顔面神経麻痺症の臨床二例

1.はじめに

伝統医学においては顔面の麻痺を「口僻」「口咼」と表現する。口僻は口が偏ることを表し、口咼は口がゆがむことである。そこで顔面神経麻痺を、たんに「口眼咼斜」と表現する場合が多いのである。 今回は急性の顔面神経麻痺症二例につき、その臨床症例を通して病因・病理・治療・養生・予後等につき考察する。

2.病因と病理

古書には「風邪が血脈に入ると口眼が咼斜する」とある。中国の隋代に刊行された『諸病源候論』には「風邪が足陽明経と手太陽経に侵入した後に、再び寒邪に遇って筋肉が緊縮し顔面や頬部を牽引し、その為に口角が咼斜して言葉が発しにくくなり、両眼で水平に物を視ることができなくなる。その脉を診察して浮・遅であれば予後が良好である。」とある。

顔面神経麻痺症の病因は、伝統医学としては「風邪」を第一に考える。風邪が血脈を侵した為にこの病症を発症するのである。この病態は、風邪が血脈に中ると血中の津液が虚して虚熱が発生するという病理状態を現わしている。そして、この様な病理状態の時に寒邪や疲労・強いストレス等を受けると顔面部の諸症状を発症することになるのである。

3.蔵府経絡について

顔面部の麻痺症状を発症する部位は陽明経と少陽経等が多いのである。そして陽明経の裏側には厥陰肝経が流注している。故にこの病症の経絡支配としては、大腸経・胃経・三焦経・小腸経・肝経等々であり、これらの経脈がこの病症に大いに関係がある。蔵府については、病因や病理等より風邪・血脈・虚血等がこの病症を発症する関連因子であるから、心・肝・腎・胃・三焦等の蔵府障害を現わしているものと考察する。

4.症 例

<1 例>

患 者:女性。60歳の警備会社重役 

主 訴:右顔面、特に口眼の麻痺症状。右頸肩部の強度のコリ症状。

初 診:平成9年6月3日
来院時の病症:3日前より右顔面、特に口眼に麻痺感を覚える。右眼は閉眼させるとベル現象を現す。涙もたえず出ている。口唇は麻痺し左に傾いている。その為にお茶が飲みずらい。右頬部や顔面が平滑であり表情の変化が無い。言葉が出しにくい様で語尾聞き取りにくい。絶えず眼や口唇部に手を添えている。 
既往歴:喘息と右肋膜炎の既往がある。左肩背部に強いコリ症状が続くと必ず気管支喘息の発作が始まると云う。これは20年来続いている症状との事。血圧は低く冷症であり皮膚表面が冷たい。慢性の左腰痛がある。風邪に罹患し易いが余り熱は出ない。糖尿病の既往があるが食事療法で治したとの事。
所 見:全体にずんぐりとした体型の肥満体である。皮膚は肌目が細かく白い方であり冷たい。下肢は冷たいが上焦の頸肩部には汗をかいている。胸部を中心として上焦に熱感があり口渇を訴える。 顔面部は口眼をはじめ全体が左に傾斜している。右の口角が少し開いている。右眼は少し赤くなり涙がにじんでいる。右の小鼻が小さく扁平に感じる。右側の眉間のシワが消えている。
脉 証:全体に弦脉を帯び硬い脉状で沈んでいる。菽法脉診では左関上の脉部に異常がある。そして左右寸口部の脉が特に硬 い。
腹 証:虚満の腹証で大きく盛り上がっている。左季肋下が硬く抵抗がある。臍下が虚弱であり胸部に虚熱を触れる。
:肝虚陽虚証。
病因・病理考察:慢性的に発症しているカゼ症状に対する服薬。加えて多忙な業務によるストレス等が病因となり本症が発症したもであろう。特に継続的な服薬により脉状全体が硬くなる。これは津液の不足状態を現す。その為に下肢や皮膚の冷えを発症し胸部に虚熱が停滞し口渇等の病症を発する事になる。この様な状態の時に多忙な業務によるストレス等が加わりますます疲労が蓄積された。ここに風邪が血脈に侵入し本症を発病させたものと考察する。

治 療:治療側は右。用鍼は銀の一寸二番(30_18号鍼)を使用。 右肝経の太衝(兪土原穴)に長めの補鍼。つづいて右胃経の上巨虚(大腸の下合穴)に補鍼。脉診より腹部の関元に入念な補鍼を行う。

この様な治療により脉状の硬さがかなり改善され軟らかい脉状になると共に脉位が少し浮いてきた。この脉状を確認して側頸部には緊張を緩める為に補的に散鍼を肩背部には瀉的に散鍼を行う。つづいて主訴である顔面部の麻痺所見に対して極軽微な補的刺鍼を丁寧 に施して鍼治療は終了。腹部臍上に知熱大灸1壮を施灸した。小灸は右合谷穴に5壮、足三里穴に左右各3壮を行い1回目の治療を終了する。

この様な治療を2日続けると、全体に弦脉を帯びた脉状が柔らかくなり脉位も浮いてきた。顔面の麻痺症状も少し緩んで表情が現れてきた。

四回目:6月6日 主証は肝虚陰虚証。

治療側は右で用鍼は同じ。選穴を右肝経の曲泉(合水穴)とした。陽経は右の上巨(大腸の下合穴)。いずれも補鍼の治療を行う。右側頸部と顔面部の丁寧な補的刺鍼を施す。肩背部は軽く瀉的に散鍼を行う。臍部の知熱大灸と合谷穴と足三里穴左右の小灸各三壮は継続して行う。この様な治療を6日間毎日行うと顔面の諸症状が著しく改善してくると共に体力も強化されてきた。途中にカゼ病症や腰痛等の症状が現れたが、肺虚陰虚証・脾虚陰虚証等にて対処し乗り切ってきた。

主訴の顔面麻痺については肝虚陰虚証が主訴となり20回の治療にて諸症が90パーセント以上改善された。治療期間は約1ケ月。その後も週1回の治療を継続している。

※知熱大灸について

故井上恵理先生が考案された『知熱灸』は、基本的には表熱や表実を取る瀉法として臨床応用する。ここで施灸した『知熱大灸』は一般の知熱灸の五倍大のものである。この大灸を臍上か関元・中・・中極穴等の部に施灸するのである(病症や証により選穴)。治療目的としては強補となり虚証に対して行う。言うなれば、先天の原気を補う事になる。

<2 例>
患 者:男性。60歳のベテラン声優。
主 訴:右顔面、特に口眼の麻痺症状。右頸肩部の強度のコリ症状。
初 診:平成9年5月21日。
来院時の病症:三日前より右顔面、特に口眼に麻痺感を覚える。右眼は閉眼させるとベル現象を現す。涙もたえず出ている。口唇は  麻痺し左に傾いている。その為にお茶が飲みずらい。右頬部や顔面が平滑であり表情の変化が無い。言葉が出しにくい様で語尾 が聞き取りにくい。絶えず眼や口唇部に手を添えている。 
既往歴:気候の変更期に微熱程度のカゼ病症に罹患する位で特に無し。

所 見:中肉中背でスポーツマンタイプ。色は浅黒く精悍な感じ。皮膚は肌目が細かく多汗症でよく汗をかいている。下肢はかなり冷えているが胸部に虚熱を触診する。典型的な逆気症状を現わし口渇を訴える。カゼ症状を現わし7度2分の微熱もある。

顔面部は口眼をはじめ全体が左に傾斜している。右の口角が少し開いている。右眼は少し赤くなり涙がにじんでいる。右の小鼻が小 さく扁平に感じる。右側の眉間のシワが消えている。

脉 証:全体に緊脉を帯び数脉で浮いている。菽法脉診では左関上の脉部に異常がある。そして左右寸口部の脉が特に硬くて厳しい脉状を現わす。
腹 証:腹部は全体に締まって緊張している。右臍下と左季肋部が緊張して硬い。特に右臍下部には硬結を触診する。臍下は軟弱であり胸部に虚熱を触れる。
:肝虚陰虚証。

病因・病理考察:慢性の睡眠不足に加え過密な仕事による疲労の蓄積と、連日にわたる飲酒により体調をこわしカゼに罹患し微熱が現れる。その為に胸部に虚熱を停滞させ下肢の厥冷と口渇を発症した。

この病症は津液不足により発症したものである。この様 に体力が低下した状態に寒邪が侵入し本症を発病させたものと考察する。

治 療:治療側は左。用鍼は銀の一寸二番(30_18号鍼)を使用。 左肝経の曲泉(合水穴)腎経の陰谷(合水穴)に軽微な補鍼。つづいて右胃経の上巨虚(大腸の下合穴)に補鍼。脉診により腹部の関元に入念な補鍼を行う。

 この様な治療により脉状の緊脉がかなり改善され軟らかい脉状となり数脉も落ち着いてきた。この脉状を確認して側頸部には緊張を緩める為に補的に散鍼を肩背部には瀉的に散鍼を行う。

つづいて主訴である顔面部の麻痺所見に対して極軽微な補的刺鍼を丁寧に施し て鍼治療は終了した。そして腹部臍上に知熱大灸1壮、小灸は右合谷穴に5壮、足三里穴に左右各3壮を施灸し1回目の治療を終了する。

この様な治療を2日間続けると顔面の麻痺症状がかなり改善すると共にカゼ症状の方も完治した。

四回目:6月2日(7日後の治療)。

顔面麻痺の病症がかなり悪化して来院。 患者の訴えをまとめると「仕事が過密と成りかなり無 理をした。また飲酒の方も根が好きな方だから連日の様に続いてしまい病症が悪化してしまった。この頃は仕事でのしゃべりにも支障が出てきた。何とかして欲しい」との事。

脉 証:全体に弦脉を帯び硬い脉状で沈んでいる。菽法脉診では左関上の脉部に異常がある。そして左右寸口部の脉が特に硬い。
腹 証:全体に硬くて緊張した腹証である。特に左季肋下の緊張が強い。臍の左に微かに脈動を感ずる。臍下は軟弱でそこだけ虚弱である。胸部には熱をはっきりと触れる。
:肝虚陽虚証。

治 療:治療側は左で用鍼は銀の一寸二番(30_18号鍼)を使用。 左肝経の太衝(兪土原穴)腎経の太谿(兪土原穴)に入念な補鍼。つづいて左胃経の三里(合穴)に補鍼。脉診により腹部の関元に入念な補鍼を行う。 この様な治療により脉状の緊張がとれ浮いてきた。この脉状を確認して側頸部には緊張を緩める為に補的に散鍼 を肩背部には瀉的に散鍼を行う。顔面部所見に対して極軽微な補的刺鍼を丁寧に施して鍼治療は終了。

腹部の関元穴に知熱大灸1壮を施灸した。小灸は右合谷穴に5壮、足三里穴に左右 各3壮を行い治療を終了する。 この様な治療を2日間続けて行うと顔面麻痺の病症や全体の枯燥感が改善し体力も付いてきた。脉状も弦脉がとれ浮いてきた。

六回目:6月6日 生活を自粛し飲酒も止めている為に病症の経過はとても良い。体力も戻って来た。証を肝虚陰虚証とし選穴も左肝経の曲泉(合水穴)と胃経の上巨虚(大腸の下合穴)の補鍼。側頸部や肩背部の適当な処置も行う。顔面部の丁寧な補的刺鍼も続ける。 しかし、症状が少し良くなると仕事の為といって治療間隔が10日位開いたり飲酒が始まる。症状の改善は一進一退の状態が続いており中々に完治にならない。
5.考 察

急性顔面神経麻痺の病症2例につき臨床の実際を報告した。

この病症に限らず急性症の治療は短期に集中して行う事が病症改善の決め手である。それに加えて生活の自粛と飲酒等の節制にある。この様な指導も治療家の仕事の範疇に入る重要な事項である。

顔面神経麻痺症は、疲労やストレス等の蓄積により生じた精気の虚に乗じて「風邪」や「寒邪」が侵入してこの様な病症を発症するものである。その為に体力(生命力)の強化が治療の基本的な目標となる。