◆朝日新聞より転載 [患者を生きる・バックナンバー]

      シリーズ  患者を生きる

     <患者を生きる-5> 

       
うつ 妻の重荷:下


夫の「おい」にどきっと、心の隅に恐怖

 


 「いらっしゃいませ」

 夫と営む近畿地方の理容店で、島田玲子さん(62)=仮名=は明るく常連客を迎える。話し好きで聞き上手。そんな島田さんがうつ病を患い、笑顔を失ったのは、周囲の人にとって驚きだった。

 恋愛結婚だった。けれど、結婚と同時に理容店を開くと、「のんびりした人」と思っていた夫が変わった。「お客さんにもっと明るくあいさつできんかい」「口の利き方が悪い」。意にそわないと、手を上げることもあった。
 心の支えになったのは、離れて暮らす夫の母が味方になってくれたこと。電話で悩みを打ち明けると、郷里からやってきて息子をしかり、たまらず実家に帰った時には、夫を連れて謝りにきてくれた。そこで、「今後、暴力は振るわない」と一筆書いて以来、手を上げられたことはない。
 それでも、どこかで夫への遠慮や恐怖心を抱えて生きてきたと思う。仕事柄、普通の夫婦よりも一緒にいる時間は長い。語気の荒い夫に「おい」と声をかけられるだけでどきっとする。怒られないよう、夫に逆らわない。友達や客が相手ならポンポン出る言葉が、夫の前だと続かない。

 一方で、友だちに慕われ、まじめに仕事をする様子に頼もしさを感じてもいた。店の経営も順調だった。「あとは、この人にほんの少しの優しさがありさえすれば」
 体の変調を感じたのは00年、55歳の時だ。体を倦怠(けんたい)感が覆い、やる気が出ない。内科で胃薬や睡眠薬をもらったが良くならなかった。
 実は通院を始めた時、「うつ病では」と一瞬頭をよぎっていた。実母が患ったことがあった。うつと分かったのは同じ55歳の時だった。「おとなしい性格の母と違い、私は陽気。うつになるはずがない」。頭の中でかき消した。
 だが、ベッドに入っても眠れない。テレビを見ても面白いと思えない。できることなら一日中寝ていたい。あのころの母にあまりに似ていた。

 「私、うつ病なんじゃないでしょうか」。2年通った末に内科の医師に尋ねると、「気にすると思ったから言わなかったけど、たぶんそうだと思います」。
 近くに住む娘に診療所選びを手伝ってもらい精神科を訪ねた。「そんなところに行ってよくなるのか」。半信半疑の夫を前に「行かなあかん」と娘が後押ししてくれた。

 発病で変わった夫、2人の関係も前進

 近畿地方で夫と理容店を営む島田玲子さんは、胃の不快感、不眠などに悩むようになって2年後、精神科の診療所を訪れた。

 「教科書通りの典型的なうつ病ですよ」。そう話す医師を前に、島田さんは「本当ですか」といぶかった。以前この病気にかかった、おとなしい母と自分は性格が違う。
 医師は付き添いの娘に尋ねた。「お母さんは普段からこんな感じですか」「いえ、違います。以前はもっと明るい感じの母でした」
 抗うつ剤と安定剤、睡眠薬が処方された。週に1度の通院を始めると、「主人がこんなことで怒って」「主人が冷たくて」と、夫への不満を口にするようになった。「こんなこと思っていたんだ」と自分でも驚くほどだった。

 結婚して家を出ていた娘は「お父さんと離婚して、うちで一緒に暮らしてもいい」と言ってくれた。しかし、思いとどまった。子育て中の娘に迷惑をかけるのが嫌だった。
 店では、女性客はすべて島田さんが担当する。1人終えるごとに、倒れるように店の裏手の自宅に戻り、ベッドに横になる日々が続いた。
 「あんたのために、こんなになったんや」。島田さんが夫に言ったのは、通院を始めてしばらくたったころ。長年の不満が爆発した。夫は顔を上げず、「先生がそう言ったんか」とだけ言った。

 そのころからだ。夫が変わり始めた。「男がスーパーになんか行くか」と言い、一切家事をしたことがなかった人が空っぽの冷蔵庫を見て、買い出しに行くようになった。食事も作り、果物やジュースしかのどを通らない妻のため好物を枕元に置いてくれた。

 いつしか、以前は「おい」だった呼びかけが、「お母さん」に変わった。それに気づいた島田さんも「あんた」を「お父さん」に改めた。
 好不調の波を経て、病状は昨年初めから落ち着いている。夫が、面と向かって病気のことを振り返ることはない。語気の荒さも変わらない。けれど、客相手に「お母さんが元気になってくれてよかった」と話すのは、耳に入る。今も台所に立ち、洗濯物を取り込むこともある。

 島田さんは、思う。「つらい病気が、私たちを少し、前向きに変えてくれた。夫婦に100点満点なんてありえませんけどね」

(文・松尾由紀)