淳干意は、秦の始皇帝三十二年(前二一五)、臨?(山東省?博市)に生まれた。斉の太倉(国の穀倉)の長官を務めていたので、太倉公または倉公と呼ばれていた。若いころから医術を学び、前漢の高后八年(前一八○)、公孫光の紹介で同郷の元里に住む公乗陽慶に師事した。このとき、陽慶は七十余歳であったが、子はなかった。淳干意にいま方まで学んだ医術をすべて捨てさせ、自分の秘伝漢の医術を教え、黄帝や扁鵲の脉書を伝えた。
公乗陽慶の教えに従い淳干意は病人の顔に表れる色を診て、五蔵の病気を診断し、治療法を決めた。また、薬論についても陽慶独自の方法を学んだ。定住せず、各地を巡って診療し、人々に貢献した。しかし、相手によっては治療を拒んだので、患家から恨まれることも多かった。
前漢の文帝十三年(前一七六)に、ある人が上書して、淳干意には肉刑に当たる罪があると訴えた。肉刑とは、いれずみ・鼻切り・足切り・去勢などの体を傷つける刑罰である。そのために淳干意は、駅伝で西の長安(陝西省西安市)に送られることになった。五人の娘は、父親にすがって悲しんだ。淳干意は嘆いて言った。
「子供はいても、男子に恵まれず、差し迫ったときに役に立つ者がいない」
すると、末娘の??がこの言葉を痛ましく思い、父に従って西へ同行し、次のように上書した。
「わたくしの父が、斉の役人でありましたとき、国じゅうの人が清廉潔白を称えました。けれども、いま父は法に触れ刑に処せられようとしています。死者は生き返ることができず、肉刑に処せられた者は二度ともとの体に戻れません。みずから過ちを改め、新しく出直そうと思いましても、その道さえ閉ざされてしまいます。願わくは、わたくしが朝廷の召使として身を捧げ、父の罪をあがないたいと思います。どうか父が行ないを改め、新生の道を歩めるようにしてくださいませ」
嘆願書が上聞に達すると、文帝劉恒はその心意を哀れに思って淳干意を許した。この年、肉刑の法をも廃止した。