FA制度とドラフト制度について
「なんでFAがあるか」ということを考えるには、まず、ドラフト制度との関連から考えなければなりません。
既にご存じのことと思いますが、ちょっと振り返ってみましょう。ドラフト制度が始まるまでは、選手と球団が自由に交渉していました。そうすると、知名度の高い球団や資金力のある球団にいい選手が集まるようになりました。その結果、それらの球団は他球団に比べて突出した戦力を揃えることになり、当然何度も優勝することができるようになります。
そうなると、圧倒的に勝利することに面白いと思う人も出てきますし、負けっぱなしでつまらないと思う人も出てきます。また、試合そのものに魅力がないとか手に汗握るような接戦もなくつまらないと思う人もでてきます。そうなると、プロ野球はお客さんからお金を取ってプレーを見せる”見世物”として、興行として成り立つのか、ということになります。試合内容や結果はともかく、日々の観客の入りによって一喜一憂するいわゆる水商売ですから、観客動員が伸び悩んで空席が目立ってはいけません。
興行収入を上げる手っ取り早い方法が学生球界で人気がある選手や現役メジャーリーガーを入団させることです。他球団のスター選手を獲得するということもあります。これらの方法は収入を得る前の投資が大変で、ここで資金力がモノを言います。かつて南海ホークスの穴吹氏が入団する際には数球団による争奪戦が繰り広げられたそうで「あなた買います」という題の映画にもなったほどだったとのことです。
入団時にかかるお金といえば契約金ですがその金額が高騰していきます。最初の年俸は若干抑えられているようですが、それなりに活躍すると年俸もぐんぐん上がっていきます。実力の世界ですから、やったらやっただけもらえる、というのは当然なのですが、ここでも資金力が有るか無いかによって差が出てきます。一般企業でも同じですが、儲けを確保するためには人件費をはじめとする固定費はなるべく抑えたいところです。たとえふんだんに資金を投入しても儲けが期待通りにならなければ、野球そのものの成績はさておき経営としては失敗ということになってしまいます。最終的にお金が掛けられない企業はプロ野球という事業から撤退を考えます。
プロとアマチュアとの関係もあります。サッカーのように大学生や高校生がJリーグでプロの一員としてプレーするというようなことはプロ野球では考えられません。今でこそ、元阪神タイガースの亀山氏が少年野球の指導者として成功したり、元阪神タイガース監督の野村氏が社会人野球の監督として活躍したり、その他、社会人野球の選手として活動したりしている人達がいますが、プロ野球経験者はアマチュア球界での活動が制限されています。
これは、ドラフト制度が始まる前の自由競争時代に原因があったと思われます。野球に限らずまだ学生なのにスカウトして入社させることを“青田買い”といいますが、「我が球団に絶対入団させる」との考えで学生の身分のうちからプロの球団に入団させたり、入団の交渉を始めたりすることが横行したことがあり、アマチュア球界からクレームが付きました。今では高校でも大学でも卒業してから入団(退部してから球団と交渉)という形が当たり前ですが、中退させてまで入団させた例もありました。
また、かつて南海ホークスで、今のようにファームのリーグであるウエスタン・リーグやイースタン・リーグが無い頃、対外試合ができない二軍選手を南海の子会社に入社させアマチュアとして社会人野球に参加させている、ということが問題となり、プロとアマチュアの関係が悪くなってしまいました。
アマチュア野球の活動をプロ野球関係者が邪魔しない、ということと、どんどん高くなる契約金を抑えてプロ球団の経営を圧迫しないようにして選手獲得活動を公平にさせる、ということと、有名な選手、有力な選手が特定球団に集中しないようにして戦力の均等化を図る、という目的でドラフト制度が始まりました。
指名の順番は日本シリーズで負けた球団が属するリーグの最下位球団からリーグを交互に上位に向かって行いますが、これを「ウエーバー制」というそうです。この方法により、下位球団に有力選手が入団しやすくなって戦力が均等化していくことにつながる、というのですが、その結果、1970年代後半からいろいろな球団が優勝するようになりました。また、両リーグで「混パ」「乱セ」と言われる混戦状態が見られるようになりました。このようにドラフト制度の効果は出ていると見てよいと思うのですが、“球界の盟主”を自認する人達の一部にとっては全球団が“ドングリの背比べ”という我慢ならない状況が続いていくわけです。
さて、ドラフトで指名した選手がいくつかの球団で競合するとくじ引きを行い、“当たり”を引き当てた球団に交渉権が認められます。大阪近鉄バファローズの佐々木監督が福留選手を引き当てて「ヨッシャー」と喜んだ場面は印象的でしたが、この喜びは選手本人の意志とは全く別のものでしたから、入団どころか交渉もならず、後年もともとの意中の球団であった中日ドラゴンズに入団し、現在の活躍に至ります。
ドラフト制度は選手本人の意志とは別に進路が決められてしまう、という問題ですが、たとえば「自分は小さい頃から巨人ファンだからプロでやるなら巨人でやりたい」と思っていても、ドラフトで自分の思いとは違う球団から指名された場合、それに異議を申し立てることはできません。このことは憲法で保証されている基本的人権のうちの「職業選択の自由」を侵しているという人もいます。
一方、「“プロ野球”という会社に入って、東京水道橋支店、甲子園支店、広島支店、福岡支店などに配属されると考えれば良いではないか」という人もいらっしゃるのですが、各球団は独自の企業ですし、各企業の内容も横並びではないので、その意見はおかしいと思います。
ドラフト制度にまつわる事件ですが、江川投手のケースは有名です。江川投手は高校野球で“怪物”と呼ばれ、卒業後はどうなるのか注目されていました。大学へ進むと表明していたのですがドラフト会議では阪急ブレーブスが指名し、入団交渉権を獲得しました。入団したい球団は読売巨人軍でしたし、関東の選手ですから70年代当時阪急ブレーブスがいくら強いチームといっても眼中にありません。江川投手はプロ入りせず表明通り法政大学に進みます。ちなみに当初は慶応大学に進むつもりだったようです。早慶戦など大きな試合があって学生野球界では注目度が高いですから、大学でやるなら慶応で、と思ったのでしょう。ところが不合格となって入学できませんでした。
そして“怪物”ですから大学野球でも活躍し、今度は卒業が近づくとますます注目されました。ドラフト会議では当時福岡に本拠地を置いていたクラウンライター・ライオンズが指名しました。今の西武ライオンズは毎年優勝候補に挙げられるほど強いですが、当時のライオンズは地元の鉄道会社の西鉄が球団経営から手を引いてからは太平洋クラブ、クラウンライターといった企業が球団の面倒を見ていたものの、“神様仏様”稲尾投手や“怪童”中西選手らがいて“野武士集団”と呼ばれた西鉄時代の頃のように強くありませんでした。当時はパシフィック・リーグどころか全球団のお荷物球団のようになっていました。
江川投手は「九州は遠い」と言って入団交渉を受け付けませんでした。プロ入りは果たしたいのにプロならどこでもいいというわけにはいかず、かといって学生を続けるわけにもいかず、会社に入って社会人野球で野球を続けてプロ入りを果たすとすると二年はその会社で過ごさなければならない、ということで結局アメリカへ渡ってしまいました。アメリカに渡っても最近のマック鈴木投手のようにマイナーリーグの球団に入って下積みから始めてメジャーリーグへの昇格を目指しメジャーリーグで有名になる、というわけでもなく、次のドラフト会議が近づくまで独自に練習を続けていきます。
一年後、ドラフト会議が迫ってくると江川投手の動向が注目されました。クラウンライター・ライオンズの関係者は一応形だけの挨拶はしたようですが、既に諦めていました。そしてドラフト会議の前日、江川投手と読売巨人軍が入団交渉を成立させてしまいました。これが「空白の一日」の事件です。前年交渉権を獲得していたクラウンライター・ライオンズの交渉期間はドラフト会議の前日ではなく二日前に切れていたのです。ドラフト会議が始まると指名の状況によっては意中の読売巨人軍ではない球団から交渉を受けなければならなくなるかも知れず、一年間の浪人生活の意味が無くなる、との考えや、ドラフト会議で読売巨人軍以外の球団に交渉権を取られてしまうと、また一年待たなければならなくなる、との考えで両者がこの日を狙ったと言われています。
入団交渉権を持った球団が指名した選手と交渉するという制度の趣旨から入団交渉権が無い読売巨人軍への入団は認められないとのことで、本番のドラフト会議で指名した球団には入団させ、直ちに読売巨人軍にトレードするという形を取って江川投手を正式に読売巨人軍に入団させることにしました。ちなみにドラフトで指名した球団は阪神タイガースで、江川投手の束の間の背番号は3だったそうです。
トレードですから交換相手が必要です。阪神タイガースからの希望で小林投手が移籍しました。背番号は巨人の時と同じ19でしたが、その影響で工藤投手の背番号が26に変えられたそうです。
元木選手のときも同様のことが起こりました。彼は高校野球で注目を集めましたが、ドラフト会議では福岡ダイエーホークスが指名しました。当時のホークスは大阪から福岡に本拠地を移したばかりで、南海ホークス時代から引き続いて低迷期のさなかであったために、知名度があり実力もある選手を是非獲得したかったのです。背番号は2を用意されていました。巨人に入ってからの背番号が37を経て現在2を使っているというのは“2”に因縁がありそうです。
元木選手は江川選手の時と同じようにアメリカへ渡ってしまいましたが、1年後のドラフト会議では読売巨人軍に指名され交渉成立となり入団を果たしました。
前後しますが、ドラフトに絡んだ桑田投手のケースです。彼はPL学園で清原選手とともに有名でしたが、ドラフト会議が近づいて進路のことが話題になると、清原選手は「プロに進む。意中の球団は巨人。」と表明していました。一方、桑田投手は「早稲田大学へ進学」と表明していました。ドラフト会議では清原選手に対して意中の球団ではない、関西ではほとんどなじみがない西武ライオンズが指名しました。一方、大学進学を表明していた桑田投手に対しては読売巨人軍が指名したのですが、入団か進学か問題になることなくすんなり巨人に入団してしまいました。この桑田投手と読売巨人軍の行動には、大学進学を主張することで他球団が指名しないよう牽制していたのではないか、と言われています。大学名まで出された大学側はいい迷惑だったかも知れません。
このようにドラフト制度にまつわる問題にはほとんど読売巨人軍が絡んでいるようです。“球界の盟主”と自認する読売にとって、圧倒的な戦力で他球団より上でなければならなず、それでこそ野球界は盛り上がるのだという考え方があるために、戦力の均等化などもってのほかなのです。その後、読売巨人軍に都合のよい制度が次々と現れて、ドラフト制度は変わっていきます。
たとえば、「逆指名」は選手側から入団したい球団を指名する制度ですが、注目された選手が「私は○○(球団名)を逆指名させていただきます」という記者会見の言葉が何故か奇妙に聞こえました。最近盛んになっている「自由獲得枠」は、各球団がドラフト会議を待たずに入団させたい選手と交渉できるという制度ですが、両制度ともほとんど自由競争で選手を取り合うという、ドラフト制度が始まる前の仕組みが取り入れられています。
本番のドラフト会議における指名順序に制約が設けられるなど、歯止めは作られていますが、有名選手、人気選手が早々と交渉を終えて入団を決めてしまっては、ほとんど形だけになりつつあるようです。
しかし、オリックス・ブルーウエーブからマリナーズに渡ったイチロー選手や大阪近鉄バファローズの中村選手のように下位指名だった選手が大活躍したりしている姿を見ると、スター選手は実はたくさん埋もれているのかも知れません。
FA制度は、入団する際に「職業選択の自由」が侵されたままだった選手が、一定の要件を満たせば自由に行きたい球団を選択して交渉し契約して、入団してもらおうという制度です。
「自由に契約」といえば「自由契約」という言葉がありますが、これは解雇の意味合いが強く、「プロ野球選手を続けたければ、どこの球団と契約してもらっても構いません」という意味や、「君に声を掛ける球団がいたらよほどの物好きだ」「たとえ入っても役には立たないだろうし、我々の敵ではない」という意味が含まれているようです。解雇の仕方として「自由契約」の他に「任意引退」という制度もありますが、こちらは文字通りの引退で、もし現役に復帰したければ、任意引退手続きを行った球団と交渉して復帰しなければなりません。ちなみに近鉄バファローズと契約更改でもめて米国に渡った野茂投手は任意引退扱いだったと聞いています。もし日本に帰ってきてプロ野球選手を続けようとするならば、近鉄バファローズとまず復帰交渉をしなければなりませんが、かなりの遺恨を持った退団だったので、野茂投手のプロ野球人生はメジャーリーグで全うされるのではないでしょうか。
FA制度は試合出場の仕方にもよりますが、だいたい10年くらいでその権利が獲得できるようです。しかし、高卒で入団して10年経つと28歳前後、大卒なら32歳前後になります。また、大卒でかつ社会人野球で2年を過ごしていたら34歳前後となり、米国メジャーリーグに比べて権利獲得までの期間が長いとのことで、選手にとっては簡単に他球団と交渉して入団させてもらえるかどうかわからない時期にあります。また、逆指名制度を使って入団した選手は、もともと入りたい球団に入ったのだから他球団と自由に交渉することは簡単に認められない、という考え方もあってFA資格は制限されていたと思います。
また、FA宣言した選手と契約すると、契約金がかかったり、獲得する選手が他球団の選手だったならば、“戦力を引き抜く”ということから「金銭補償」あるいは「人的補償」を相手球団に対して行わなければなりません。いずれにせよお金のかかるシステムとなっており、ここでも資金力のある球団かどうかで成否が決まります。
広島カープの場合ですが、江藤選手や金本選手といった主砲クラスの選手がFA宣言を行い、それぞれ読売巨人軍や阪神タイガースに移籍しましたが、この際、広島カープからは残留のための契約交渉は無く、FA宣言=退団宣言のようになっていました。
広島カープは資金力が読売巨人軍には勿論、阪神タイガースにもかなわない、ということが伺えます。
さて、クラウンライター・ライオンズから西武ライオンズへの移り変わりや、読売巨人軍の動向を見ていくと、球団をどのようにして強化したかの様子がよくわかります。
江川事件の直後、クラウンライターは西武鉄道グループに球団を譲渡し、球団は西武ライオンズとなって福岡市の平和台球場から埼玉県の狭山丘陵に新たに切り開かれた西武球場に本拠地も移します。西武鉄道グループは西武球場周辺に練習用の第2球場、第3球場や、室内練習場、合宿所を一気に揃え、12球団屈指の設備を誇る球団となりました。また、阪神タイガースの田淵、古沢のバッテリーを真弓、若菜、竹之内選手らとのトレードで獲得したり、ロッテオリオンズから南海ホークス監督解任以来“生涯一捕手”として所属していた野村捕手や山崎内野手を獲得するなど、他球団のスター選手を積極的に獲得して選手を大幅に入れ替えました。この頃の阪神タイガースや西武ライオンズの様子は『がんばれタブチくん』におもしろおかしく描かれています。
新人選手も有名で実力のある選手を次々と獲得していきます。その中で石毛選手や秋山選手、そして清原選手など「黄金時代」を支えた選手達が揃っていきます。そしてついに広岡監督時代にリーグ優勝や日本一を何度も達成するような強いチームとなりました。
最近親会社の経営不振によって球団の動向も気になる福岡ダイエーホークスですが、球団が創設された当初、給与水準はかなり上がって選手達は大喜びだったようですが、旧南海ホークス以来の不振は続いていました。ところが、西武ライオンズから根本氏を招いてからは選手補強を積極的に行ってどんどん強くなっていきました。
このように球団経営、特に強いチームを作るにはお金がかかるものだ、ということがわかります。
我々プロ野球ファンはお金のことはよくわかりません。他人の懐具合なども知ったことではありません。贔屓チームの勝敗に一喜一憂することはもちろんですが、「これぞプロ」というプレーを見たいし、2003年の日本シリーズのように目が離せない展開を期待しているのです。