私が南海ホークスを意識しだしたのは「物心ついた頃」ですが、赤子の頃から球場に連れて行かれて完全に染められた、という筋金入りのファンではなく、家族の会話にたびたび南海ホークスが話題となっているのを聞いているうちに、という程度のファンです。
小さい頃は親がプロ野球カード等を買って帰ってきてくれても、当時の私にはプロ野球が全然わかりませんでした。例えば、濃いめの顔の村山実と柴田勲の区別が付かなかったのです。(今も大事に持ってたらすごいことになっていると思います)
父親は黄金時代を体験した南海ファンで、仕事帰りに球場に寄り、勝てば祝杯、負ければやけ酒を飲んで帰ってくるタイプのファンでした。
大阪球場はとても立地がいいので、祝杯もやけ酒もすぐに間に合います。現在12球団がホームグランドとして使っている球場から数分歩いてそういう店に行ったり、しかもハシゴができる所は少ないと思います。
甲子園周辺はどちらかと言えば住宅地なので、帰り道にちょっと立ち寄ることができるような店は少なく、どうしても阪神電車沿線になります。関東でそういう便利さがあるのは伊勢佐木町に近い横浜スタジアムくらいでしょうか。東京ドーム付近は店があるようで少ないように思います。神宮球場はその名の通り明治神宮の敷地内ですから、ちょっと歩いていかなければなりません。
中学時代、当時のパ・リーグは1シーズンを前期、後期に分け、それぞれで優勝を決め、最後にプレーオフを行ってリーグ優勝を決めるという2シーズン制を採っていたのですが、南海と阪急がプレーオフを行うということで、クラスの中でも先生たちの間でも盛り上がりました。しかし、私はよくわかりませんでした。後で気付いたのですが、同級生の名前が阪急ブレーブスの当時の主力選手と同姓同名だったのです。出席簿や座席表をみれば否が応でも連想できるし、話題にもできます。
TVではV9(ヴイキュー)がどうのこうの、と言っていましたが、全く何の事やらわかりませんでした。
高校時代、帰宅時に野村監督が解任されたことを報じる大阪新聞が目に留まり、無性に気になってその新聞を買ったのでした。
依然として野球はあまりよくわからなかったのですが、とにかく懸命に読んだことだけは覚えています。
高校卒業後、通っていた予備校が大阪球場の近くにあり、その年の秋にはそこで日本シリーズが行われました。
近鉄バファローズと広島東洋カープの日本シリーズなのですが、近鉄は本来のホームグラウンドである藤井寺球場がナイター照明をはじめ設備面で日本シリーズを行うには適さないとのことで、大阪球場を使用したのでした。
月曜日か金曜日かは忘れましたが、「移動日の練習はタダで観られる」という話が伝わり、帰りに立ち寄ってスタンドから練習風景を見ました。今思えば、誰かに連れて行かれるのではなく、自分でスタンドに行った最初、ということになります。
高校野球の応援で日生球場に行ったことはありましたが、当時は戦況を眺める余裕も知識もありませんでした。スタンドで「今年はプロ選手だった人の息子がいるから強い。」などといった会話を聞いたりしましたが、その親子が何者かもわかりませんでした。PL学園の応援をナマで見たときは「すごい」と思いましたが、「早く試合が終わってくれないと準備できない」という思いの方が強く、「これからもどんどん見ていこう」などとは全く思いもしませんでした。
その後、オープン戦を手始めにたびたび大阪球場に行くようになりました。
予備校も通わなくて済むようになった春、友人と買い物に行ったとき、「教育リーグ」という看板が目に入り、その日ナマで初めて観戦しました。
スタンドには沢山のカメラの放列が見えたのですが、その試合には有名な新入団選手が出場していたのです。カメラマンたちはダッグアウトのそばと守備位置近くのスタンドを行ったり来たりして、その選手を追うよう指示されていることがわかりました。
その選手とは、現在阪神タイガース二軍監督をやっている岡田です。
次第に甲子園球場や西宮球場や日生球場・藤井寺球場にも足を延ばすようになりました。
甲子園は阪神vs巨人の観戦が最初です。人気球団ということを肌で実感しました。一方で、黙っていてもお客さんが集まる、そして圧倒的なファンを抱える巨人戦があるから阪神の成績に関係なく巨人人気だけでお客さんが集まる、ということに、何とか観客を増やそうと手を変え品を変えファンサービスを繰り広げるパ・リーグの努力ほどのことは、阪神はしていない、ということもわかりました。
事有る毎に「人気にあぐらをかいている」と言われますが、フロントにはその意識がまだまだ根強いようです。
南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズのパ・リーグ在阪3球団と言われたチームの内、阪急ブレーブスのファンサービスが一番良かったように思います。同じ兵庫県西宮市に本拠地を置く、お隣さんの阪神だけには絶対負けない、というものが感じられました。
優勝回数も多いし、電鉄会社の規模、グループの規模も全然違いますから、あとは観客動員だけだったのかもしれません。
当時のマスコット”ブレービー”も東京の日本ハム・ファイターズのマスコット”ギョロタン”より早く、12球団で初めて登場したのではないでしょうか。キャラクターもあか抜けていて、今でも通用すると思います。
後にブレーブスがオリックスに譲渡され、本拠地が西宮から神戸に変わっても、ファンサービスの質は受け継がれて関西球団の中では良い方だと思います。
近鉄バファローズは借り物で小さな日生球場、自前でも周辺が住宅地になったためナイターはできるようになっても鳴り物規制の藤井寺球場というハード面のハンデがあって、なかなか西宮や甲子園のような大画面、大音響を使ったサービスはできませんでしたが、グループのOSKメンバーを使ったり、何とか盛り上げようと色々工夫をしてきました。大阪ドームに本拠地を移してからはいよいよ今までできなかったアイデアを駆使しているようです。
近鉄は鉄道路線が大阪、奈良、京都、三重、岐阜、愛知と広範囲なので藤井寺、日生以外でも主催ゲームを行っていましたが、大阪定着を図って、球団名に「大阪」を冠しました。これは野村前タイガース監督の功績です。当時、かつて南海の監督だった野村氏が阪神監督として関西に戻ってくる、ということで阪神への関心が高まり、それに危機感を持ったそうです。
南海ホークスは、やはり阪急、近鉄、阪神に比べて球団に対する投資意欲が急激に減退していったのがわかります。振り返ってみると、1977年の野村監督解任事件のあたりがポイントだったかも知れません。球団に問題を抱え、その影響で選手も統合できなくなり、立て直しのためには完全なるリニューアルとして球団売却も選択肢に上がっていたかも知れません。
1977年秋、野村監督が解任されました。その時は珍しく駅売店で夕刊紙を買って帰りました。その解任事件後、野村氏をはじめ数々の主力選手がホークスを離れると、期待の若手は続出してもAクラス進出も難しくなり、ついに11年後、球団が譲渡されることになります。
近鉄が藤井寺球場に雨天練習場を設置したり、近鉄バファローズにやって来た新外国人選手が、本拠地藤井寺球場のロッカーの汚さに嫌気をさして急遽帰国、退団し、それが世間に知られて改修しましたが、そのようなことがあった後は、吉本興業のタレントにも「南海ホークスは12球団唯一雨天練習場を持たない球団」と言われ続けていました。
毎年シーズン直前には「現有戦力で何とかやり抜く。」というコメントが見受けられ、戦力補強もままならないことがうかがわれました。しかし、素材としてはいいものを持った選手が次々と入団していたと思います。
お気に入りの選手は何人かいましたが、中でも山本和範選手はお気に入りでした。ある日、大阪球場のライトスタンドで観戦していたとき、先ほどの攻撃で大チャンスに敢えなく凡退した山本選手がライトの守備位置についた後もしばらく「何で今のが打てなかったんや」というようなとても悔しそうにしていました。その背中を見たとき、一層気に入ってしまったのです。
さて、1988年10月15日は私も球場で涙を流しました。本拠地最終戦です。その年は仕事の関係で大阪球場に立ち寄ることが前年よりはるかに少なく、結局数試合しか観戦できませんでした。もっと足を運んでおけば観客動員のどのくらいの足しになったかどうかはわかりませんが、身売りという暴挙をくい止められたかもしれない、あるいは、もう少しでも先延ばしにできたかもしれない、と思うと今でも悔しく思います。企業の方針だから客の一人や二人増えようが減ろうが関係ないとは思うのですが、やっぱり悔しいです。
ついでに、その数年後の正月に初詣で南海電車を利用したのですが、見事に緑色が無くなっていました。
当時の吉村オーナーが決断してから、申し訳ないけれどそれまでの不義理を埋め合わせるかのように大阪球場に足を運びました。ある日、スタンドに取材に来ていた連中に「もっと選手を撮ったれ。」と怒鳴ってやったこともありました。
10・15の最後のバッターは確か新井選手でした。南海ホークスで主力の一角を務め、近鉄バファローズに移ってからも主力でした。結局三振だったと思いますが、三振を宣告されてもバッターボックスから離れるまでちょっと「間」があったように見えました。私はそのあたりから胸が詰まってきていました。試合後のセレモニーは特別な演出がなされ、例年のファン感謝デーのようなベタさが全くなく、意外でしたがよかったです。杉浦監督の挨拶は同じ立教出の方が言われたようなことをおっしゃられましたが、私は鶴岡氏の挨拶の方が胸が詰まりました。そのおかげで片道3時間かけてグリーンスタジアムまで足を運びました。
TVで元監督の穴吹氏がインタビューで、「南海時代からいる選手がいる限り応援する」とおっしゃっていたように思います。二軍監督もやっておられただけに育てた選手を見届けたいと思っていらっしゃったのでしょうか。私もそれには共鳴し、南海生え抜きが残っている限り応援するつもりでいます。王氏が監督就任以来好んで使ってくれている大道選手の活躍にはうれしく思っています。大道選手を表舞台に出させたことは評価してもいいと思います。
福岡に行ってしまって「ティントンタン体操」みたいなヘルメットと薄汚れたような茶色のユニフォームは嫌いでした。ロッテが千葉移転に伴いユニフォームを企業名を抑えたデザインに変えたのに対して真ん中に「Daiei」が頑張っている球団旗や初期のホーム用ユニフォームとビジター用ジャンパーは気に入りません。現在ユニフォーム上はFDHだけになってましになりました。
後年、オールスターゲームで外野の布陣が数分ですが、レフト門田(BW)、センター新井(Bu)、ライト山本(H)となった場面がありました。偶然かもしれませんが、当時のオール・パ・リーグ監督の粋な計らい(と私は勝手に思っています)に大感動した記憶があります。
ところで、FDHとなってから数年間はますます低迷してしまいました。浮上の芽を摘んでしまったのは田淵監督時代にあった、と言われがちですが、私は福岡移転後に就任した中西コーチに既にその兆しがあったような気がしています。後に西武や中日に移ったものの泣かず飛ばずになってしまった村田勝喜選手を始め前途有望な選手がその頃に伸び悩んでしまいました。後に権藤氏に変わっても伸び悩んでしまいました。私は穴吹監督時代に投手コーチだった河村英文氏がホークスにとって一番よかったのではなかったか、と思っています。
田淵氏は佐々木、岸川、藤本博を始めとするパワーヒッターに打撃時にみんな足を上げさせてしまいました。このうち佐々木選手は西武に移り、阪神に移っても足を上げていました。田淵監督の功績は吉永捕手を主力級にまで育てたことです。
1999年、福岡ダイエー・ホークスが優勝しました。長年優勝したことがなかったものですから、喜び方がわからず、しみじみ「ようやった。ようやった。長かったな。」とつぶやくばかりだったのが今思い出すと可笑しかったです。