歩いて来院したのに、帰りは・・・
5月のある日、50歳代の少し肥満したご婦人が来院した。病症は急性腰痛、いわゆるギックリ腰の症状である。歩行はしっかりしており軽症の部類であると診た。
その日は、朝から患者が立て込んでおり一時間ほど待ってもらった記憶がある。現在は予約診療であるから、患者を一時間も待たせることは無い。しかし、当時は自由診療であり一時間も待たせる結果となった。この事も、治療を誤った一因となった様である。
患者を診療室に呼び入れると、スムーズに着替えをすましてベットに仰臥していた。治療院のベットは、木製で75センチと標準より高いのであるが余り苦痛も無く仰臥したようである。私は、この腰痛はたいしたことは無く簡単に治るだろうと、安易に先入観を持ってしまったようである。これが大変な結果を引き起こしてしまったのである。
訴える症状は、2、3日前より簡単な起居動作の度に腰部全体に違和感が現れ、特に前屈時に軽い痛みを感じるという事が主訴のようである。軽度な急性腰痛と簡単に診断し所定の治療を進めた。伏臥位での治療を済ませ、仰臥位になる事をうながすと、身体が動かせないと訴え手足を無気力に動かしている。私が介添えし、仰臥位にしようとするが激しく痛がりどうしても出来ない。
これは大変な事になってしまった。冷や汗がどっと身体中に出てきた。他のベットで患者が治療を待っている。待合室にも患者が待っている。どう対処しよう・・・・・。
しかし、30分経過しても仰臥位になれない。1時間が経過しても全く病症の好転は診られない。段々と不安になってきた。どうしたら良いのか分からない。他の患者を治療していても「意ここにあらず」で、全く治療になっていない。それでも、何とか午後の治療を済ませたものである。
結果的には3時間が経過していた。それでも患者は動くことが出来ないのである。患者は家人を呼んでくれと訴える。私は即座に電話をし、事情を話し至急に迎えに来てくれる事をお願いした。何とか3人がかりで患者をベットより降ろし、迎えの自動車に乗せて帰っていただいた。
後日、患者に電話しこわごわとその後の経過を聞いた。患者の説明によると、明るい声で過去にも2回ほど同じような事があったという事である。その後も患者は来院している。今回の誤治にて、救急車を呼ぶことなく済んだ事は不幸中の幸いである。
当時の治療は
この症例は、30年程前であり開業1年位のものである。この時期の2、3年間には、この症例に類したものが数例はある。いずれも冷汗ものばかりである。当時のカルテはメモ程度の書入れであったので、治療内容の詳細な点は分からないが、かなり確かな記憶が残っているので、この症例を再現してみたい。
◆症例
患者 50歳代の婦人
主訴 急性腰痛?。
2、3日前より腰部全体に違和感を感じるようになった。朝の洗顔が両手で出来にくいが、起居動作には軽い違和感はあるものの余り支障はない。主訴は腰部全体の軽い違和感の様である。
診察 脉状は全体的に沈脉で虚。腰部全体は緊張して冷えている。腹部は軟弱であり生来胃腸は弱いほうである。手足は冷えている。肩背部の強いコリ感がある。
主証 肝虚証
治療 治療側は右。右の曲泉・陰谷に銀一寸二番鍼にて入念な補法を行う。陽経は胃経の三里に補法、三焦経の左陽池にも補法を行う。
標治法として、腰部の緊張部に1センチ程の置鍼数本。肩背部の強いコリに対して数本置鍼する。置鍼時間は10分ぐらい。抜鍼後、円鍼にて腰部や肩背部を中心に軽擦し背部の治療を終わる。
経過 背部の治療後、仰臥位をうながすが身体が動かないと訴える。介添えし仰臥位にしようとするもかなりの痛みのために出来ない。手足を無気力に動かすのみである。
そこで、少し経過を診る事にした。
他の患者の治療を済まし、患者の経過を診るも全く動けない。適当な言い訳をし、もう少し経過を診る事にした。
この様な状態が続き3時間ばかりが経過した。患者の状態は全く変わらない。むしろ、徐々に悪化の傾向を呈してきた。明らかに治療過誤である。意を決し患者の家人に連絡することにした。来院した家人と3人がかりにて患者を無理やりベットから降ろし、車に乗せて帰っていただいた。全く冷汗ものであった。
今ならこう治療する
この症例は、現在より診れば全くお粗末な治療である。
一番の問題点は、陰虚と陽虚の病理について全く理解が出来ていないというか、臨床的に分かっていないと言う事。また、気虚や血虚の臨床的病理も全くといって良い程に分かっていないのである。そして、当時の治療の中心が標治法にあったという事である。これは、本治法は形式的に行っていたということになる。また標治法についても、現在より考えれば明らかにドーゼ過多であるとともに全く病理にあっていない。決定的なのは、この症例は決して急性腰痛ではなくおそらく慢性的に腰痛症状を発症していたものと思う。
ここで、症例を検証し現在の治療法で考察してみる事にする。
1.主証について
主証は肝虚証となっているが、正確には肝虚陰虚証と表記すべきである。当時は、証といえば陰虚証しか想定していなかつたようである。この事は、病理が全く理解されていなかった事をあらわしている。
現在の臨床では、陽虚証が8、90パーセントをしめるのが一般的である。この病症は、脉状が沈脉で皮膚全体も冷えており、患部である腰部全体も冷証を現しているのであるから陽虚証と捉えるのが基本的な臨床的病理の考え方である。
主証も、おそらく肺虚証であろう。肺虚証という事は、肺虚陽虚証であり陽虚の病症を現す。陽虚という事は、すなわち病理的には気虚証の事である。
2.治療について
現在の治療は、本治法に?鍼を多く使用している。
選経選穴は、肺経の太淵(兪土原穴)と脾経の太白(兪土原穴)に衛気(難経76難の手技)の手法を行う。臨床では脾経一経で終わることも多い。この様な症例では、陽経の手技が最も重要となり剛柔理論による相克的な選穴を行なっている。小腸経の後谿(兪木穴)と胆経の臨泣(兪木穴)に営気(難経76難の手技)の手法を行うのである。衛気、営気共に補法的な手法となる。
この様な選経選穴と手法を行うと、脉状は和緩をおびて中位にまとまってくる。身体全体も温たかくなり艶と潤いが増し、腹証も冷えと堅さがとれ全体的に柔らかくなってくるものである。
標治法は軽く軽快に行う。患部である腰部については接触鍼にて緊張を取ってやる。肩背部も接触鍼にて軽く行い気を流してやる。下肢の三焦経にも気を流す手法を行う事が必要であろう。
これで治療は終わるが2-3回の治療は必要である。治療後、手足は温かくなり皮膚全体にも艶が出て気分は爽快となるものである。この様な治療にて、腰部の違和感もかなり軽減するものと思う。
3.治療時間について
余り長い時間をかけての治療は、ドーゼ過多となり病症も好転しない場合が多い。一般的には、15-20分ぐらいが最適であると思っている。
4.証の伝変について
病症の経過と共に証は伝変する場合が多い。
この症例では、病症の経過が好転すれば肝虚陽虚証に伝変するものと思われる。一般的な健康人の急性腰痛は、肝虚陰虚証が順であると考えている。
この症例の患者は、生来余り健康体ではなく陽虚体質であろう。全体的に気虚で冷えた体質のようである。病症経過も緩慢な経過を呈する場合が多い。最終的には、肝虚陽虚証となり治癒する症例であると思う。
まとめ
今後の鍼灸臨床においては、鍼灸病証学が大変に重要になると思う。
まとめとして、私が現在行っている病証分析を書いておくので参考にしていただきたい。
◆痛みを主訴とする病証→腰痛について
1.急性腰痛→ギックリ腰・多くは労倦より発症する。
病証→陰虚の血虚 脉状→浮虚数 熱はなし
証 →肝虚陰虚証
2.老化腰痛→加齢・老化による腰痛・慢性的病証
病証→陰虚の気虚 脉状→浮虚数 熱はなし
証 →腎虚陰虚証
3.慢性腰痛→慢性的腰痛・緩慢な痛み・冷病証を伴う
病証→陽虚の気虚 脉状→沈虚しょく
証 →肺虚・脾虚・腎虚・脾腎虚の陽虚証
4.血虚腰痛→慢性的腰痛・しびれや麻痺、鈍重感を伴う
病証→陽虚の血虚 脉状→沈虚遅
証 →肝虚・心包虚・腎虚の陽虚証