◆研究 脉状と脉証の臨床考察-3 |
今回は遅数脉論である。祖脉の中でも浮・沈・遅・数、この四つの脉状の組合せは基本的な病理の解明・把握のために重要である。特に、寒熱論を決定付けるのは遅数脉論だろうと思われる。そして滑ホ脉論は端的にいえば予後判定論ということになる。 ●遅脉について 1、遅脉総論 遅脉には慢性的に移行した病症が多い。沈・虚がからんで重篤な病脉となることもあり、一般的に回復に時間がかかることを覚悟するべきである。遅脉=冷えということは気血の循が悪いということであり、最終的には結滞が加わって死脉となるのである。治療に温補法は有効である。 古典の関連文献をあげる。 「医家が脉を診せば己が息数を均えて、吾が一息の間に病者の脉至る事その動数如何と察す。およそ医は病まずして、息数常なるものなり。故に医の息数を以て病者の脉数と合しめその進退遅速の数を知る、これ内経の旨知らざるべからざるものなり」(『脉法指南』) ここでは遅脉は牢(かた)いと表現しているが、これはやはり気血の流れが悪くなって冷えに通ずる脉であるから、実際良く診ればそうでもなくても牢く見える脉というのだろう。そして重按して診ろともいっている。しかし遅脉は確かに陰の部位に多いだろうが、浮いた脉もある、つまり陽の部の冷えもあるので、ここは修正して読んだ方が良い。 「人迎と相応ずるときは湿寒凝滞す。気口と相応ずるときは虚冷沈積す」 (『脉法手引草』) 「遅脉は腎虚して安からず。又陽虚裏寒とす。外に冷症をあらはす。三部遅の見わるる所にて、上中下三焦のうち寒冷いずれぞと弁えしるべし」 (『脉法手引草』) ※臨床→裏虚(寒) 陰の冷え病症 「遅は臓を主る、力有るは冷痛、力無きは虚寒、浮いて遅いは表寒、沈んで遅いは裏寒」「遅の来るや一息に至るやこれ三、陽陰に勝たずして気血寒す。ただ浮沈をとって表裏を分かち、陰を消するにすべからく火の原を益すべし」 (『瀕湖脉学』) 要するに遅脉は陰・臓を主るというところに基本を置いて、その脉が力ある時は陰の臓が冷えて痛んでいるし、無力の時は痛みが無くとも冷えて滞っている。浮いて遅ければ表に、沈んで遅ければ裏に冷えが入っている。また、「火の原」とは陽気と理解し、「表裏を分かち」とは「陰陽ともに」と解釈するとこの文章はわかりやすいと思う。だから「冷えは遅を呈する」というのは陽気少ない厥冷の証であり、遅脉は色々な病理状態はあれど結論として冷えを表すということである。治療は陽気の補が基本となる。 「遅は不及なり。至数を以ってこれをいわば、呼吸の間に脉わずかに三至、平脉に通ずること一至なり。陰盛陽虚の候と為す。寒と為す、不足と為す、浮にして遅は表に寒あり、沈にして遅は裏に寒あり」 (『診家枢要』) 2、遅脉の病位について 3、遅脉の病因病理について A 寒・湿の停滞 B 血の停滞 それが臓の冷えから来るということであるなら治療法も冷えを温める方向にもっていけば良い。ツボもそういう選穴をするし、時によれば直接温めても良い。臍灸も人参湯もそういう意味で効果的である。たとえば、脉が沈遅虚で下半身特に大腿部外側の掌大の局所が冷えるというのが、臍灸をしていると冷えが取れてくる。また、しつこい冷え性は血の停滞から陰実の脉と関わってくるが、手足が温まり腹も温まるというような病症の変化に伴い、遅脉が取れてくるとか遅脉の沈の部位が若干浮いてきたりするものだし、逆に脉が改善するに従って病症の経過に変化が必ず出てくるものである。 ●数脉について 1、数脉総論 数脉は遅脉に比べて病症経過が良い。遅脉の改善は難しい場合が多いが、数脉は体質的なものでない限り必ず落ち着くし、驚くほど良い脉になりやすい。ただし沈虚数には要注意。小児は数脉が正常である。もちろんこの数脉には艶がある。むしろ滑脉に近い。 古典文献をあげる。 一呼吸に六拍を数脉とする。そして、人迎(左関前一分)が数だと外因の風邪や燥邪による病理状態を、気口(右関前一分)に数脉を呈する場合は、内因による陰虚の虚熱が陽に出てきて盛んになっている状態を表す。風・燥邪とはどういう病症のものかといえば、要するに津液が不足した状態である。具体的には咽喉が渇く、皮膚がかゆい、手足が厥冷することもあるだろう。土台として陰虚があってそこに風邪や燥邪が入っているのだから、その陰虚を治療することになる。このとき脉が実数か虚数かによって、陽経を瀉すか瀉さないかが出てくる。虚数なら陰経を補えば陽経の邪と見えたものがひっこんで綺麗な脉になり病症が緩解する。実数には瀉法が必要である。 人迎気口というのはうまく考えられていて、内傷無ければ外邪入らずという事で、どんな病症にも必ず内傷はある、ただ内外どちらにウェイトを置くかということだから、ここから後は個人個人の治療のやり方によって違ってくる。たとえば『難経』の考え方や日本の漢方でいえば吉益東洞の古方派は邪を叩くことにウェイトを置いている。そして後藤艮山や曲直瀬道三の流れを汲む後世派的な考えでは生命力を強化することに重点をおくのである。このように病気の見方というのは治療家ごとのセンスがあるから、どちらが良い悪いとはいえないが、基本を押えてそこから議論を始めることに大いなる意義があるといえるだろう。 さて、数は陽脉であり、熱があるとき(陽実)に現れる脉である。病症としては狂症や煩症(陽症・熱症)がある。これは風邪や燥邪に冒されているのである。煩症とは胸に何か詰まってもやもやした状態。昨今問題の十七歳の犯罪もこれであろう。また、最近の若者は飲み過ぎと思えるほど水をよく飲むが、これは体を冷やす。にもかかわらず脉が浮数なら、それは脉症不一致で重症と考えられないこともない。 「息間に六七至なり。陽と為し熱と為し火と為し燥と為す」 (『脉法指南』) 「数で力あるは熱と為す、数にして力無きは瘡又は腫物と為す」 (『増補脉論口訣』) 2、数脉の病症 浮数虚は陰経の処置で改善する程度の病症、いわゆる虚熱である。 沈数実は府か蔵に実熱を持っている。特に胃が熱を持ちやすい。 左寸口心脉の沈数実は心熱。腎虚で治療。 沈数虚は蔵に問題がある。蔵の中の陽気が虚したために、元陽が表に浮かんできて数を呈していると診る。三焦の原気不足の脉証で、後には遅脉に移行していく陽虚証的なタイプである。これも注意を要する脉状だが臨床室には多い。 ちなみに数脉と滑脉は似ている。滑脉も数脉と同じように熱を現すのである。この二つの脉状が病理的にはどう異なるのか。これを臨床の場を想定しながら考えていくと、今まで難しいと思っていた脉状が意外とわかりやすくなるのではないかと思う。 この二つの脉状の病理的違いはどこにあるかというと、数脉は府の熱であるのに対して、滑脉は藏の熱である。そして、数脉の場合は体温計で計ると実際熱があるが、滑脉の場合は体温計でいう熱はない。どちらも病症としては熱を現すのである。これは、どこの本にも記述がない仮説なのだが、ほぼ間違いないと思われる。 3、数脉の病因と病理 @ 外邪 A 飲食 B 睡眠不足 C 労倦 病症としては、頸肩の凝り、皮膚乾燥、口渇、頭重、咳などで、患者は意外と感冒と勘違いして風邪薬を飲んでいる事が多い。風邪は外感・労倦は内傷だから人迎気口脉診で見分けがつくし、それを念頭においてもう一度問診を繰り返すと、労倦の病因がぞろぞろ出てくるものだ。「労は腎労なり」という言葉もあるとおり、労倦といえばまず腎が絡む。もちろん脉は浮数である。肝虚、脾虚も多い。陰から充分補うと気分が良くなるものである。 脉症不一致の例として、熱・虚熱の病症がないのに数脉を現している場合は要注意である。特に沈緊数あるいは虚細数脉には重篤な病症が隠れている場合が多い。逆に、ガンや重篤な内臓病症の患者が来たら、陰の脉をよく診ると良い。高血圧なら左寸口、腎炎やネフローゼで透析をしているようなら尺中、陰にこもった変な咳をしているなら右寸口を沈めたところにそういう堅い脉状がないか、というようによくよく探ってみると、今まで見逃していた脉状を発見することがあるだろう。脉症不一致を見逃さないことによって、表面に現れている症状だけではなく、内に潜んでいるものまでも見出すことができるのが、脉診であると思う。その意味で「脉診とは確認である」と言えるだろう。 (次号につづく)
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