◆お脉を拝見・・・   正岡子規さん

 

今月は正岡子規さんのお脉を拝見する。

 子規の生涯は36年という短いものであった。しかし、子規の生き様は壮絶そのものであり、見事に燃焼した一生であったと私は心底そう思っている。

子規の墓は田端の大竜寺にある。そこに、子規自身が生前に書いた墓誌が添えられている。これは、子規没後33回忌となる昭和9年に建てられたものである。
『正岡常規マタノ名ハ処之助マタノ名ハ昇マタノ名ハ子規マタノ名ハダツ祭書屋主人マタノ名ハ竹ノ里人。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太松山藩御馬廻加番タリ。卒ス。母大原氏ニ養ハル。日本新聞社員タリ。明治3□年□月□日没ス。享年3□。月給40円。』 子規の一生はほぼこの墓誌の中に尽くされているように思う。

 子規。本名を正岡常規といい慶応3(1867)年に四国・松山で生れる。翌年に明治と改元された。少年期に漢詩文を学び、やがて東京に遊学する。野球に熱中し喀血。進路を好きな文学に定め、やがて新聞社に入社。新聞という最新のメディアに依拠して俳句・短歌の革新、写生文の提唱という画期的な仕事をなしとげる。  

 子規が行った俳句の革新は、写生という方法によって発想や表現の類型化した月並み俳句を打破した。また、「俳句分類」という仕事を通して埋もれていた与謝蕪村を発見した。

 当時の俳句界は松尾芭蕉の独壇場であった。芭蕉の俳句は、哲学的・思索的であり、創作も理論(俳論)を基にし理路整然としていた。対する蕪村の俳句は、理論などなく作者の誌的直感に負うものであった。このような創作態度はより近代的であり革新的な句に繋がっていくのである。子規は実証的に仕事をし蕪村のすばらしさを発見したのである。これは偉大なことである。

 子規が短歌の革新に取り組んだのはカリエスが悪化し、ほとんど寝たきりの生活を強いられた時期である。子規は病身を鼓舞し、新聞「日本」に『歌詠みに与える書』を発表する。その中で「近来和歌は一向に振い申さず・・・・貫之は下手な歌詠みにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候」と大胆に当時の和歌や有名な歌人を批判した。かわりに『万葉集』を持ち上げた。子規は全てにおいて実証的である。すぐに写生による短歌を作り始めた。子規のこのような仕事によって閉塞状態にあった短歌はくびきから脱したともいえる。

 それまで王朝風の風景ばかり詠んでいたものが近代的な文芸に変身したのである。しかし、残念な事に子規の人生は余りにも短かすぎた。 私は、根岸にある「子規庵」を訪ねるのが好きである。「子規庵」は55坪ばかりの広さしかないが、ここは子規が27歳より死ぬまでの8年余を母八重・妹律とともに過ごした場所である。ここには子規が愛した、また生きるはげみとなった「庭」が保存されている。

 子規は晩年の7年ぐらいは寝たきりの生活を余儀なくされた。ここで「病床六尺」「墨汁一滴」「仰臥漫録」等の随筆が執筆された。また、子規はこの庭に咲く草花により生かされたのである。私は「子規庵」を訪ねるたびに、子規の壮絶とも言える生き様に思いをはせる。そして、1、2時間を何となく過ごしてしまう。帰りには「笹の雪」の豆腐料理を楽しむのが何とも言えぬ至福の時間となった。

 さて子規を苦しめた「結核」について考察したい。「結核」は肺をはじめ体の臓器、骨、関節、皮膚などに発症する。江戸時代には「勞咳」と言われていたが明治になり伝染が増え、死亡率も常に上位であった。子規は結核が進行し晩年には「脊椎カリエス」となり背中に瘻孔(体の中に溜まった膿が自然に皮膚を破って出来た穴。死の門とも言う)が数多く出来、大変な苦痛を伴ったとされている。

 勞咳は「勞祭」ともいわれる。鍼灸重宝記に『これは現代の開放性で伝染の激しい結核である。体が弱いのに心腎を勞しすぎてこの病を発症する。心は血を蔵し、腎は精を宿す。心腎を労する故に精も血も不足し、相火が高ぶり、咳・吐血・遺精・寝汗・悪寒発熱・虚熱・不食・五心煩熱・消痩等の病症を発する。病が陰である故に夕方に発熱等の病症が激しく現れる・・・・。』とある。治療は潤陰降火。陰(肺・腎)を補し虚熱に対する手法が基本となる。瀉法は安易には出来ない。

 現代ではストレプトマイシン等の発見で不治の病では無くなっている。しかし、結核の病症は確実に増えているのが現実である。