鍼灸(経絡治療)の歴史

経絡治療の発展、そして漢方鍼医会へ

 経絡治療という名称については、我々は何んの異和感もなく毎日の臨床における治療法として受入れ、東洋医学理論を基盤とした鍼灸治療の一方法論、又は一流派的な考え方として当然の如く使って来た様に思う。しかし今迄多くの先達からはその歴史について詳細に聞く機会が少なかった。又、聞いても極く断片的なものであった。

先ず「経絡治療」という治療法がどうして出来たかについてであるが、江戸より明治に移り明治政府が造られそれ迄の諸々の制度が改変され、医療制度においても例外ではなく、それ迄の伝統医学として行なわれて 来た日本の漢方医学(湯液、鍍灸)が、西洋医学を医学とするべく改革が行なわれたのである。しかし間もなく伝統的な漢方医学の大切さに気付いた人達によって、古来より実績のある鍼灸術の本質が失われる事を主張する為に提唱された治療術であり、古典の再検討を第一目標として古典を研究し、それを臨床に活用する臨床医術として作られたものである。

 明治43年に和田啓十郎医師によって「医界の鉄椎」という書が著わされた。それは「全く価値なし」と批判され抹殺され様とされた東洋医学に、西洋医学に優る点が多くある事を実験し、古医道の復興を念願して書かれたものであった。然も粗食に甘んじ、衣服を節約して資金を作り自費出版したものであるという。不勉強な私は書名は知っていても読んだ事はなく内容は全く分らない。唯何かの折、日本橋の公園の片隅にある記念碑によってその存在を知ったのである。この辺にすでに経絡治療の出発点があったのかとも思われる。

 その後この書によって影響を受けた人達に湯本求真という西洋医学の医師がおられ、その門下生に漢方医の大塚敬節先生がおられる。又、漢方医学を伝承し臨床を行なっていた人に森道伯先生があり、その治療によって漢方復興に貢献したのが矢数格先生で、その弟が矢数道明、有道のお二人である。先刻我々の会に道明先生を講師として依頼したが残念ながら実現できなかった。森道伯先生の弟子として石野信安先生がおられるが、後に東洋誠灸専門学校長をされた方である。

 灸治療では「漢方医学の新研究」を著した沢田健、城一格先生がおられ、漢方医学の再評価を主張された。丸山昌朗先生は沢田、城両先生の灸治によって病気を癒しその後医師となり、東洋医学の古典研究者として素問、霊枢の校勘和訓本を著わしており、島田隆司先生はその門下生である。 鍼灸術にあっては、古典の研究を主張され自からの号を素問、霊枢にちなんで素霊と名乗った柳谷素霊先生がおられる。
又、当時既に脉診によって治療を行なっていた人に千葉市の八木下勝之助先生がおられる。八木下先生は、兄の勉強を手助けする為に十五才の頃より「鍼灸重宝記」を読み聞かせていたが、兄の死後、自からの手によってそれを実践したという。内容的には一経主義の治療で虚している経に補法を行なうもので、相生、相剋関係等はなかったという。しかし「鍼灸重宝記」を熟読しておられ、経絡治療の生証人といわれていた。この様な人達によって漢方医学は続けられていた。

 経絡治療といえば、その提唱者として、岡部素道、井上恵理、竹山晋一郎の三先生が有名であが、岡部先生は、八木下先生の鍼治療によって、西洋医学では癒し得なかった肺結核が一ヶ月余りの治療で可成の好転がありその後すっかり全治した事によって、東洋医学を基礎とした鍼灸治療の道に入られた。井上先生は、十九才の時に結核に羅患し、大羽徹斉先生の鍼治療を受けて快くなり、その後大羽先生に師事していたが、千葉県流山市の善照院主、関口泰道師の鍼の妙技を体験すると共に臨床指導を受けて、東洋医学の信頼を深めこの道に入った。

 竹山先生は、時事新報の記者時代、森道伯先生の漢方治療を受けられて、東洋医学の考え方に興味を深め、前職を捨てこの道に入り、当時発行されていた「東邦医学」誌の編集の全責任を駒井一雄博士に任かされてから、岡部、井上先生達と親交を持った。昭和十三年の事である。

 経絡治療に大きな影響を及ぼしていた人は前述した柳谷素霊先生である。 柳谷先生は、中々の怪人物であった様で20代で小岩の地で鍼灸学校を開設され後進の指導に当られていた。そして昭和2年頃に「鍼灸術は古典に還れ」といわれ古典研究の重要性を主張された。あまりにも有名な言葉である。先生は著書も多く残されている。たまたま「医道の日本」誌4月号の書評の中で、池田政一先生を評して、頭の切れる、筆の早い柳谷氏を坊沸とさせると、戸部主幹が書かれていたが、口も手も行動も人並はずれた存在感の大きな先生だった様である。その後新宿にある東洋鍼灸専門学校を創設されたが、昭和34年に物故されている。

 岡部、井上両先生の友好は昭和8年頃だったという。その後4年程、素問、霊枢、難経等の勉強会を週に1、2回行なっていたという、柳谷先生の指導も受けておられたのかも知れない。
そして昭和13年に竹山先生を知る事になる。その後昭和14年に東洋医学を基にした鍍灸術の研 究を行なう為に「弥生会」を結成し、そこで経絡治療の基礎となる古典に基ずく治療法を発想していったのである。

 昭和15年7月、京都医学大学に於いて「東邦医学夏季講習会」が開かれ、その夜間の特別講座で、東洋医学による診断法を発表し、この治療法を経絡的治療と称していたものを、竹山先生が「東邦医学」誌に発表するに当って『経絡治療』としたのが名称となったのである。この講習会への参加者は、当時の朝鮮、台湾、中国等からも参集したという。この発表は当時の誠灸界に大変な反響をもたらし、その後はこの治療法が鍼灸界をリードすることになる。この事により経絡治療の母体となった「弥生会」は発展的に「東邦医学会」となり、東京に東日本部会、大阪に西日本部会が設置され、経絡治療の学術研究会や講演会が継続して行なわれる様になっていたが、19年戦局が烈しくなり、自然消滅的に休止をやむなくされた。

 この時、東日本部会に所属していた人達に、井上、岡部、竹山の三先生の他、井上先生の第1の門下生として多くの古典解説書を著わし、我々もその恩恵に浴している本間祥白先生や直接指導を頂いた福島弘道、小里勝之両先生、小野文恵、岡田明祐(現、日本経絡学会名誉会長)、福本憲太郎、加藤素世、馬場白光、小川晴通、木下晴都氏等の名前が見られる。 昭和19年1月、東邦医学主幹、駒井一雄博士を所長として「日本鍼灸医術研究会」が設置され、東日本部会の主だった人達が所属されていた。特に顧問に安西安周、矢数道明、城一格、柳谷素霊の諸先生が名を連ね、経絡治療の学術研究と共に治療室を併置し、一般の臨床治療も行なった。又、その東邦医学夏季講習会は毎年一週間の日程で行なわれていたが、戦禍厳しく昭和19年で中断された。そして終戦となるが、当然の事ながら応召して戦死された方、空襲による焼死、疎開の為に地方へ分散する等して研究会などはままならず、それよりも食糧難等で生き伸びる事さえも大変な時代であった。それにもまして占領下の政策(俗にマ旋風という)によって鍛灸術が抹殺される重大危機に陥ったのであるが、全国の鍼灸師がアメリカ進駐軍当局と折衝を重ね、何んとかその存続をかち得たのである。

 そんな中でも経絡治療を続けた人達は、全国組織を企図し、鍼灸術の本道を守る為に「東邦医学」誌に代わって「日本鍼灸医術」誌を発行する為の努力がなされ、昭和21年8月に第1号を発行、何も彼も不自由な中で第8号迄発行したという。それより遡って昭和16年に「医道の日本」誌が発行され昭和21年に第三種の認可を得ている医道の日本誌も初期の頃は経絡治療の記事が主体だったと聞いている。しかしマ旋風により再び科学化が叫ばれ鍼灸界は東西両医学に二分されて行く事になる。

 経絡治療に関しては、その後全国的な活動はなく、個別的な研究会によって継続されていた様である。その中で「古典鍼灸研究会」は、柳谷先生を中心として井上、本間、西村至央等の先生によって、原典批判を中心に、岡部先生は、「大東鍼灸研究会」を、竹山先生は難経を中心に毎月定例会を行ない「古典の再検討」を主眼とした経絡治療の普及に活躍されていた。その中で「古典鍼灸研究会」は、昭和34年柳谷先生が亡くなられ、その後を井上先生が継承された。現在は井上雅文氏が会長となり継続されている。

 皮肉な事にこの昭和34年は、経絡治療家にとって華々しい戦後の再開の年となった。即ち、昭和19年に中断された東邦医学夏季講習会が、医道の日本社が主催して「経絡治療夏期大学」として横浜、綱島温泉において開催され、全国より同好の士が集る会が出来たのである。これによって昭和37年には「経絡治療研究会」が結成され全国に部会が置かれ、全国的に経絡治療が普及する事になった。そして昭和40年には「経絡治療」誌が経絡治療研究会発行による東洋鍼灸医術雑誌として出版された。

 この様に夏期大学や「経絡治療」誌により、経絡治療が啓蒙され普及された事により初期の目的は達成されたかに見えるが、一方では、難かしく理解しにくい部分は捨て、安易に解釈して本来の経絡治療とは異なる様な亜流派が生れ、さも古典鍼灸術の如くに見せて、治療効果さえ挙がれぱその方法論を問はずのエセ経絡治療家の集団も散見される様になり、昭和15年に提唱された経絡治療の本質を忠実に継承し後世に伝承するべく、昭和48年に「日本経絡学会」が結成された。

 経絡治療の基本的な有り方と個々の考えによる経絡治療を一本化する事を目的にしたと思うが、夫々に自己主張があって、尚一本化の方向には動かない。そればかりか最近は一層異なる方向に動く傾向にも見える。現代に即した経絡治療が、現代医学に即した鍼灸術にならない様に心すべきである。古典に書かれている事を素直に理解し、それを臨床実践に繋げて、発祥当時の東洋医学の神髄を追求して真の経絡治療を継承しなければならない。我々はその方向で勉強を重ねている。

 この様な勉強ができる迄に経絡治療という鍼灸術を教えて頂いたのは東洋はり医学会の存在があったからである。
東洋はり医学会は、昭和34年に福島弘道先生を長として小里勝之、高橋泉隆、里見豊也、高橋秀行の先生方によって結成され、当初は「東京古典はり医学会」と呼称し、顧問の先生に井上恵理、岡部素道、竹山晋一郎、本間祥白の諸先生を迎えての発足であったが、それ迄の御苦労は大変なものがあった。何れにしても視力障害者の経絡治療の指導者はなく、理論は理解しても技術の修得は至難な事だったが、技術指導を取り入れた視障者の会という事で、発会後は年々その数を増していったのである。発会一周年の鍼灸経絡治療大講演会は大盛会を極め、全国の視障者の経絡治療普及の第一歩となった大会であった。

 昭和36年には点字機関誌「経絡治療」も発行され、昭和43年に会名を現在の「東洋はり 医学会」とした。この頃に福島先生は皮膚癌に催患し、自からの治療の中で、二つの証を左右に振り分けて相剋的な経を同時に補なう事により癌を克服され、この方法を『相剋調整』として全会員に終始徹底をしたのである。自らの命を賭けた治療体験による成果であり、絶対の自信からの方向性であり、我々はそれを信じ臨床実践で効果を挙げていたのも事実である。しかし、外部では経絡治療の方向転換として受取られたのである。

 何んといっても東洋はり医学会は、福島先生の卓越した指導力と小里先生の技術とが相侯って、全国に60余支部迄に発展し、我々漢方鍼医会の大部分の会員はその恩恵に浴して現在があるのである。その事には大いなる感謝をしている。東洋はり医学会が経絡治療の発展継承に大きな力を発揮した事は、その歴史において忘れてはならない。

 平成4年、我々は漢方医学の理論を原点に還って勉強し、その生理、病理を正しく理解する事が、経絡治療の真の姿である事を主張して「漢方鍼医会」を結成して東洋はり医学会を離れた。東洋医学による鍼灸術を継承する為には仕方のない行動であったと思っている。

◆著者:高橋祐二、「漢方鍼医」誌第2号より転載