◆朝日新聞より転載 [患者を生きる・バックナンバー]

      シリーズ  患者を生きる

     <患者を生きる-9> うつ 現代型−1

       

うつ病患者の復職


援助プログラム、まだ少なく

 仕事が終わるにはまだ早い、午後4時半過ぎ。

 官庁や大手企業が並ぶ東京・虎ノ門のビルから、20〜30代の男女が次々と出てくる。精神科のクリニック「メディカルケア虎ノ門」で、復職のためのデイケアに通ううつ病患者たちだ。
 立地柄、ほとんどが会社員。それも、「現代型」といわれる患者が多い。「まじめな人」がなりやすい従来のうつ病とは違い、「会社が悪い、上司がひどい、親の理解がない」などと他人のせいにし、社会のルールをストレスと感じるタイプ。五十嵐良雄院長(56)は、こうした患者が増えてきたと感じている。

 東京都内に住む矢田幸秀さん(39)=仮名=は、昨年9月から半年間、この復職デイケアに参加し、今年4月に職場復帰を果たした。今も月に2度の通院が続くが、欠勤は一度もない。「最初は1カ月間で戻るつもりでした」
 矢田さんが初めてうつ病になったのは、十数年前にさかのぼる。
 中学から大学院まで同じ系列の私立学校に通い、大手都市銀行に就職。半年後、希望した研究職となり、市場動向調査などを担当した。もともと人づき合いは苦手な方だったが、上司に気に入られ、順調だった。
 だがその上司が異動すると、環境は一転した。仕事を回してもらえない。手伝いを申し出ても無視される。これらが続くうちに、いらいらや絶望感が続くようになった。
 だんだん、朝起きるのがつらくなってきた。会社はフリータイム制で、昼過ぎに出社しても目立たなかったが、「何とかして欲しい」と会社の産業医を訪ねた。診断名は「自律神経失調症」だったが、今では当時から「うつ病」だったと思っている。精神科医を紹介され、抗うつ薬を服用した。カウンセリングにも通うようになった。
 1カ月、半年と休職を繰り返しても、良くならなかった。両親との3人暮らし。うつ状態を理解できない父親からは、「将来どうするんだ」と怒鳴られた。
 カウンセラーは「好きなことを話して下さい」と言うだけだった。何を話していいのかわからず、毎週1時間、沈黙のまま帰る状態が、2年以上続いた。

◇転職、順調 上司が代わり再び
 東京都内の銀行員矢田幸秀さんは約10年前、職場での人間関係につまずいたことで、うつ病を発病し、休職を繰り返すようになった。
 仕事を休んでいても、月1回は人事部に顔を出し近況を伝えた。「無理せず治しなさい」と言われたが、「早く戻らないと、席が無くなってしまう」と焦りが募った。
 そんな状態が3年ほど続いたある日、転機が訪れた。

 「このままどうなっちゃうんだろう」と、漠然と考え始めた。「自分がやりたいことは何だろう」「誰のために生きているんだろう」……。そして、父親の評価ばかりを気にして、言われたことだけをやってきた自分に気づいた。
 小さい頃から「いい学校、いい会社」と言われ、何の疑問も持たずに敷かれたレールの上を走ってきた。学校も、就職先も父親が決めた。
 だから、「自分の仕事」という感覚は薄く、会社に行けないのも「しょうがない」と思っていた。今の銀行に戻っても、仕事は不良債権の回収担当だ。それは自分のやりたいことではない。

◇「会社をやめよう」
 そう思った瞬間、うつの状態から、スーッと抜け出た気がした。ずっと悩まされていた胃痛も治まった。カウンセラーに話すと、「もう大丈夫ですよ」と言われた。
 父親からは猛反対を受けたが、銀行を退職、人材紹介会社に登録した。再就職が難しくなると考え、うつ病で休職したことは申告しなかった。

 00年6月、情報サービス会社への再就職が決まった。給料は銀行と比べると3〜4割ダウンだが、ネットワークシステム構築という仕事は向いていると思った。

 最初の2〜3年は、周囲も驚くほど成果を出した。だが、その後の人事異動で、新しい上司とウマが合わず、衝突するようになった。
 矢田さんは仕事の計画を自分で組み立て、一人で進めたいタイプだったが、上司は重箱の隅をつつくように細かく注意してきた。上司との関係が悪くなると、同僚たちも足を引っ張り始めたような気がした。「ねたみを買っていたんだと思います」
 酒で紛らわせようと毎晩、一人で居酒屋に通った。朝起きられなくなり、仕事の能率も落ちてきた。そして、2度目の挫折につき進む。

(文・岡崎明子)