高血圧病症の伝統鍼灸治療

1.はじめに

鍼灸の古典文献には高血圧症という明確な病症の記載は明記されていない。

この病症は血圧計が創案されて以後の概念的疾病である。伝統医学に於けるこの病症に対する基本的考え方は、血圧異常が発症するのは生体の陰陽的変性等により固体の恒常性を保つ為に起こる生体の防衛現象であり、必然的に血圧の異常が発症するものと捉えるのである。この様な思考の基に血圧は鍼灸治療等により無理に下げたりするものではなく、ごく自然に下がる様に生体の生命力を強化する治療法を取る事になる。

伝統鍼灸の臨床実践に於ては、病名に対する治療は無く証に基ずく隋証治療がその基本となる。故に高血圧症という病名に対する治療法は原則的には無いのである。この事はこの医学を修得する為には実に重要な項目である。 そこで、伝統鍼灸の実地臨床では高血圧病症をどう捉えるのかを整理しその背景を考えた上で具体的治療法を考察する。

2.高血圧病症の整理

高血圧病症とは、血圧計が創案された以後に現象として血圧の数値が正常数値を越えた為に発症する諸病症の総称を指す。現代医学に於ける分類は、本態性高血圧病症と二次性高血圧病症としている。本態性高血圧病症は、原因疾患が認められないのに血圧の異常病症を現すものでありこの疾病の90%以上を占める。

二次性高血圧病症は腎・心・肝・脳等の諸病症がある為に血圧の異常を現すものを指すのである。 日常臨床に於けるこの病症の自覚症状は一般的に個人差が多く、中にはこれといった決まった症状を訴え無い場合もある。その中で比較的に多い症状をあげると以下の様にまとめる事が出来る。

1.初期には血圧変動が多い。同時に頭痛・頭重・眩暈・耳鳴り・逆気・頑固な肩こり等の症状を訴える。

2.症状が進むと頭痛やめまいが強くなる。そして睡眠障害・精神不安定・動悸や息切れ・眼底出血・視力障害等の症状を訴える。更に病症が進むと、胸部の圧迫や狭心症・心筋梗塞の病症を現す。

3.腎臓については、細動脈硬化が進み腎機能障害を発症する。症状としては夜間多尿・顔面や下肢の浮腫を通して腎不全病症に進む。 臨床の場にては以上の様な種々なる症状を現すことになる。

しかしこれ等の病症は、血圧が上がった為に随伴的に現れる症状であり決して病気の本態を現してはいない。 伝統鍼灸の臨床実践にあっては、患者が訴える諸病症の本態把握こそ最も重要な診断となる。

3.伝統鍼灸の治病理論

病気とは何か、どの様な状態を病気と言うのか。この事は素朴な問いかけではあるが非常に重要な意味を持った疑問である。

病気とは何かについて素問「調経論」にて種々論じている。それを少しく考察する。素問「刺法論」を踏まえて黄帝が問う。『鍼の刺法には、有余には瀉を不足には補を行うとあるが、その有余・不足とは何を言うのか』。岐伯が答えて『有余に五、不足に五ある。何が有余・不足かと言うと、神・気・血・形・志の事である』。

この問答の意味するところは重要である。鍼の刺法は病気に対して行うのであり、その病気とは何かと問うているのである。それに対して、病気とは「神・気・血・形・志」の有余不足にあると解答している。この「神・気・血・形・志」は五蔵の精気の事であり、この精気が虚したり実したりしたのが病気であると言うのである。

素問「六節蔵象論」に、この「神・気・血・形・志」の五蔵配当がある。それによると、心は神・肺は気・肝は血・脾は形・腎は志を蔵するとあり各蔵府の基本性能が論じられている。そして、五蔵の精気の働きは気血となり経脈を通じて全身に循環して身体を形成している。 病気は五蔵精気の虚を基本として発生する。この様な精気の不調により気血の流れに不順が起こり経脈の虚実が生じるのであるとしている。この考えの基本が、蔵府経絡説で説く経脈と蔵府は一体であるとする論である。

伝統鍼灸として『高血圧症』そのものの治療法は原則的には無いのではあるが、患者が訴える諸病症よりこの病症を考察すれば、多くは「肝腎の精気虚」が診察される。病症の進行によって「心脾の精気虚」にも波及する事になる。本態性高血圧症と思われる病症の初期に現れる症状の本態は、肝腎の精気虚により「血・津液」の不足をきたし「虚熱」が発生し「上実下虚」の病証を呈することになる。この様な病理状態により「下冷」が生じ「上実」的諸病症である頭痛・頭重・頚肩のこり・眩暈・耳鳴り等の逆気症状を現す事になる。

また「お血」が病因となりこの病症を現すこともある。お血の成因には種々考えられるが、一般的には閉経・打撲・寒病症に付随して発生する。気欝によりお血を形成する事もある。現れる病症は、生理不順や逆気病症・精神神経的諸病症等が多い。臨床的には「肝実」として治療を行う。

ここで臨床の実際について考察する。

伝統鍼灸は随証治療が基本である。故に「病証」や「証」の病理的把握が重要な診察行為となる。高血圧症により現れる一般的な病証は「上実下虚」の諸病証を呈する。加えて「寒病証」を付随する事が多いものである。この様な特色より、証としては肝・腎・脾の虚証が基本となる。またH血が絡めば、証として肝実を考えなければならない。時には脾実も臨床的にはあり得る。選穴では土穴や原穴・兪穴が基本となる。

全人的調整が伝統鍼灸の特色である。この点より腹部の調整は絶対に欠かせない治療となる。また側頸部や肩背部の補的調整も治療効果からみて重要な治療となる。

4.症例

ここで、本態性高血圧症と診断された症例を報告する。

患者:65才の中小企業社長。

主訴:高血圧で動脈硬化もある。たえず頸肩部の頑固なこりと頭痛に悩まされている。狭心症の既往があり降圧剤を永年服用しているがこれを止めたいという。

来院時の病症:慢性の頸肩部のこりと頭重痛。下肢の冷え。咽喉部の乾燥感と不眠症があり特に寝つきが悪い。夜間排尿はない。食欲は旺盛である。血圧は降圧剤を服用しているので最高が140前後であり、最低は80である。現病歴:高血圧症と診断されたのは10年前である。その時の血圧は、最高が190最低が90であつた。狭心症の発作は5年前である。頸肩部のこりと頭重痛や下肢の冷えは15年ぐらい前よりある。

所見:全体にずんぐりとした体型で顔面が上気したように赤いのが特に目立つ。喋り方は早く声は大きいほうである。多汗症でたえず頸や肩に汗をかいている。下肢は冷たい。胸部を中心として上焦に熱があり口渇を訴える。眼窩部が硬い。頭髪は薄くなっている。

脉証:全体に弦脉を帯び硬い脉状で浮いている。菽法では左関上の異常が目立つ。左右の寸口部の脉が大きく強い。

腹証:臍下が虚弱で左季肋下が硬く抵抗あり。胸部に虚熱がある。

:肝虚陰虚証。

病理考察:慢性的病症と服薬等により血虚と津液不足となる。その為に下焦が冷え虚熱が上焦に昇り口渇や頭重痛等の病症を現す。この様な病理の基本は腎が虚しているからである。

治療:治療側は左。用鍼は銀の1寸2番(30ミリ18号鍼)を使用。左の陰谷と足三里に補鍼。脉診により腹部の関元に入念な補法を行う。側頸部の硬結を弛めて肩背部に瀉的に散鍼を施す。足部の指間筋の緊張を弛めて鍼治療は終了。腹部臍上の知熱大灸と左右の照海・足三里に小灸各3壮を行い一回目の治療を終了する。この様な治療を週2回の割合で5回続けると諸症がかなり改善してきた。その後も週1回ぐらいの治療を継続中である。

5.まとめ

伝統鍼灸治療は、病名や個々の症候に対するのではなく「随証治療」が基本であり「全人的調整」がその目的となっている。故に治療の基本は蔵気の調整にあると私は考え日常臨床を進めている。この様な基本的理解の立場より、実地臨床の場では「精気の虚」を診断する事が「証」の決定には最も重要であると思う。