東 恩 納 寛 量 先 生
東恩納寛量先生

 東恩納寛量先生は、士族父寛隆、母真鶴の四男として1853年3月10日那覇市西町に出生した。

 寛量先生は、幼少の頃より身体極めて頑丈で、少年時代から空手に興味を持ち、手を修行していた。

 が、当時の風習として、極秘主義を固守し、有名な大家になればなるほど、その子孫といえども伝授 せず、また他に伝授しないことを至極誇りとしていたので、その教えを受けることは困難であった。

 寛量先生は、中国拳法への執念抑え難く、遂に中国行きを決意し、1973年(明治10年)23歳 の時に福州に渡った。

 多年の念願であった福州の地を踏み、早速当時武名の高かった劉良興老師を訪ね、子弟の契りを結ぶ ことが出来た。

 その天賦の素質と努力の甲斐あって、数年後には師範代を允許されるまでに熟達し、沖縄の東恩納の 武名は、その界隈でも誰知らぬ者はいないほどになった。

 38歳の時、望郷の念にかられ、老師の許可を得て沖縄に帰り再び商業に専念していたが、その高名 は次第に広がり、名家や先輩方から懇願され、止むなくその師弟を指導するようになった。

 常に子弟の精神教育に留意され、その性格が粗暴な者に対しては直ちに破門し、また入門を堅く断っ た。性格が粗暴な者がそれを学べば、後日必ず禍し、悔いを一生に残すと常に諭されていた。

 それ故に、優秀な門下生が多数集まり、広く社会から尊敬を集めた。

 1917年(大正6年)病没。 時に63歳。

(宮里栄一先生著・沖縄伝剛柔流空手道より掲載)





剛柔流開祖 宮城 長順先生
宮城長順先生

 宮城長順先生は、1888年(明治21年)4月25日那覇市東町1丁目1番地に生まれた。

 宮城家は当時那覇に於いて資産家として知られ、他の羨むような極めて裕福な家庭に育った。

 幼少の頃より頑強な体に恵まれ、各種スポーツを愛好し、腕白な少年として知られていた。

 14歳の頃、当時那覇に於いて実力随一とうたわれた有名な東恩納先生の門に入ることになった。

 その当時、一般社会に於いては空手がよく理解されず、単に闘争の具として解され、空手を修行した ら性格が粗暴になり周囲から嫌われると誤解されていた。

 従って修行者も極めて少なく、他人は勿論、家族と雖も誰にも知られないように隠れて修行するのが 常であった。また、入門するにも相当信頼する人の紹介がなければ入門することが許されなかった。

 東恩納先生の指導方法は極めて厳しく、3〜4年間も基本の三戦を徹底的に叩き込み、殆どの門弟達 が辛抱できず中途で逃げ出し、よほど忍耐力が強く意志強固な者でなければ永く続かなかった。

 宮城先生は忍耐力が強いばかりでなく、極めて研究心が旺盛で、寝食を忘れて日夜修行に励んだ。

 その甲斐あって、力量技量ともに抜群で、その将来が嘱望された。実力が認められるに従って、なお 一層自重し、常に謙虚な態度で人に接し、信望を集め尊敬されるほどになった。

 1915年(大正4年)5月、師の許可を得て友人の福州人、呉賢貴(白鶴拳大家)を同行し、待望 の福州に渡った。

 1917年(大正6年)東恩納先生亡き後、益々空手の研究に没頭し、また宮城先生の人格と実力に 憧れ、子弟の指導を懇願する者が多く、止むなくその指導を引き受けるようになった。

 1929年(昭和4年)4月より、沖縄県警察練習所と那覇市立商業学校に空手が正課として採用さ れ、その師範に迎えられた。

 その他、裁判所や各官庁の職員等に指導するようになった。また、本土に於いても関西大学をはじめ 立命館や同志社大学等にも空手部が創設され毎年招聘され、その指導にあたった。

 1930年(昭和5年)11月、沖縄県体育協会に初めて空手部が創設され、その空手部長に推され 一般へも広く普及されるようになった。

 1937年(昭和12年)5月5日、大日本武徳会主催の武徳祭に於いて空手を演武し、全国で初め て空手術の教士の称号を授与された。

 1938年(昭和13年)4月、沖縄県師範学校の空手師範に任命された。

 1945年(昭和20年)終戦後、沖縄民政府が設けられ、警察学校の教官に任命され、指導に専念 する傍ら、那覇市壺屋の自宅道場に於いて門弟の指導育成にあたられたが、1953年(昭和28年) 10月8日、各界から惜しまれつつ65歳の生涯を終え他界された。

 先生の子弟への戒語は、「謙虚」、「難儀」(苦しい修行)は、即ち極意であった。

(宮里栄一著・沖縄伝剛柔流空手道より掲載)





流祖宮城長順師の継承者・沖縄剛柔流協会初代会長
宮里栄一先生


宮里栄一先生   (大正11年7月5日〜平成11年12月11日)

(略 歴)
 大正11年7月5日 那覇市東町にて出生。
 昭和11年     父について空手の手ほどきを受ける。
 昭和13年     宮城長順先生に師事。
 昭和21年     琉球警察に入り、警察学校体育教官であった師の助教となり
           後進を指導。
 昭和28年     宮城先生の御逝去により、体育教官に任命される。
 昭和43年     那覇市安里443番地に道場開設。
 昭和47年     琉球警察を退職。
 昭和59年 5月  日本講道館より表彰。
 平成 6年 1月  武道功労章の表彰。
 平成 6年12月  沖縄県柔道連盟より表彰。
 平成 7年 1月  沖縄県体育協会より表彰。
 平成 9年 5月  那覇市政功労者で表彰。
 平成10年10月  文部大臣より表彰。

 ・全日本空手道連盟顧問
 ・全日本空手道連盟剛柔会顧問
 ・沖縄剛柔流空手道協会会長
 ・沖縄県空手道連盟会長
 ・沖縄県柔道連盟顧問
 ・剛柔流空手道 範士十段
 ・柔  道   八 段


 少年時代から父親より空手の手ほどきを受け、昭和13年17歳の時、宮城長順先生の元で本格的に 師事を受ける。

 昭和21年25歳の時、琉球警察学校体育教官であった宮城先生の推薦を受け、師の助教として琉球 警察学校での空手道の指導に専念する。

 体格の素晴らしさと職業の影響力もあって、格技面では組技、投げ技も立ち技同様必修の課目とし、 柔道の世界へも関心を示す。世人の模倣や試みでは到底達しえない高い領域で、空手道・柔道の実践 活動を行い、自らの試練の道として追求していった。

 昭和28年、宮城先生の逝去により、琉球警察体育学校の教官に任命される。

 また、時期同じくして宮城家の御遺族や諸先輩方は、剛柔流の将来を憂慮し、再三再四に渡り真剣に後継者の人選を協議し、 宮里先生にその将来を託した。

 同年12月より宮城先生宅の庭先に於いて空手の指導も開始した。

 宮里先生は自己透視の精神の中で、自分自身の在り方に執着し、空手道の将来を開眼していく中で、 空手道の伝統性と現代性を見極めることの方向性を探った。

 若手や後継者の育成には厳しい修行を通じ強靱な身体と不屈の精神を養うスポーツとして親しまれると共に、礼節と信義を重んじ人間形成に資す る武道文化として国内をはじめ国際的に広く普及する事を、宮里先生は常に真剣な眼差しでとらえてい た。

 歯に衣を着せぬ論法、強情で厳格な性格は、簡単な妥協は許さなかった。それでも反面、大変面倒見 がよく、やさしい側面も多く持ちえていた。

 宮里先生の晩年は、日中はよく国際通りを散歩しておられ、ダンディーな服装に鳥打ち帽子をちょこ っとかぶる可愛い一面もあった。
夜は順道館道場の2階ロビーから、「稽古が済んだら早く上がってきて、お付き合いしなさい。」と好きな焼酎とおいしいおつまみが振る舞われた。

 「これからは、君たちの時代だ、遠慮なんかせず意見を出しなさい。」と若手の意見をよく聞いてく ださった。人間味のあるやさしい笑顔が、つい先日の事のようである。

 沖縄空手界の礎を築き、国内は基より世界的にまで普及発展せしめた沖縄県空手道連盟3代目会長、 沖縄剛柔流空手道協会会長宮里栄一先生は、平成11年12月11日逝去された。
77歳であった。

(第15回沖縄県空手道古武道演武大会パンフレットより掲載)