子規が短歌の革新に取り組んだのはカリエスが悪化し、ほとんど寝たきりの生活を強いられた時期である。子規は病身を鼓舞し、新聞「日本」に『歌詠みに与える書』を発表する。その中で「近来和歌は一向に振い申さず・・・・貫之は下手な歌詠みにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候」と大胆に当時の和歌や有名な歌人を批判した。かわりに『万葉集』を持ち上げた。子規は全てにおいて実証的である。すぐに写生による短歌を作り始めた。子規のこのような仕事によって閉塞状態にあった短歌はくびきから脱したともいえる。
それまで王朝風の風景ばかり詠んでいたものが近代的な文芸に変身したのである。しかし、残念な事に子規の人生は余りにも短かすぎた。 私は、根岸にある「子規庵」を訪ねるのが好きである。「子規庵」は55坪ばかりの広さしかないが、ここは子規が27歳より死ぬまでの8年余を母八重・妹律とともに過ごした場所である。ここには子規が愛した、また生きるはげみとなった「庭」が保存されている。
子規は晩年の7年ぐらいは寝たきりの生活を余儀なくされた。ここで「病床六尺」「墨汁一滴」「仰臥漫録」等の随筆が執筆された。また、子規はこの庭に咲く草花により生かされたのである。私は「子規庵」を訪ねるたびに、子規の壮絶とも言える生き様に思いをはせる。そして、1、2時間を何となく過ごしてしまう。帰りには「笹の雪」の豆腐料理を楽しむのが何とも言えぬ至福の時間となった。