◆朝日新聞より転載 [患者を生きる・バックナンバー]

      シリーズ  患者を生きる

     <患者を生きる-4> 

       
うつ 妻の重荷:上


やっぱり私、病気だったんだ

 


 「うつ病ですね」

 大阪府内の精神科診療所で病名を告げられ、府内の主婦三村藍さん(46)=仮名=の胸には安堵(あんど)感がわいた。99年6月。眠れず、食べられない。理由のわからない不安感で、胸がいっぱいになる。思い当たる原因のないことが不安に拍車をかけていた。「やっぱり私、病気だったんだ」

 異変が始まったのは1年余り前だった。当時中学1年と小学3年の男の子を育てていて98年春、次男が通う小学校のPTA役員を引き受けた。
 小学校では「子ども1人につき6年間に1度は役員をする」という決まりがあった。広報担当を選んだのは、読書や文章を書くことが好きだったからだ。社交的ではない自分に向いていると思った。
 各学年から1人、計6人の母親たちの仕事は年4回、PTA向けの学校新聞を作ること。専業主婦は三村さんともう1人だけで、学校行事の取材がどんどん割り振られた。多い時は週1度取材に行き、家でイラスト描きもした。
 母親たちは、会合では仲良く笑いあっている。なのに個別に顔を合わせると、いない人の悪口を言い合った。「そんなこと言うものじゃないのに」と、思っても言えなかった。「私がいないところでは私の悪口を言っているんだろう」と思うと怖くもなった。
 役員になって1、2カ月たつと、胃の調子が悪くなり、寝付けなくなった。受診した婦人科では「更年期障害」と言われた。内科で胃腸を調べても原因はわからなかった。
 会社員の夫(54)は、家事や育児、近所づきあいは妻に任せるタイプ。卵アレルギーやアトピーに悩まされた息子たちのため、専門書で勉強して卵抜きの料理を考えた。悩みながらも、しっかり家庭を守ろうとしてきた。

 1年後、PTAの任期が終わった。とたんに症状がひどくなった。不眠、食欲不振に加え、昼間1人でいると不安感に襲われた。「嫌だったPTAが終わった。もう負担になることなんかないのに」  ある日、テレビドラマで「心療内科」という言葉を初めて知った。「私も行かなきゃ」。誰にも相談せず訪ねた診療所で「うつ病」と診断されたのは、その翌日だった。

 しんどくても、料理が愛情表現

 PTA役員を引き受けたことをきっかけに、不眠や不安感に襲われた大阪府の主婦三村藍さんは99年6月、精神科でうつ病と診断された。表情が硬く、ほとんどしゃべらない様子に、医師は「気持ちが表現できないほど悪い状態」と感じた。
 抗うつ剤と安定剤、睡眠薬が処方されたが、眠りにつけるのは朝刊が届く音を聞いてから。それでも、夫と中学生の長男の弁当を作るために午前6時半から台所に立った。体がだるく、布団から出られない時間が増えた。人と会うのが嫌で、外出も減った。
 摂食障害がひどくなり、10月、主治医に紹介された病院の精神科に入院したが、夫と子どもを残したことが気がかりだった。3週間後に退院すると、今度は昼間、家に一人でいることが不安でたまらない。「消えてなくなりたい。死んでしまいたい」という思いが頭をぐるぐる回り、布団から出ることができなくなった。「一人になりたくない」
 数日後、府内の実家に帰った。両親は「情けない」と怒り、「母親なんだから頑張りなさい」と励ます。「頑張りたくても頑張れない」とさえ言えず、1カ月後、夫と子どもたちが待つ家に戻った。

 その後、病状は大きくは変わらず、処方された様々な薬はなかなか合わなかった。
 朝、弁当を作って布団に戻る。体調と相談しながら、洗濯をする。夕食を作る午後5時が来るのが嫌だった。献立が浮かばない。きちんと作れるかどうかも不安だった。
 月曜は焼き魚と小松菜の煮物、火曜はカレー……。2週間分の夕食献立表を作り、使い回した。しんどくても「料理は私の愛情表現だ」と弁当と夕食は意地で作り続けた。 初診時に小学4年だった次男は、闘病が続く02年、中学生になった。卒業式も中学の入学式も行けなかった。

 「うつは必ず治る」という主治医の言葉を信じる夫は、休日に家事を手伝う。子どもたちが母を責めるでもない。
 それでも「ほかの親が当たり前のようにやっていることは、きちんとしたい」。布団の中でも書き続けた日記には、歯がゆさがあふれた。
 「うつ病」の診断から3年余りたった02年9月。団地の4階にある自宅ベランダで洗濯物を取り込むと、ふらふらとベランダに戻っていった。ふいに身を乗り出し、左足を腰の上ほどの高さがあるさくにかけた。


 自伝を出版「特別な病気じゃない」

 大阪府の主婦三村藍さんがうつ病と診断されて3年余り。病状は好転しない。02年9月、発作的に団地の4階にある自宅のベランダから身を乗り出した。
 左足をさくにかけ、体重を外側に動かし始めた時だった。「ガシャン」。玄関の金属製のドアが閉まる音が聞こえた。高校生の長男が帰宅していた。とっさに落ちかけていた体を引き戻した。

 「私、何しているんだろう」。我に返り、死がそこにあったことに恐怖を感じた。「死ぬってこんなに怖いことなんだ」。布団の中で「消えてなくなりたい。死にたい」と思い続けたのに初めて「死んではいけない」と思った。
 この経験で、気持ちに変化が出てきた。定期的に診察に通い、薬も飲んでいたが、「もっとしっかり、先生と向き合おう」と思えた。

 翌10月、主治医の指導で薬の飲み方を変えた。不眠を治すため、それまで朝飲んでいた薬を夜飲むようにした。
 これが効果があったと、三村さんは思っている。10日ほどで、体の重さが抜けてきた。昼間の眠気は残ったものの、少しずつ夜眠れる時間が増えた。思うように掃除ができるようになった。
 数年ぶりに化粧水を買った。新聞で知った無添加製品の通信販売。昼間、居間に座ってぴちゃぴちゃほおにつけると「化粧する余裕があるんだ」とうれしくなった。年末には数年ぶりにお煮染めを、年が明けると雑煮を作った。
 3年余り、半分寝たきりのような生活を送ったため、体力はなかなか戻らなかった。自転車に乗るとよたよたし、出かけた翌日には疲れが出た。しかし、次第にそれもなくなっていった。

 暮らしが落ち着くと、闘病中の思いを含めた自伝を3日で書き上げた。思い切って自費出版したのは、同じ病で悩む人に、少しでも役に立てばと思ったからだ。
 診療所で、多くの人たちが同じ病気で苦しんでいるのを知った。「特別な病気じゃない」と思う。一方で、離れて暮らす夫の両親には、最後までうつ病のことを言えなかった。「精神病」に対する偏見が怖く、「更年期障害で寝込んでいる」で通した。
 今も、月1度は診療所に通う。「ホームドラマの最終回みたいに、すべてが良好、なんてありえない。でも、うつは必ず治ると信じてほしい」

(文・松尾由紀)