第122代・明治天皇(西暦1868年〜1912年)
(慶應4年=明治1年〜明治45年まで44年間)
1867 徳川第15代征夷大将軍 慶喜、二條城で朝廷へ「大政奉還」。
◇ 徳川(江戸)幕府の解消。
慶應4年(1868年)をもって明治1年とす。
1868 明治1年3月7日、令シテ「西洋醫術採用ヲ許可ス」。
〃 3月14日 今上天皇(祐宮睦仁、明治天皇即位)は、京都御所・紫宸殿にて、 天皇が天地の 神々に誓う形で、百官群臣を集め『五箇絛ノ御誓文』を読み上げる。
◇ 明治維新が始まる。「都(みやこ)」が東京に移される。
〃 明治政府、「幕府醫學所」を「大病院」とす。(明治1年)
〃 京都に漢醫を中心に「施療病院」が建てられる。
〃 太政官、醫學振興に関し布達す。(明治1年12月13日)
1869 明治政府、「大病院」を「醫學校兼病院」に改称。大學校を「大學」と改称し、開成所を「大學南校」、醫學校を「大學東校」とす。大學東校に西洋醫學と並んで「皇漢醫學部」が置かれ、皇漢醫道 改正御用掛に、今村了庵、尾台良作、権田直助の3名が任命され、本科の課目に「口中科」「鍼科」も独立した正科として含まれた。(明治2年12月17日)
1871 太政官布告により「鍼治學問所」を廃す。これに従い、東京・本所一ツ目の「杉山鍼治學校」も閉鎖。(明治4年11月)
1874 明治政府、「醫制」施行。醫學教育、衛生事務を文部省「醫務局」の管轄にし「皇漢醫學部」は廃止された。この「醫制」の中に"鍼灸を業とする者は、内科醫、外科醫の指示を受くるに非ざれば、 施術すべからず"とある。(明治7年)
◇ この「醫制」の施行で「漢方」「鍼灸術」は衰退傾向を辿る。
1875 文部省「醫師試験法」を東京府、大阪府、京都府の3府に布達。(明治8年2月)
〃 太政官公布、"漢醫も今後20年間は醫師を続けてもよい"
〃 本橋元貞、8世・西村流後継者となる。7世・西村玄春素は、子息が醫業に進まなかったので、血縁の鈴木金之助の鍼灸教育を本橋元貞に託した。(明治8年)
1876 内務省乙第5號「醫師學術試験規則」発令し、6科の學術を課した。これが全国各府縣に及ぼす。(明治9年1月)
〃 明治天皇から「訓盲所」設置のため、金參千圓也下賜。
1877 東京開成學校と東京醫學校が合併し「東京大學」となる。
1878 東京の漢醫「私立博済病院」を建てる。(明治11年)
〃 石川・金沢の漢醫「集誠病院」を建てる。(明治11年)
〃 内務省、「脚気病院」を神田一ツ橋に開設。(明治11年)
〃 「京都盲唖院」開設(明治11年)。翌年から盲人の職業教育として「鍼按摩」が取り上げられた。
〃 栗原順庵『洋漢病名一覧』編集。
1879 「愛知博愛社」(旧尾州公の醫官・浅井篤太郎社長)創設。
〃 内務省、甲第3號「醫師試験規則」内容充実して発令。自今新たに醫師たらんとする者は理學、化學、解剖學、生理學、病理學、薬物學、内外科學、7科の試験に通過した者でなければ開業を許さぬこ とに定めた。従来開業醫を除外したが、試験の科目は純乎たる西洋醫學のみ採用し、和漢醫方による試験 科目を認めていない。(明治12年)
〃 漢醫の団体「温知社」(山田業廣社主)が構成される。機関誌《温知醫談》発行。この中で「 鍼科社員」が東京だけでも100名を超えていた。(明治12年)
1880 皇太子誕生に伴ない、西洋醫師のほかに、漢醫・浅田宗伯、今村了菴、岡了允を東宮の待醫に 令せしむ。(明治12年)、名古屋に「皇漢醫學校(村瀬豆州校長)」設立。(明治13年)
〃 東京に「私立楽善會・訓盲院」開校。(明治13年)
〃 京都「賛育社」(山口容斉、田中歌永ら)創設。(明治13年)
〃 杉山三部書「療治之大概集」、「選鍼三要集」、「醫學節要集」が再刊行される。(明治13年)◇賣捌人に東京市京橋区の金銀鍼師・青木實意。
〃 盲人、その他、鍼灸を業とする者、醫師に紛らわしき事を為すを禁ず。
〃 岡本元資(本橋元貞の西村流學頭格)、貞芳院に勧められて、東京・八丁堀に開業。(明治13年)
1881 東京「私立楽善會・訓盲院」に職業科を設け、按摩、鍼治、導引、筝曲が取り上げられる。この時、教員の拠出により、鍼醫・山本知妙見を招き、「鍼治」の授業を始める。
〃 本橋元貞は、鈴木金之助を東京に移して、橋本スエ子刀自の書生として、鍼術の蘊奥を極めさせ、併せて、浅田宗伯の漢方醫學を學ばしむ。(明治14年)
1882 内務省乙第14號、15年3月2日 府縣へ「醫師開業ノ儀ニ付キテハ3府ハ明治8年2月文部省ヨリ、各府縣ハ同9年1月當省乙第五號ヲ以テ相達置候處従来開業醫ノ子弟ニシテ其助手ト相成居醫 業ヲ以テ家名相續致度輩ハ年齢當明治15年6月満25年以上ノ者ニ限リ従来開業醫ト看做シ不要試験開 業許可ノ證ヲ與ヘ不苦候條此旨相達候事」人生50と見積もり25箇年間の延長である。(明治15年) 一1882政府、漢醫・浅田宗伯を正7位に奏請、さらに大學総理加藤弘之は今村亮(了菴)を大學講師 に抜擢す。(明治15年)
〃 落合泰藏《漢洋病名対照録》撰。(明治15年)
1883 東京大學醫史科にて、三宅秀;西洋醫學史、今村了菴;和漢醫道の沿革、を講義。(明治16年)
〃 東京府日本橋区1丁目に「和漢醫學講習所」(温知社學校=温知黌)、浅井篤太郎=温知社総 理館主(國幹)の設立開校式典挙行。(明治16年4月11日)教科目は、素問、靈樞、傷寒、金匱、難 経、本草、取経挨穴、鍼灸講説等。二百数十名聴講。
〃 「醫師免許規則」を定める。(明治16年)
◇ 和漢醫の団体、「元老院」、各縣等へ和漢醫方の保続を建白す。
1884 醫術開業試験規則施行。(明治17年)
1885 内務省令、「醫師にして鍼灸術を施すは差支無之」。
〃 内務省、甲第61號布達「鍼術灸術営業取締方」即ち、営業の許可および取締りを各府縣に委ねる。
〃 大阪府令、第96號、「鍼灸術営業取締規則」。(明治18年)
〃 西村流8代・本橋元貞、水戸で没、76歳。藩主斉昭公正室有栖川宮皇女登美宮吉子後の「貞芳 院」お付き醫師として活躍、西村流鍼術の継承者としても幕末から明治へ橋架け努力。
〃 森立之、没79歳。徳川幕府の命を奉じて《千金方》を醫學館において校正し、醫學館講師就任。明治5年、文部省に補され出仕、主に醫學校で校訂、講義、記録などに活躍。
1886 宮内省待醫・岡本元資、東京府知事宛て「鍼灸復興の建言書」提出。(明治19年8月)
〃 東京「私立楽善會・訓盲院」は文部省直轄の「訓盲唖院」になる。「私立楽善會・訓盲院」が 文部省直轄「訓盲唖院」として発足するにあたり、当時、主幹・矢田部良吉教授から、帝國大學醫科大學 學長・三宅秀博士に対し、「盲人の手技に鍼灸が危険でありや否や」と調査依頼があった。
1887 三宅秀に調査を命じられた醫科大學助教授・片山芳林は「鍼治採用意見書」を回答として、矢田部良吉教授に渡された。これが内容根拠として、盲唖學校の職業教育として「鍼按科」が教育過程に復活し、採用された。(明治20年)
◇ この頃、文部省直轄、「盲唖學校」に「鍼按科」が正科として採用されたことで、鍼灸、按摩 は辛うじて命脈を保つ。
〃 「訓盲唖院」は、さらに「東京盲唖學校」に改称される。
〃 武蔵野勝虎検校、没、75歳。漢方存続運動に奮闘する。
〃 漢醫の自廃者急増、「温知社」解散。(明治20年)このため温知社の附属事業「杉山鍼治學校」も、やむなく断念。
〃 青山道醇《鍼灸備要》著。(明治20年)
1888 『大師流はり』大阪・八尾市にて創業。(明治21年)
〃 佐藤利信《鍼學新論》3巻著。解剖學を漢文で著述。
1889 東京府知事・高崎五六の勧告という形で、宮内省待醫・岡本元資らは「東京府下鍼灸人の組合 組織化」を図る。(2月)
〃 「東京鍼灸治會發會式典(宮内省待醫・渡瀬正造会長)」が東京浅草「鴎遊館」で挙行。式典 は宮内省待醫・岡本元資=東京鍼灸治會創立の趣旨および開會告示」、東京府知事・高崎五六、東京醫科 大學學長・三宅秀博士らが次々と祝辞、初代会長・渡瀬正造=謝辞、東京府庁醫務官吏・武昌吉=演説、 醫科大學解剖生理學者・川崎典民=講演。(明治22年6月)
◇ 「東京鍼灸治會發會」は、その目的として「業務上の得失利害を研究し、業務の改良、技術の 進歩を計る」などを挙げ、会員鍼灸開業者を対象に、東京15区6郡部、20カ所の講習会場で、解剖生 理學者・川崎典民ら西洋医学の権威者を招き研修を実施した。講習は解剖、生理、病理學、消毒法、衛生 管理などがカリキュラムにあり、会員受講者は、明治22年7月〜明治23年4月までのわづか10カ月 間に実に3000人にふくれあがり、この活動は全国の鍼灸術師に影響を与えてゆくことになった。
◇ この「東京鍼灸治會發會式典」は明治維新の医療制度激変により、昏迷と衰退途上の鍼灸界に 活力を与えた。
◇ この頃、地方行政に移管された鍼灸統制業務で各縣当局は、西洋医学に反発する鍼灸人に手の打ちようがなかったが、東京府庁と「東京鍼灸治會」の動きを注目し、各縣はこの「東京方式」にて、講 習事業は全国的に広まった。
1890 東京府知事・高崎五六男爵、「杉山神社創立」の允許請願。
1891 漢醫団体、第2回帝國議會に「和漢醫師存続請願書」を提出、鍼科社員も協力応援す。(明治24年)
〃 榊原學道没、49歳。杉山鍼治學校で教授。(明治24年)
〃 河合貞昇《鍼科全書》著。(明治24年)
1892 群馬縣醫學校校長兼病院院長・大久保適斎《鍼治新書(治療編、解剖編、手術編)》出版。( 明治25年)
〃 東洋醫術を免許規則の中に加えんとする「醫師免許規則改正案」が衆議院に提出され、特別委 員に付託となる。(明治25年)
〃 吉見輝雄、「鍼治術研究會」発起設立、一部の旧東京鍼灸治會の役員・会員、東京盲唖學校教 職員・卒業生、醫師、鍼灸醫などが会員となる。吉見輝雄は新潟縣出身で本姓は斉藤氏、鍼醫・吉見英受 の養子、この養父子の関係者が会員に多い。
1893 「鍼治術研究會」、機関誌《鍼治術研究會會報=後の鍼科彙報=編集、吉見英受・吉見輝雄》 を発行。(明治26年)
〃 岡島瑞軒、「日本鍼灸術研究會」結成、機関誌《日本鍼灸術研究會雑誌》発行。(明治26年) ◇ 岡島瑞軒(うさぎはり専門家)、「鍼術電気説」を唱える。
1894 親睦団体「名灸會」が「大阪鍼灸興道會」結成。(明治27年)
〃 佐藤國藏「日本鍼科協會」機関誌《鍼科彙報》の編集人就任。
〃 鈴木金之助、宮内省待醫局勤務を拝命。常に玉体に接し奉れり。(明治27年)
〃 吉見輝雄、医術試験合格し、松緑堂醫院を開院し、鍼灸學校・鍼灸治療院を併設す。(明治27年)
〃 浅田宗伯没。明宮様(大正天皇)ご幼少の砌、御大病の時、池田、伊東を首めとし、待醫がい づれも御卒癒をご保証申上げかねたる際、浅田宗伯が挺身お引受け申上げ、その治癒をもってご回復あら せられた。(明治27年)
1895 第8回帝國議會で「醫師免許規則改正法案」、わづかに27票の差で否決される。(明治28年)
◇ 太政官公布で、「漢醫はさらに20年間、醫師を続けてもよい」ということになった。(明治28年)
〃 7世・西村玄春素(常雄)没、72歳。(明治28年)
1899 尾田喜八、「経穴人形」作製。(明治32年)
1900 岡本愛雄《實習鍼灸科全書》著。宮内省待醫・岡本元資の「岡本鍼灸教育塾」での講義録をまとめたもの。宮内省待醫局勤務、東京鍼灸治會會長・岡本元資校閲、序文は第一高等学校醫學部教授・醫 學博士・井上善次郎(東京、半田屋醫籍) 「大阪鍼灸會」結成。設立当時は肺結核で療養中の藤井楠治郎氏が臨時会長に推されたが、まもなく長門谷貫之助氏が初代会長。機関誌《大阪鍼灸會雑誌》発刊。(明治33年)
1901 藤林高吉、山本新梧ら合議し、大阪府知事・菊地侃一に対し「鍼灸術の有効、有害、ならびに 人体に対する利害得失を學理的に詳論したる論文」を提出し、鍼灸術の営業取締規則の改正を建議せり。 (明治34年)
〃 醫學得業士・岡本愛雄《實用鍼灸學初歩》著。宮内省侍醫局勤務、東京鍼灸治會會長、従7位 岡本元資校閲。(半田屋醫籍)
1902 皇太子殿下御不例、岡本元資、葉山にお見舞申上御拝診中に岡本元資、発病。そのまま3週間。没、61歳。(明治35年)
〃 安島廣三郎、鍼灸術師として東宮御所に召され、畏れおおくも皇太子殿下の肩腰のはり奉施で 効顕神業の如し。宮内省侍醫局勤務鍼醫、水戸・西村流撚鍼、極めて細い鍼1寸、1寸3分、金鍼で太さ は1番ないし2番鍼、鍼柄の名称はミヤモト、鍼尖りは松葉。(明治35年)
〃 大阪府「改正鍼灸術営業取締規則」発令。(明治35年)
〃 長與専齊没、65歳。西洋醫學による醫制度確立のために漢醫撲滅の急先鋒者として活躍す。 (明治35年) 官立・東京盲唖學校教員・奥村三策《按摩鍼灸學》著。
〃 「杉山報恩講」設立。(明治35年)
〃 松尾祐清、長崎に「松尾鍼灸學講習所」開設(明治35年)
〃 大阪鍼灸會の機関誌《大阪鍼灸會雑誌》が第3種郵便許可される。(明治35年9月10日)
〃 浅井篤太郎(國幹)没、56歳。漢醫存続運動に一身を挺す。"漢方に何の罪があるか"と嘆息。
1903 山本新梧、大阪西区に「鍼灸教授所」開く。(明治36年)
〃 官立・東京盲唖學校に盲學校の教員養成科が設置される。
1904 岡田英吉醫學士、ウイーンの国際精神病學會総会で、日本の鍼灸治療を紹介。(明治37年)
〃 三浦謹之助博士、第2回日本醫學會で「鍼による組織の損傷度の研究」発表
◇ この発表の中で、『刺鍼には一種の無害性麻酔作用があること』を指摘。(明治 37年)
〃 大阪鍼灸會「創立五周年記念講演會」開催。(明治38年)
1906 三浦謹之助博士、第2回日本聯合醫學會で「鍼治について」発表し、西洋醫學者に『鍼の効用』を紹介。(明治39年)
1907 杉田由三郎、大阪で「上牧の灸」始める。(明治40年)
〃 木村徳衛博士、日本醫學會で「鍼は神経痛に特効がある」を発表。(明治40年) 鍼醫・吉見英受、没、75歳。杉山流鍼治講習所(東京本所一ツ目惣録邸内)最後の教授で杉 山和一の肖像等を保護し「惣検校杉山和一肖像記」その他を傅えた。漢方存続運動には、武蔵野勝虎検校 と共に奮闘す。(明治40年)
1908 久木田七郎《臨床応用鍼灸指南》著。(明治41年)
〃 「盲人技術學校」が創立。(明治41年9月)
〃 「山口縣鍼灸按師會」創立。(明治41年11月)
1909 《大阪鍼灸會雑誌》第73號から《日本鍼灸會雑誌》に改題。
〃 「福岡縣鍼灸按師會」創立。(明治42年4月)
〃 佐藤國藏 没、42歳。醫師にして、鍼灸界にとって暗い明治20年代に鍼灸術向上のため、 鍼灸同業誌《鍼科彙報》の編集に携わる。《点字唱歌の譜綴り方》著。(明治42年)
1910 山本新梧《各府縣鍼灸術試験問題解答集》発行。(明治43年)
〃 東京盲唖学校が「東京盲學校」に改称。(明治43年)
〃 和田啓十郎《醫界の鐵椎》著、自費出版。これがいわゆる、漢方復興のさきがけとなる。(明治43年)
◇ この頃、京都の灸治専門・加藤幾太郎「無痕灸器」工夫発明。
◇ 明治44年以前は、鍼灸按摩には法規がなく、いわゆる、試験・免許制度がなかったので、だれか業者から指導を受けた旨の修業証明書、履歴書を知事宛て願い出ることで開業が許された。
1911 内務省令第11號「鍼術灸術営業者取締規則(13箇條)」が明治44年発令、明治45年1月1日施行される。
〃 原田重雄・樫田十次郎両博士、「灸治療の臨床的価値について」発表。(明治44年)
〃 松元四郎平《鍼灸経穴學・臨床治方録》著。序文は東京盲學校教員・奥村三策、鹿児島盲唖學校長・佐土原俊恵。(明治44年)
〃 鈴木金之助 没、48歳。宮内省侍醫補・西村流鍼醫。
〃 山本新梧《日本鍼灸學教科書》撰。(明治44年)
〃 「関西鍼灸學院」は大阪府「私立學校」認可を得る。(明治44年)
〃 《日本鍼灸會雑誌》(大阪鍼灸會発行)第100號記念號に以前は漢醫撲滅の急先鋒だったところの石黒忠悳・温故知新、長谷川泰;鍼灸所感を寄稿し、鍼灸を称賛。(明治44年)
〃 全国鍼灸按摩営業者聯合大會・祝賀會が東京・神田で開催。
〃 加藤幾太郎氏「加藤式無痕灸器」考案。《無痕灸教科摘要》、《実験灸治學》、《実験応用温灸療法》著。(明治44年)
〃 奥村三策氏没、48歳。7歳より按摩、鍼、灸、西洋醫學を学ぶ。訓盲院の教諭となり、三浦 謹之助博士の鍼研究の協力者。點字印刷機械を考案したという。(明治44年)
1912 内務省令第11號「鍼術灸術営業者取締規則(13箇條)」が明治45年1月1日施行される。
〃 「鹿児島縣鍼灸按師會」創立。(明治45年3月)
〃 「鍼灸按摩同盟會」創立。全國19支部が参加。(明治45年)
〃 石川日出鶴丸博士「實験研究・自律神経と鍼灸治効の関係について」発表。(明治45年)
〃 後藤道雄博士「ヘッド氏帯と我國古来の鍼灸術について」、《中外醫事新報》に発表。(明治45年)
〃 「鍼灸按同盟會」(吉田弘道会長)結成。(明治45年)
◇ 鍼灸按摩の試験が年2回実施されるようになり、免許制度が法規として世に認められる。この後、堂々と看板を出したり、同業者が互いに競走意識を持つようになる。
※南谷旺伯作成
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