口の脉を肺、大腸と取り、関上の脉を脾、胃と取り、尺中の脉を命門、三焦と取るなり。左手の三部にて藏府を診るに、指を軽く浮かせては小腸、胆、膀胱の三腑を候い、指を重く押しては心、肝、腎の三臓を診るなり。右の手の三部にて臓腑を診るに、指を軽く浮かしては大腸、胃、三焦の三臓を診る、指を重く押ては肺、脾、命門の三臓を診るなり。腑は陽なるが故に軽く候い、臓は陰なるが故に重く押と知るべし、陽は外を主り、陰は内を主るが故なり。》

Dその他の脉法
〇胃の気脉について
 胃の気の有無で平脉(健康脉)、病脉、死脉を別ける。              
 胃の気のある脉とは五臓の脉や季節の脉に和緩(潤い、和ぎ緩む)を帯びた脉である。胃の気の充分にある脉は、平人(健康な人)の脉であり、たとえ病脉でも胃の気が多ければ治り易い。胃の気が全くなく純粋に臓の脉を現わすものを真蔵の脉といって死脉とする。
 『素問』玉機真臓論に曰く「五臓は皆気を胃におく、胃は五蔵の本なり、蔵の気は自ら手の太陰に致すこと能わず。必ず胃の気に因りて、乃ち手の太陰に至るなり。」とある。胃の気とは、胃腑の気のことである。口から入った穀物は胃の腑に入って消化され後天の原気が作られる。これが胃の気である。五臓は全て胃の気によって養われている。又、蔵の気は自分では手の太陰に行くことができない、胃の気によって寸口に至ることができる。

〇五臓の脉について
 五臓は独自の脉状を持っている。『難経』四難を参考にすると、心と肺は陽に属し共に浮脉を現す。心の脉は浮、大、散(洪脉)。肺の脉は浮、?、短(毛脉)。肝と腎は陰に属し、共に沈脉を現す。肝の脉は沈、牢、長(弦脉)。腎の脉は沈、濡、実(石脉)。命門は腎に同じ。脾の脉は陰にも陽にも属さないので浮と沈の中間にあり緩脉を現す。
 五臓の正脉とは、健康な状態の脉であり、各臓の脉状が寸、関、尺と夫々の配当された部位に搏つのであるが、胃の気を現す和緩の脉を帯びている為、五臓の脉状がはっきりと現れないものを良とする。
 それに対して病脉は、胃の気が少ない為に脉に艶がなく硬さを増して五臓の脉状の特徴が強く現れ、又、各部位に他の臓の病状が現れたりする。尚、五臓の脉といわれるが臓だけでなく腑も同じ脉状である。難経十難では、腑は微、臓は甚と表現している。

〇菽法脉診について
 菽法とは豆粒の重さのことであり、指の押さえ方を豆粒の重さで表現したものである。
 菽法脉診は、『素問』『霊枢』にも書かれていない古い脉診法であったと思われる。一ケ所の脉を五段階の深さに分けて五臓を診たものであると思われる。       しかし『難経』では寸、関、尺の各部に臓腑が配当されているので次の様になる。
 右寸口 肺 3菽 皮毛の深さ。                              
 左寸口 心 6菽 血脈の深さ。                              
 右関上 脾 9菽 肌肉の深さ。両尺中 腎 命門 15菽 骨の深さ。  

 玉機真臓論に「蔵の気は、自ら手の太陰に至すこと能わず。必ず胃の気に因りて、乃ち手の太陰に至るなり」とある。つまり胃の気のあるところで脈をみる訳ですが、健康な人、或は治療が適切に行なわれた場合には、各臓腑の脉は菽法通りに並んでいる。病脈或は、間違った治療を行なった場合は、菽法通りにならない。菽法脉診は、他の脉状よりも分かり易い為、選経選穴や治療が正しく行なわれたことを確認する時に応用することができる。

〇四時の旺脉について
 春夏秋冬を四時といい、その間の土用を四季という。人間の身体は季節の変化に順応する。その時に搏つ脉を四時の旺脉といい、左右の寸関尺全体に現れる。                                  
 春は肝臓が盛んに働く季節であり肝臓の脉である弦脉を現す。肝臓が主る筋の様な形の脉である。平脉(健康な脉)は胃の気がある為、微弦(微かな弦)となる。病脉は気来ること実強なるを太過といい、病外にあり(外表性の病)、その気来ること虚微を不及といい、病内にある(内傷性の病)。死脉は、胃の気がない為肝臓の脉状そのものの、純弦の脉を現す。新しく張り更えた弓の弦の様な脉である。
 夏は心臓が盛んに働く季節であり鈎脉を現す。心臓の主る血脉の去来に形どる。脉、来る時疾く、去る時遅い。釣針や鈎の様な形になるので鈎脉という。平脉は胃の気がある為、微鈎となる。病脉は、実強なるを太過といい病外にあり。虚微なるを不及といって病は内にある。死脉は、胃の気がない為、純鈎脉となる。帯鈎(おびかぎ)の様な脉である。
 秋は肺臓が盛んに働く季節であり毛脉を現す。肺臓は皮毛を主る。毛の様な形の毛脉を現す。病脉は実強なるを太過といい、病外にあり。虚微なるを不及といって病は内にある。死脉は、純毛の脉となる。風の毛を吹く如き脉である。
 冬は腎臓が盛んに働く季節であり石脉を現す。腎臓の主る骨の様に硬く沈んだ脉を石脉という。平脉は胃の気がある為、微石となる。病脉は実強なるを太過といい、病外にあり。虚微なるを不及といい病内にある。死脉は、胃の気がない為、純石となり、来る時解索の如く去る時弾石の如くなる脉である。
 四季(土用、長夏)は脾臓が盛んに働く季節であり緩脉を現す。他の季節の脉が現れた場合は次の様になる。過ぎ去った季節の脉を現す。これを虚邪という。この時は今の季節の臓とその母の臓とを補う。又、時期が来ていないのに次に来るべき季節の脉を現す。これを実邪という。今の季節の臓と子の臓を瀉す。相剋的に勝つ所の季節の脉を現す。これを微邪という。治療しなくとも治る場合と相剋なので治り難い場合とがある。相剋的に勝ざる所の季節の脉を現す。これを財邪といって病は重く治り難い。四時の始まりは、立春、立夏、立秋、立冬であり最後の十八日間が土用である。 (つづく)