老人性うつ病の臨床

 うつ病(depression)という言葉は、はじめ「天気が悪い」「低気圧」などの気象用語として用いられていたものが、やがて経済用語に転用されて「不況」「不景気」「恐慌」の意味になり、さらに転用されて「うつ状態」「抑うつ症」「うつ病」を意味する医学用語になった。であるならば、地球温暖化による異常気象、加えて先の見えない経済不況、金融不安に痛めつけられている現在は、同時に"うつ病の時代"であっても不思議ではない。

 最近のうつ病は、最終的には自殺にいたるだれの目にもうつ病と分かるような典型的な症状を示すのではなく、家族ですらそれと気づかれない現われ方をする軽症うつ病が増えている。

 うつ病に関しては、現在、老年期うつ病も関心を集めている。老人性の精神疾患として、これまでもっぱら痴呆が注目されてきたが、実は痴呆よりも多くの老人を悩ませているのがうつ病である。
そこで老人性うつ病に関して、腎の精気の虚が主になったものと腎の精気の虚に津液の不足が加わったものの症例を二例発表する。

<症例1>
患者:70才 女性
初診日:平成10年9月3日

主訴:1日に2・3回落ち着きがなくなり、居ても立ってもおれない状態になることと憂うつ感。

現病歴:3ケ月前に10日間の海外旅行の後、間をおかずに2泊3日の国内旅行をし、非常に疲れる。その後、朝の目覚めが悪くなり、さわやかな気分で起きることができなくて、気分がさえず憂うつ感があるようになる。それとともに、居ても立ってもおれない状態で部屋の中をウロウロするようになる。

既往歴:生来、元気で特記すべき事項はない。

<来院時の所見>
望診:年のわりに大柄で、憂うつそうな精彩のない顔つき。

問診:長男夫婦と老夫婦との二世帯住宅で生活しているが嫁との折り合いもよく、特別なストレスはない。主訴の症状が現われてからは、近所への買物や食事の用意もできなくなり、好きなテレビ番組すら見る気もしなくなる。食欲はなく、家族が種々な食べ物をそろえてくれるが食べれない。
睡眠は、寝つきも悪く、目もさめる。口渇はない。二便は正常。

腹診:皮膚に小じわが顕著。臍の下任脈を中心に軟弱で虚、心下部はやや緊張している。

脉診:脉全体は浮・大。左尺中と関上は特に浮いて大。左尺中腎が虚。

病因病理:この患者は老化に加えて、過密なスケジュールの旅行による労倦により、腎の精気を虚損せしめた。そのために腎の引き締め堅める作用が失調し、腎気が下焦に安定できなくなり、居ても立ってもおれない病症が発現したものと推察する。
虚熱による病症や冷えの症状も特別ないことから津液不足は深刻でないと考えられる。
以上のことから主証は腎虚証とする。

<治療及び経過>
腎の精気を補うために右の腹留穴、気を引き下げるために右委陽穴に補鍼。関元穴に入念な刺鍼、鎖骨上窩の虚したところ、背部では督脈上の反応点である命門穴、腎兪穴、脾兪穴に刺鍼。
治療開始1カ月(10回目)頃には、憂うつ感は少々あるものの、居ても立ってもおれない状態になることはなくなる。
2カ月(20回目)経過した頃には、症状は改善され、日常生活に支障はなくなる。現在では、従来の元気さを取り戻し、快適に暮らしている。

<症例2>
患者:77才 女性
初診日:平成10年7月31日

主訴:胸のざわつき及び背中の熱覚と発汗。

現病歴:2年前に夫と死別して以来、相続の問題や40才を過ぎた娘のことで悩むようになる。そのうち、背中が熱くなり発汗する不快感がはじまり、患者の言葉によると胸が割れるのではないかと思われる激しい動悸がするようになる。
その後動悸はしなくなるが、胸のざわつきがあり、気分が悪く沈み勝ちになる。

既往歴:高血圧症と血糖値がやや高い。

<来院時の所見>
望診:色白で小肥り。

聞診:身内のことや病状のことなどグチが多い。

問診:疲れやすく、少し動くとすぐ横になりたくなる。病院以外は外出することができない。食欲はあるが胸やけがする。口渇がある。小便は不利、大便は正常。睡眠は発病当初は不眠であったが現在では正常。

腹診:皮膚全体がブヨブヨしており、皮下に水滞がある。小腹は軟弱で虚。

脉診:脉全体は沈、滑、数。左尺中腎と右寸口肺が虚。

病因病理:この患者は、水肥りや高血圧症からして腎虚体質である。その体質に相続問題や娘のことなどの内傷が加わり、腎の精気が虚したものである。そのために発汗が過多となり、腎の津液が不足して虚熱が発生している状態である。精気の虚は胸のざわつきを起こし、虚熱は、膀胱経や胃に影響して、背中の熱感と発汗と食欲旺盛、胸やけなどの症状を引き起こしているのである。
以上のことから主証は腎虚証とする。

<治療及び経過>
3回目まで症例1と同様の腹留穴を選穴する治療で胸のざわつきは解決し脉状の数は改善された。
4回目以降は津液を増すことと、津液の循環を促進するために左太谿、左太淵、右足三里を補う治療に変更する。
現在30数回の治療を継続しているところであるが、諸症状は快方に向い、外出することもできるようになった。
しかし、外出が続くと疲労感が残る状態である。これは、未だ津液の不足がある病症である。

<まとめ>
うつ病には、元気がない、意欲がない、沈み勝ち、疲れやすいなどの気虚の病症が多く現われる。
寒症状を伴う陽虚になると重症で治りにくい。 老人性の疾患では、うつ病のみならず、腎が虚す場合が多いと思われる。 ここで腎虚証について考察する。

 腎虚証には、主に精気が虚したものと、主に津液が不足したものがある。さらに、津液の不足したものには、虚熱が多いものと腎の陽気も不足したものがある。

 症例1は主に精気が虚したものである。
症例2は精気の虚に津液の不足が加わったものである。

 腎虚には陰虚証と陽虚証とがある。 主に精気の虚したものと津液が不足して虚熱が多いものは陰虚で浮脉となる。 津液が不足して腎の陽気も不足したものが陽虚で沈脉となる。

 症例2において、脉状が沈、滑、数であることを考えると、数は精気の虚によるもので、滑は虚熱によるものである。沈は膀胱経からの発汗により、陽気も不足していることを示していると思われる。 すなわち、症例2は、腎虚陰虚から腎虚陽虚への移行型と考えられる。 なお、胸のざわつき、不安感などの精気の虚による病症に対しては、経金穴が有効であり、津液の不足に対しては、兪土原穴が有効である。

漢方鍼医弟10号より転載