五経一貫説を主張  内藤希哲 (ないとうきてつ)

   著書「医経解惑論

 江戸中期、五経一貫を体系づけた天才医学者内藤希哲は僅か三十五歳で夭折した。
希哲は字を師道と称し、通称は泉庵、元禄十四年(1701)に信州松本村に生まれた。幼少より医学医術が好きで、同郷の清水先生に医学を学び、医方が上達するようになってからは、専ら張仲景に志を傾倒し傷寒雑病論を手にして暗誦するまで味読し、その奥儀に精通するに至った。

次に傷寒論研究家たちの諸書を読んだところ、魏晋以降の医書に次第に疑問を感じるようになったが、内経、難経を反復熟読したところ理解を深めることができた。希哲は遊学の志があったので、ここに至って江戸に赴き医業を営むこと三年。その間ますます古典を明覈にし臨床に精通した。すなわち、古典によって臨床を正し、臨床によって古典を会得した。古典と臨床とを互いに検覈してみると、表裏はピタリと合い違うことはなかった。そして魏・晋以降の治療家は医経と称す古典の内容がわからなくなり、そのために傷寒雑病論を学んでもその道を会得することのできない事実を知ったのである。
ここにおいて希哲は「奮然として励み仲景の真の道を修める」ことを生涯の仕事として著述を刊行した。その一つが名著『医経解惑論』である。

 希哲は『医経解惑論』の校正を大儒者太宰春台に依頼し、春台もまた巻頭に序文をのせてその顛末を記している。希哲は草稿が完全にできていない享保二十年(1735)突然病気で亡くなったという。
春台は「ああ哀しいことである。特に師道(希哲)豪傑、秀でて実らざるを借しむ」と、業半ばに実らずして往った若き天才医学者希哲の生涯を愛惜している。
希哲の死後四十一年、息子、弟子達の手によって同書は刊行された。また、『医経解惑論』の各論とでもいうべき『傷寒雑病論類編』も門人たちの手によって補足校正され、実に希哲死後八十四年を経過して刊行された。

希哲の著書は江戸時代数多い傷寒論、金匱要略の研究書の中でも最も早く、しかも先見をそなえた書であるといえるだろう。

(参考・寺師睦宗『五経一貫を体系づけた若き医伯内藤希哲』)