病気とは何か、どの様な状態を病気と言うのか。
この事は素朴な問いかけではあるが非常に重要な意味を持った疑問である。病気とは何かについて素問「調経論」にて種々論じている。それを少しく考察する。
素問「刺法論」を踏まえて黄帝が問う。『鍼の刺法には、有余には瀉を不足には補を行うとあるが、その有余・不足とは何を言うのか』。岐伯が答えて『有余に五、不足に五ある。何が有余・不足かと言うと、神・気・血・形・志の事である』。
この問答の意味するところは重要である。鍼の刺法は病気に対して行うのであり、その病気とは何かと問うているのである。それに対して、病気とは「神・気・血・形・志」の有余不足にあると解答している。
この「神・気・血・形・志」は五蔵の精気の事であり、この精気が虚したり実したりしたのが病気であると言うのである。素問「六節蔵象論」に、この「神・気・血・形・志」の五蔵配当がある。それによると、心は神・肺は気・肝は血・脾は形・腎は志を蔵するとあり各蔵府の基本性能が論じられている。そして、五蔵の精気の働きは気血となり経脈を通じて全身に循環して身体を形成している。
病気は五蔵精気の虚を基本として発生する。この様な精気の不調により気血の流れに不順が起こり経脈の虚実が生じるのであるとしている。この考えの基本が、蔵府経絡説で説く経脈と蔵府は一体であるとする論である。
伝統鍼灸は随証治療が基本である為に「病証」や「証」の病理的把握が重要な診察行為となる。その為に臨床に於ける病症治療は、病名や個々の症候に対するのではなく「全人的調整」がその目的となっている。
故に治療の基本は蔵気の調整にあると私は考え日常臨床を進めている。この様な基本的理解の立場より、実地臨床の場では「精気の虚」を診断し、陽気・陰気の過不足を診察する事が「証」の決定には最も重要であると考える。