上古の医学思想について

◆巫医の呪術

 上古の医学に関する記載は神話が多く、信憑性に乏しい。上古の医書とされているもののなかには、中古の人々が古の名に託して著したものもある。銅器の鋳造ができるようになったのは、殷代に入ってからである。牙骨玉石の彫刻、工芸の技術もかなり向上した。また酒の醸造が行なわれ、酒を用いた治療が発展し、薬酒を製造する基礎を作り、医薬に応用した。

 しかし、殷代の王侯貴族は病にかかると、鬼神のたたりと恐れ、占卜に頼った。その結果を亀甲や獣骨に刻み、これが甲骨文の一部となって、古代文化や医薬の史料として残されている。そのなかには、頭病・耳病・眼病・歯病などの記載が見られる。
殷代では呪術による医療が主流であった。巫と医の分かれていない時代では、いわゆる巫彭と巫咸が医の始祖である。この時代は、日本では縄文時代の後期に当たる。中国の伝統医学は、神農・黄帝時代がもっとも古いとされているが、このころの医療の存在を確定できる文献は少ない。したがって、神農や黄帝が医薬に貢献したというのは、神話といってもよい。周奏時代もまだ呪術がさかんであった。のちに祈?だけでは効果がないと悟り、巫から医薬へ進化した。

 周室が衰え、春秋の五覇(斉の桓公・宋の襄公・晋の文公・秦の穆公・楚の荘王)の抗争の時代となっても呪術は行なわれていた。『春秋左氏伝』に「病膏肓に入る」という故事が記されている。晋の景公(在位前五九九―前五八一)が即位すると、屠岸賈は司法大臣に任用された。かつて屠岸賈は、晋の名門趙一族に無実の罪をなすりつけて、趙同や趙括を斬殺させてしまった。その趙家の先祖の亡霊が、景公の夢に現れた話である。

 膏は心臓の下の部位で、肓は横隔膜の上に当たる。病気が重くなって、快復の見込みのない状態を「病膏肓に入る」という。
晋の景公が恐ろしい夢を見た。背の高い、長髪を地に引きずった幽霊が現れ、胸を叩いて踊りながら、 「おれの子孫の趙同と趙括を殺したのは、道理に背く行ないだ。天帝のお許しを得て、命をもらいに来たぞ」 と叫んだ。
幽霊は表門を破り、中門をつき壊して入ってきた。景公が恐れて奥の室へ逃げ込むと、戸を打ち破って追る。ここで景公は夢から醒めた、景公は、さっそく桑田に住む巫を呼んだ。巫は何も間かないうちから、夢に出てきたとおりの呪いがあると告げた。

 景公が、「わたしはどうなるのか」 と訊くと、巫は答えた。 「今年の新麦を召しあがらないうちに、死ぬでしょう」
それを聞いた景公は病床につき、隣国の秦の桓公に医者を頼んだ。桓公は、名医高緩を遣わした。高緩が着かないうちに、景公はまた夢を見た。それは、病気が二人の童子に身を変えて話していた。
「泰から来る高緩は、天下の名医だからきっと痛めつけられる。どこへ逃げればいいだろうか」
「そうだな、肓と膏の間に入れば、たとえ高緩でもどうすることもできやしない」やがて高緩が晋に到着し、景公を診察して言った。
「病気は肓の上、膏の下に入っており、どんな治療をしても見込みはございません。針も薬も及ばす、手の施しようがありません」
景公はそれを聞いて、 「さすが名医だ」 とほめ、礼を尽くして帰した。

 六月丙午の日、景公は公田の役人に命じて、新しい麦を献上させた。料理人が麦飯を炊いて、景公の食膳に供した。そして以前、景公を占った巫を呼び出し、 「おまえの予言は、当たらなかったぞ」 と言って殺させた。
景公が麦飯を食べようとしたとき、にわかに腹がしぶってきた。あわてて便所へ駆け込むと、なかに落ちて死んだ。
一方、景公につきそっていた小役人の一人は、その日の明け方に、景公を背負って天に昇る夢を見た。そこで小役人は昼になってから、景公のなきがらを背負って便所から出した。そのために小役人も殉死してしまった。

 春秋・戦国時代に、扁鵲という人助けをする人物が登場した。扁鵲にはいくつかの伝説がある。黄帝時代の名医、春秋・戦国時代の医者、上古の神医、良医の総称、奏漢時代の良医など、すべてを扁鵲と称している。

 扁鵲は病の六不治を挙げ、祈?は巫の領域、治療は医にゆだねるという概念を導入した。そして扁鵲の後、王叔和、皇甫謐、陶弘景、孫思ばく、銭乙、劉完素、張従正、李杲、宋慈、朱震、亨らが医術の革新を行なったのである。

◆著者:吉田荘人 「漢方鍼医」誌第2号より転載