◆朝日新聞より転載 [患者を生きる・バックナンバー]

      シリーズ  患者を生きる

     <患者を生きる-2> 

       
うつ 高島忠夫さんを支えて(下)

先見えず不安

高島忠夫(たかしま・ただお)
寿美花代(すみ・はなよ)

 

 99年9月、高島忠夫さん(75)は家族4人で出演する旅番組のロケで、妻の寿美花代(すみ・はなよ)さん(74)や息子たちとともに成田空港から米フロリダ州に向かった。その1年前にうつ病と診断され、治療に専念し、仕事に復帰していた。

 しかし、高島さんの体調は、10時間のフライトで異変をきたしていた。
 機内にいる間から、手足が震え始めた。極度の疲労感と脱力感。10日間の撮影を何とか終えたが、心身ともにくたくただった。
 帰国後、一日中、パジャマ姿で家の中にいるだけの生活に戻った。家族との会話も減り、天井や壁の一点を見つめ続けるだけの日々が続いた。

 寿美さんにとって、体力も気力も限界に達しつつあった。朝、起きようとしたら、体が重くて起きあがれなかった。足の先から首まで鉛を詰められたようで、夫の主治医に薬を処方してもらった。「うつ病の初期症状だったのかも知れません」
 前年からの看病は、緊張の連続だった。「いつまで続くのか」「本当に治るのか」。先が見えず、不安だった。
 仕事を終えて家の近くまで戻ると、決まって涙がこぼれた。夫に泣き顔は見せられない。家に着くと洗面所に駆け込んで顔を洗い、めがねをかけて口紅を塗る。「ただいま」と、笑顔でリビングに戻る。その繰り返しだった。
 話し相手になってくれたのが近くに住む四つ年下の妹だった。「電話で昔の話をしていると、自然に笑いが出て元気が出てきたものです」

 それでも、ストレスは日々たまっていく。やがて寿美さんは1冊のノートに自分の気持ちを書き綴(つづ)るようになった。「何で私がこんな目に遭うの」「バカバカバカ」……。書いているうちに不思議と気持ちが落ち着いていった。夜、怒りにまかせて鉛筆を走らせ、芯が折れてしまったこともある。
 病院でのカウンセリングも受けた。初めての時は、医師の前で1時間近く、ただただ泣き続けた。黙って聞いてくれた医師から、「また来て下さい」といわれ、帰りに病院近くにある喫茶店に立ち寄るように勧められた。

 「そのお店でケーキを食べたら、本当においしくて。また明日から頑張ろうっていう気持ちになれたんです」
 夫を支えるには自分も元気でいなくては。次第にそう思えるようになっていった。母の死、3年後に打ち明けた
 高島忠夫さんのうつ病は長引いた。妻の寿美花代さんが、支え続けたが、治りかけると再発。発病してから2年以上がたっていた。

 00年11月、入院していた高島さんの母が危篤という知らせが入った。伝えるべきか――。家族は悩んだ。当時の主治医は「絶対に会わせないように」と忠告した。喪失感から、後追い自殺をしたり、病状が悪化したりする恐れがあるとの理由だった。寿美さんは隠し通すことにした。
 亡くなった後の葬儀は密葬となり、息子2人は出席したが、寿美さんは出なかった。線香のにおいを夫に気づかれるのが怖かったからだ。

 それから毎年、母の日が来るのがつらかった。息子たちから贈られた花束は部屋の隅に隠した。決まって贈り物をしていた夫に、母の様子を聞かれると困ると思った。
 寿美さんは「早く打ち明けたかった。でも、病状を考えると切り出せなかった」と、思い返す。
 現在の主治医と相談し、ようやく伝えることができたのは03年の夏だった。
 政宏さん、政伸さんが食卓につき、寿美さんが高島さんを呼んで切り出した。

 息子たちが説明した。「実はおばあちゃんは、3年前の11月3日に亡くなっているんだ」「最期は苦しみもなく、眠るように旅立った」
 寿美さんが続けた。「相談しないで密葬にしたことも許してね。内証にしているのは本当につらかった」
 高島さんは表情を変えずに、黙って聞いていた。そして、「墓参りがしたいな」とポツリと言った。改めて家族で供養をした。

 高島さんは振り返る。「一番つらかった時期に聞いていたら、どうなっていたか分からない。家族は大変だったと思いますが、配慮してくれて本当に良かった」
 家族の思いに支えられ、高島さんは徐々に元気を取り戻した。03年秋からはテレビにも復帰した。
 今でも毎日、抗うつ剤を飲む。トレーニングジムに通って運動し、自宅のスタジオでピアノや発声の練習も続けている。いずれは自分のライブをするのが夢だ。

 「うつ病を克服しようと焦らず、気長につきあっていこうと思ってます。家族や友達、先生。僕には支えてくれる人がたくさんいますから」
 力強い表情があった。

(文・前田育穂)