ねがぽじ予定地

エンデバーのページ開設以来、人目の訪問者です。

ねがぽじという名前でホームページを再開するつもりです。
内容は+日記と-日記を主軸とした個人的な趣向を垂れ流すホームページです。
前よりはつまらなくなった自信がありますが、個人的なホームページですのでお許しください。
続くかどうかも分かっていないので、今のところ予定地です。

日記

十二月三十日

久しぶりです、エンデバーです。しばらく更新していなかったのは更新する暇がなかったというより もはやホームページビルダーの文字入力速度が我慢ならないものになっていたという要素が強いです。 そろそろこの月のログを別ページに動かさないといけないのですが、作るのが面倒くさいという単純な理由です。

そうやって面倒くさいと逃げていたら、いつの間にか二月ほど経過していました。このごろ、面倒くさいという 理由から色々なものを蹴っ飛ばしていたような気がします。いや、そんなことはなかったか。TOEICもきちんと最後まで 勉強した結果新記録が出たり、クリスマスプレゼントを懸命に選んでみたり、学会発表に向けて実験をしたりと 色々なことをやってきました。

プラスもマイナスもなしに今年一年を総括すると、色々苦難はあったけれど結果だけみれば すごくいい一年になった。来年もきちんと就職が決まればいい一年になるだろう。過程として、ネガティブと ポジティブが混在したとしても、結果がいいものになるというのは幸せなことだ。・・・そして ホームページもなんとか完成版にしたいものだ。

十一月十一日

最近、TOEICの勉強をしている。はっきり言ってかったるい。

まあ、これをはじめたのは理由があって、彼女に「TOEIC一緒に受けようよ!」といわれたのがきっかけである。身もふたもないが、 就職に便利かな?となんとなくで挑戦してみることにした。今まで自分は地道に覚えなければならない単語も弱点だったのだが、 一緒に一冊の単語帳を二週間に1章ずつやったらだいぶ改善された。これはいい点を取れるかもしれない・・・!

とまあ、現実はそう甘くなくて、次の弱点のリスニング力が足りないことが明らかになった。しかも、英語を聞くとイライラするのだ。 さらに、もう一つ事件があった。一緒に受けようとと言ってきたはずの彼女が申し込みをし損ねたというのだ。英語のイライラと重なって 何か裏切られたような気分になってしまった。自分は予備校のカフェテリアで一緒に勉強してくれる女の子が欲しかった。その夢を 叶えたはずなのに、どうしてこんな気分になってしまうのだろう。本当に単なる申し込みミスだということは分かっているのだが、 だからこそもやもや感がある。

改めて思っていたことをWeb上に書き起こして、客観的に見たら単なるお惚気日記にしか見えなかった。今受けている幸せというのを 大きく受け止めるのは難しいことなんだと改めて思い知らされる。そして、今日友達に言われた。「そんなことで悩むくらい前に、 とにかく勉強すりゃいいんじゃね」 ごもっともです。

十一月十一日

ワークライフバランスが声高に叫ばれている。一日中仕事に没頭するのはダメで、適度に自分の生活(ライフ)もがんばるようにしようという意味である。

これを守るというか、単にかったるいからというのもあって、研究室を六時半に帰るようにしている。大学ですら六時半に帰れないようでは、仕事で定時に帰るなんて夢のまた夢だ。そうすれば、家でおいしい夕食を家族と一緒に食べられるし、夜もゆっくりと過ごして、良い気分で眠ることができる。眠る直前もリラックスしていないと、良い睡眠は取れないのだ。だから、夜11時に帰るなんてアホらしいと思う。

ところが、今日は昼の間ずっと眠くてたまらなかった。そして、目の調子も悪い。仕方がないので、3時ぐらいに必須の用事を済ませたあと少し寝ることにした。そして、四時になって起きたのだがまだ眠い。それから、右肩上がりに調子が上がっていって、九時ぐらいに気分が一番良くなった。自分は別に目覚まし時計ではないので、常に定時を刻めるわけではない。帰りは11時でほぼ終電に近い時刻になったが、珍しく達成感でいっぱいだった。一人でじっくりと考える時間ができたというのもあるだろう(昼間だと研究室に人が一杯居る)。しょっちゅうやりたくはないが、たまにはこういう日もありなのかなと思った。

十一月二日

「現状に不満を感じるか」というのは人間にとって永遠のテーマである。定年退職したら都会は空気が悪いから田舎に移住するとか、学校に通っていたら友達と合わないから転校をするかと挙げればキリがない。

現状に不満を感じるメリットについてまず考える。現状に不満を覚えるということは、何か現状に良くない点が起きているという事だ。たとえば、部屋が片付いていないという現状に対して不満を抱けば、片付けようという意志につながる。大学の研究室が辛ければ、それを改善するための提案をすることができる。

ただ、不満を感じることは良いことばかりではない。部屋が片付いていない状態に対して、それが続けば純粋にイライラする。片付ければよいわけだが、それができない人だとイライラがたまっていくばかりだ。研究室が辛いと思えば、それもイライラする。改善しようとしても、研究室は一人きりの空間ではないのだから改善できるとは限らない。そして、イライラする。

つまり、不満を感じなければ何も変えられなくなる。かといって、不満を感じすぎれば欲求不満でイライラする。このバランスのうまい人こそが世の中を快適に生きられるのではないか?と思うのでした。

十月二十七日

今日は大学内でのアルバイトがあった。アルバイトといっても、小さなもので二時間ほどコンピュータルームに居座って、後輩を指導するという内容である。しかし、誰も質問にくることはなく、退屈だった。だからといって寝るわけにもいかないので、思索にふけることにした。

労働学に関する本を読んだ。「労働とは苦しいものである」という。炭鉱の中で、うだるような暑さの中労働する人の手記があった。それから、紡績工場の女工として働く人の手記もあった。彼らは労働の過酷さを生々しく語ってくれる。しかし、生々しく語るにはそれを聞くためのインタビュアーが必要である。逆に言えば、これらの人を通してしか労働者の声を聞くことは出来ない。そのインタビュアーはたいてい、生活が保障された大学教授などである。そして、その本を自分は研究室の机でふんぞり返りながら読む。この矛盾はなんなのだろう。これらの手記を読むと、自分が何とかしてあげたいとかいうよくわからない慈愛の精神が浮かんでくるが、本気で助けようなどとはとても思っていない。だいたい、第二次大戦前の話なので、戦争の体験談をきいて、食料を日本兵たちにあげたい!というようなものだ。こんなことに意味があるのかどうかわからない。こんなのを読む暇があったら、少しは働けと思う。でも、働きたくない。

こんな思索に陥ると、哲学者になった気分になる。だいたいのところ、哲学者というのは暇人なのだろうということがなんとなくわかる。暇があるからこそ、ムダに人生の意味とかを考えたりするのだ。ちなみにこの思索に意味はあるのか?というと実はこれが自分の研究だというのだから、笑ってしまう。情報機器を使って、労働意欲を刺激(笑)しようという研究なのだが、研究室でふんぞり返ってるやつが意欲を刺激しようなどとは本当に皮肉でしかない。それでも、就職したら社会の歯車となるべく会社の奴隷(笑)になるわけなので、こんなことで自虐的に笑っていたことを懐かしく、そしておもしろおかしく思い返すのだろうと一人納得したのだった。

こんな二時間だったけど、最後の最後で女の子を助けちゃいました。どんな哲学者も、若い女性の笑顔にはかなわないのです。

十月二十五日

久しぶりにぎゃるげーで何もなしバッドエンドというのを味わった。なんとも味気ないものだ。何もなしバッドエンドについて少し説明しよう。ギャルゲーにおける何もなしバッドエンドとは、誰のルートにも入れなかったときに入ってしまうバッドエンドのことだ。特徴として、どのヒロインとケンカすることもなく、「ただ日常が過ぎていった」という形でゲームが終了する。

俺は最初このエンドになったとき、どうでもいいやと思った。でも、月日が過ぎていくごとに、このエンドを自分は刻み続けているのではないか?という発想に至った。そして、改めて起動して真面目に取り組んでみると、きちんと女の子と結ばれることが出来る。再び起動して、ゲームをプレイして、その子を好きにならない限りは何も始まらないのだ、ということを学んだ。

ここから何を書こうとしたのか二十七日には忘れた。

十月二十二日

あなたが今まで築いてきたものはなんだろうか。人間関係?家族関係?貯金?それとも、何年もかけてためたグッズ?さらには、二年頑張ったねとげのキャラデータ?これらを築くのはとても大変なことだ。人間関係でも、まず人とであって仲良くなってという数多くのプロセスがあり、グッズをためるにしたって限定モノや特定の地域に行かないと買えないものといったものがあるだろう。

これらをたまに全て投げ出したくなるときがある。どんなグッズもずっと夢中でいつづけられるとは限らないし、どんな人間関係も不協和音が生じることがある。さて、これらを捨てるとしたらなにをすればいいだろう。グッズならば燃えるゴミに全てを叩き込んで回収車にもっていってもらえばいいし、人間関係を壊したければ罵詈雑言を叩きつければいいかもしれない。もっといえば、ネトゲのキャラならばデリートする方法もある。
それを一年に一回ぐらい必ずしてしまう友人が居た。だいたい一年たつと、職場でトラブルを起こして辞めてしまうし、誰かと付き合ったとしても同棲して半年後ぐらいには必ずケンカして別れている。そのたびに、また力強く職を見つけ、彼女を見つけてしまうのがその友人のすごいところだ。

しかし、捨てるのは簡単だが、それを再構築するのは簡単ではないと思うのだ。だから、一時の気の迷いで何か大事なものを捨てようとしているなら、もう一度考え直して欲しい。そういう事態になったとき、自分が提案したいのが「捨てもせず、力を注ぎもせず維持し続けること」だ。そして、何か別のことに打ち込むことだ。そうすれば、またその恩恵を受けたいと思ったときに、後悔せずに済む。
そこで大事なことが二回連続で言うことになるが、人生の多様化であると思う。たとえば、鉄道模型だけを趣味に持つA君と鉄道模型と楽器を趣味とするB君がいたとする。鉄道模型は飽きやすい趣味とされているが、実際そうらしい。そして、それに飽きてしまうとA君は飽きたとしても、ひたすらその趣味と向き合い続けるしかない。B君は鉄道模型に飽きたとしても、部屋の隅においていた楽器を取り出せばいいわけだ、その間鉄道模型のことは考えなくていい。
もちろん、ずっと鉄道模型に力を注ぎ続ければ、最高のモノが生まれるという可能性もあるわけで人生の多様化が正しいとは限らないわけだが、何かを捨てようとしている人がいるならもう一度考え直してみるのを提案するのだ。

こうして捨てられない人の部屋は汚部屋になるんですけどね。

十月十八日

徹夜とは一般的に身体には良くないことだ。そして、厚生労働省も早寝早起きを推奨している。午後10時に寝て、午前6時に起きる生活とか理想的と言えるだろう。自分もできるだけ、1時には寝て最低でも10時には起きられるように頑張っている。

そんな中、久しぶりに徹夜カラオケをした。KOTOKOのライブ後に、遠方に住んでいる友達の終バスがなくなってしまっていたので、一晩明かす必要があったからだ。一晩中、歌い続けるというのをやってみたが、わりかし頑張ることができた。むしろ、いつもとは違った眠いながらのハイテンションで違ったカラオケを味わうことができた。さらに、地元の銭湯に行くというなかなかできない体験をすることもできた。
それから、最初のバスまでの時間を利用して高尾山に行ってきた。いつもは余裕しゃくしゃくで登るはずの道が果てしない急坂に見えた。普段はさわやかなはずの木漏れ日差し込む山道を絶不調で登るのが面白かった。早寝早起きを普段から守ることはとても大事だが、たまには不健康なことをしてみるのも人生の多様化には必要なのかと実感した。

これだけで話が済めば美談なのだが、11時に家に帰ってから17時まで寝てしまった。折角の日曜日が気付いたらもう四分の一になっていた。この絶望感は本当に半端ないし、この日曜をもっとうまくつかえたのかと思ってしまう。ただムダさえもマンキツしてみるのが人生を楽しむコツなんじゃないかなぁと思うのでした。

なんか、「~~できた」の連続で文章として面白くないものになってしまった気がする。精進します。

十月十五日

違う価値観を受け入れること、これは思ったより難しいことである。自分はそれがある程度得意だと思っていたが、そんなことはなかったようだ。

研究室にやたらと中国人が増えた。別に留学したいという気持ちは悪くはないし、ある程度は留学生を入れて空気を活性化するのは大事だと思う。しかし、あろうことか一年に三人も留学生が来た。しかも、全員中国人だ。そして、延々と研究室内で中国語で話す。たまに、自分たちとコミュニケーションするときだけ一所懸命日本語を話す。分からない言語というのは想像以上にノイズとなってしまうことを知った。
彼女に音楽の趣味を共有しようと言ったら、やたらと知らないバンドの曲を大量に渡された。いくら自分の音楽の趣味が広いといっても、理解することができない音楽もある。

理想論としてよく言われることに、「お互いの価値観を認め合い、それをわかちあうこと」というのがある。自分も出来るだけそれをしたいと思うし、そうなるように努力してきた。自分が納得できる部分を全面に押し出したり、衝突が起きないように違う価値観については特に言及しないようにしてきた。
といっても、研究室という閉鎖された空間・彼女という特別な存在ともなると、自分の許容力が足りなくなってくる事態になってきた。そして、段々といらいらするようになってくる。こうなったとき、以下の三つの打つ手がある。
1、逃げる・・・関わりを減らす
2、妥協する・・・自己を抑圧して、相手の文化を受け入れる
3、衝突する・・・相手を批判する

いわゆる2というのが理想的な対処法なのだろう。上記の場合で言うと、中国語を学んでみるとか相手の音楽をとにかく聴きまくるといった対処法である。そして、相手とわかりあえれば最高である。根をつめないように距離をとりつつ、がんばってみようかと思う。

宣言することだけは簡単である。人は理想だけでは生きられない。

十月十二日

大学院というのは不思議な場所だ。モラトリアムの四年間を既に大学で過ごしたはずなのに、また二年間それを延長しようとしている。たぶん、研究者になろうとして大学に居続けるという人もいるのだろうが、自分はそれほど積極的な理由ではなかった。理系だから、みんな行く、だから、俺も行くのだと。

この前、就職説明会に行って思ったのが企業と大学の差だ。どこぞの大学の研究に、病院の手術室の器具にRFIDタグ(無線タグ)を取り付けて、ミスを減らそうというものがあった。そのシステムの使用感をテストするためには当然病院の協力が必要となる。大学の実験はきちんと病院と協力していた。それでも、手術は仮のものだった。ところが、この前説明を聞いた企業はとある医療器具で七割のシェアを持つということだった。新たな技術をとにかく使ってみようと試行錯誤する大学と既に実際に使うものを納品している企業、もちろんどちらも必要不可欠な存在であるが、どちらが重いかは明らかだなと思った。
もっと身近な例でいえば、化学実験の教育についての研究だ。教育効果を高めるシステムを作り成果を試すため。実験で塩酸を使おうとしたらダメだと言う。現物を使わないで、何が実験だ、笑わせてくれる。これが企業なら、実際に販売するため、薬品を持った技術者と協力できるだろう。(後でよく考えたら、これは研究者同士で協力しあえば済むことだった)

まあ、そんなことがありながらも、こんな記事を見つけた。「自分で考えるという技術を見つける最後の場所が大学である」という内容だ。起業するといったことは例外として、企業に入ればどうしても上司に指示をもらいながらの作業となる。ところが、大学は自分で考えて答えを見つけなければならない。今年になって、アルバイトをやめたら本を読む機会が何かと増えた。指示がなければ、本を読んで知識をたくわえて考えるしかないからである。確かに、これは指示をひたすら受けてそれに時間を費やしていればできないことだ。だからといって、自分に何か新しいものを創造できるようになるわけではないが、こういう生き方・学び方もあるということを知った。(もちろん、企業でも必要に迫られて技術書を読むことは数多い。それでも、自由に多様な書物を読んで、この本は今欲している知識と違う本でも読む時間があるという意味で全く違う。)

十月八日

思いがけず、今日は台風で電車がストップし大学が休みになった。最近、多くを研究室で時間を過ごすようになったので、平日に大量の時間が降って沸いてくるというのは久しぶりだった。というわけで、久しぶりの一人カラオケに出かけてきた。

最近はどうしても彼女と行くか、友達と行くことが多かったので、久しぶりに一人カラオケを味わった。部屋に入ると、夕陽がはいってきて美しい景色だった。そして、無性に寂しくなったのだった。リアルが充実すれば、寂しさなんてなくなる!と昔思っていたが、そんなことはなかった。できてしまった一人の時間の寂しさはいつもよりもずっと重たかった。

10分ぐらい呆然としていたが、無料のスナック菓子をばりばりと食っていたら元気が出てきたので派手に歌うことにした。最初はせつないバラードアニソンを重ねる。これを入れるとしんみりとしつつも、前向きになれる。バラードは盛り上がりに欠けるので、歌いづらい面もあるが一人なら気にすることはない。次に、盛り上がる曲を入れていく。そして、疲れてきたらだらだらと曲を入れていき、最後の三曲は気合を入れて歌う。全てが自分のスタイルだ。終わったときには、すごくスッキリとした気分になっていた。どんなに仲良い彼女ができたとしても、一人カラオケの輝きは色あせるわけではないということを思った。

十月三日

東京ディズニーリゾートについて皆さんはご存知だろうか。あのディズニーランドとディズニーシーの二つを総合してこう呼ぶ。自分はこの施設があまり好きではない。美少女ゲームのキャラが出てくる夢の世界は好きだが、ミッ○ーやドナ○ドといったキャラが出てくる夢の世界は別に好きでもなんでもない。しかも、男と一緒に行っても、なにあの寂しい人たちと見られるという恐ろしさもある。

ところが、研究室の友人にやたらとディズニーに詳しい人がいて、その人と一緒に行くことになった。やたらと詳しいというだけあって、彼の立てた作戦は完璧だった。ディズニーシーに行ったのだが、一日という限られた中でアトラクション八つ・ハロウィンのショー四つという全てを楽しみつくすスケジュールでディズニーシーを満喫することができた。

とまあ、感じた順序が逆なのだが、次にネガティブ面を書くことにする。まずは、アトラクションの待ち時間だ。待ち時間も退屈しないよう雰囲気よく待つ場所を作ってあるのだが、この待ち時間を楽しめない限りはリゾートを楽しむことは出来ないだろう。これからくるであろうアトラクションに胸をときめかせるという動作が必要になる。次に、ショーの中身である。ショーを楽しむには、パンフを見てどんなショーか考えて見に行かねばならない。その選定が非常によくわからない。「ミステリアス・マスカレード」というタイトルから何を感じ取れというのだろう。(マスカレードは仮装大会というのを友人の解説でやっと知った) しかもそのショーは抽選でないと見られないという。そんなこと最初に来た自分にはわかるわけもない。

ディズニーリゾートは人が多いが故に、楽しむにはコツがあるのだろう。逆に、コツさえつかんでしまえば、料金分の刺激を得られることは間違いないということを感じた。これがリピータが多い理由なのかと思った。理解をするには時間がかかるが、理解してしまえばとても楽しいのだ。

九月二十九日

いろんな事情が絡み合って、派遣のアルバイトをすることになった。いわゆる日雇いの労働である。しかも、その中でも倉庫のアルバイトだ。山手線の駅に集められて、バスで臨海部の倉庫にまとめて運ばれた。そして、決められたリストに従って、商品を淡々とかごに入れて集める。そして、それらをダンボールに詰めて、送り先のシールを貼るのだ。仕事そのものはそれほど難しいものではなく、商品を歩き回って集める体力さえあれば何も問題はない仕事だ。しいて言うなら、買い物リストの通りに商品を探す、それに近いものがある。

このアルバイトは非常に簡単だ。それが故に、一日限りの労働者でも使い物になる。また、数さえ集めれば、それなりの力になるというものだ。それに、一日限りの労働者ならルーチンワークへの飽きを防ぐことにもつながる。休憩時間に話した人は、普段の仕事だけではお金が足りず、用立てたいことがあるためダブルワークをしているということだった。このように、働きたい意志がある人をフレキシブルに活用する、それが派遣日雇いアルバイトの素晴らしいところと言えるだろう。自分も就職活動を控えて、レギュラーのバイトをしたくないということからこのアルバイトをすることにしたのだった。

その一方で、もう一回の休憩時間に話した人は大学を中退した人だった。聞くところによると、大学を中退したことを後悔しているが、特にやりたいことも見つからずにフリーターをしているという。このように、労働力を安価に提供してしまうということもありうるのが、派遣の問題点なのかもしれなかった。そして、ポイントがもうひとつある。交通費を全く支給しないのだ。ただ、残業代が出たので言うほど悪くはないアルバイトなのかもしれない。要するに、日雇いが故に労働者に労働コストを支払えない結果、給料が目減りするということになるのだろう。

帰りのバスから見るレインボーブリッジは美しかった。「これほど煌びやかに光る世界がある一方で劣悪な労働がある」などと俺は言うつもりはない。雇用者にとっても、効率よく仕事をしてもらうのは大事だから、労働環境は良かった。悪くはないのだ、決して。しかし、この給料で自分が食っていくことはできても、レインボーブリッジを家族みんなで乗る自家用車で渡るということは永遠に出来ないであろう。これからの就職活動を頑張ろうと思った次第である。

以下、余文。

世の中は全てプロフェッショナル化への道を歩んでいる。昔は、あらゆるところで食料を生産していたが、今は大規模機械農業で一箇所でひたすら効率よく食糧を生産する。代わりに、今まで食料を生産していたところはひたすら自転車を作ったり、あるところではカメラを作ったりする。そして、これらを交換するのが物流の仕事だ。しかし、プロフェッショナル化は逆に言うと、作業の多様性低下へとつながる。自転車を作るところでは、ひたすら自転車を作り続けなければならず、カメラを作るところではひたすらカメラを作らなければならないのだ。果たして、それが人間の幸せにつながるのか。あるところでは、ひたすらモノを運び続けるという作業を続けることが人間の幸せなのか、少し考え込んでしまった。(もちろん、モノを運び続ける作業が好きな人もいるとは思うが)

九月二十二日

ある日、友達に釣りに誘われた。2chでよく言われる釣りではない、魚をとる釣りである。何かと情報がかけめぐり、結果がすぐ得られるという現代において、釣りというのは気長に魚がくるのを待つという変わった趣味である。我慢する心などが学べるのではないかと思い、魚が嫌いにもかかわらず参加してみた。

釣りに参加すると、最初にまず体調の悪さに苦しんだ。だるい。自分のそんな姿勢が嫌になる。釣りというのは、本来は生活のための手段であったはずだ。魚を釣り上げることではじめて、食料を得られる。そんな時代があったのだと思う。それなのになんだ、今の自分は他の誰かが生産したコッペパンをだらだらと食べて、やる気なくさおを水中に突っ込んでいるだけだ。そして、えさが気持ち悪い。うにょうにょと動くみみずみたいな物体だ。手に持つのもだるい。そして、針にぐさっと身体を突き刺す。針を突き刺しているのに動き続ける。しかも、針にしっかりと食いつくようにするため、身体半分を千切る。そして、釣り上げたハゼは狭いバケツに押し込められ、やがて弱って動かなくなる。さんざん、命を大事にとか教えられてきたような気もするが、そんな言葉が通用する自然界ではないのだった。

でも、はじめて今日、魚を釣ることができた。一匹目がつれて調子が出てきたのか、二匹目からはえさをつけることにチャレンジできるようになった。三匹目には、魚をがっしりつかんで針をはずせるようになった。現代の生活には、このような動物たちとの直接狩猟するという場面はほとんど存在しない。このような場面が体験できる、釣りというのはなかなか面白いものだなと思った。しかし、自分が魚が嫌いなのは変わりないので、採った魚は食えなかった。いずれは挑戦してみたいものである。

九月二十日

あるとき意味もなく、伊丹空港について調べる機会がありました。伊丹空港とは、大阪府伊丹市(豊中市とまたがっている)にある空港です。伊丹空港は昔、騒音問題で揉めに揉めて、伊丹空港を廃して和歌山沖に24時間営業の関西国際空港を作るという結論に達しました。そして、市街地近くにある伊丹空港は廃止されるはずでした。空港は一つにまとめたほうが飛行機同士の乗り換えも便利なので、大阪の空港は一つにまとまり伊丹空港は悪者とされました。

ところが、伊丹空港は廃止されませんでした。何故なら、関西国際空港は大阪(梅田)からあまりにも遠かったからです。関空は電車で50分、伊丹はバスで25分だったからです。さらに、大阪ならともかく、神戸や京都に住んでいればその差はさらに広がります。たかが、25分かと思われるかもしれませんが、たとえば、東京-大阪を移動するとしたらどうでしょう。新幹線なら現在二時間半です。でも、伊丹空港+羽田空港を使えば、二時間で到着できるのです。たかが、三十分ほどですが、東京-大阪の移動需要はとても大きく、ある程度のお金を出してでも早く移動したいという需要があるのは当然のことです。その結果、二つの空港が残ることになりました。このように、空港ひとつとっても、ネガティブな面とポジティブな面を抱えつつも、続いているということもあるのです。

九月十五日

一時的に楽に得ることが出来る幸せと長期的視野に立ってしか得られない幸せがあります。一時的に楽に得られる幸せと言えば、RPGの戦闘が自分の中では最初に思い浮かびます。RPGの戦闘は基本的に勝利が前提です。基本的に勝つことは容易です。ドラゴンクエストで戦うたびに二分の一ぐらいで負けるということは少ないはずです。翻って、アクションゲームはどうでしょう。アクションゲームはまあもちろん、必ずクリアできる人もいるでしょうが、マリオとか一度も死なずに七面(要するに後半の面)をクリアできるような人は少ないでしょう。
最近、自分は桃鉄をやっています。わりかし自分は、桃鉄が強いほうでえんま(一番強いCPU)とかと戦ってもほぼ負けることはありません。それは桃鉄のゲーム性として、一位にひとたびなれば転落しにくいということがあります。そして、一年目や二年目などの間に妨害系カード(敵は妨害する力には長けていない)を使って攻撃して、貧乏神さえ付けなければ、ほぼ間違いなく勝てます。一度勝ってしまえば、ひとたび手に入れた物件やお金が勝利をサポートしてくれるからです。しかし、今度は十年間はまめ鬼(一番弱いCPU)に自分をプレイさせて、どん底の状態から始めるというプレイをやってみました。とりあえず借金は楽に返せても、一位を蹴落とすのは楽ではありません。ずるずると逆転できないまま年数が経過していきました。CPUに勝てないとだんだん人はイライラします。ゲームをやる気が失せてきました。

そんな状態が続きましたが、ある時CPUが致命的なミスをして一位から一気に転落しました。そして、自分が一位になることができた。その時の感動は桃鉄を長々とプレイした中で忘れられない感動だった。80年プレイで一兆円稼ごうが得られなかった幸せを、他人(まあ、CPUですが)を蹴落とすことで得ることが出来たのです。この時、人間の心とはなんと面倒くさいものかと思いました。
容易に得られる幸せには喜びをあまり感じず、困難から得られる幸せには喜びを感じるわけです。それはとても良いことなはずです。ですが、自分は逆転するまで何度となくこのゲームを放棄したいと思いました。困難を乗り越えるということには強大な意志が必要なのです。ポジティブにこの困難に挑戦する力を自分も容易に養うことが出来れば、などと考えてしまいました。
意志すらも容易に手に入れたいという自分の欲求に苦笑せざる得ないのでした。

九月十三日

友達とお台場に行く約束をしました。お台場といえば、彼女と行った記憶が新しいわけですが、なんとなく今日の約束はやる気が出ませんでした。女の子と行ってた記憶が残っている状態で男と行くということになれば、多少なりともうーんと思ってしまうのは男の性みたいなもので仕方ないのです。デートで出費が激しいときに、りんかい線の出費とかどーたらとか考えてしまいます。そして、思いっきり遅刻してしまいました。C君、申し訳ない・・・。

 で、お台場でアシモとサマーウォーズを見てきました。なんていうか普通に両方面白かった。アシモは本当に見事な二本足動作で、特に走る動作には衝撃を受けました。アシモといえば、階段でコケてあわてて職員が対応する動画の印象ばかりが先行していて、あまり印象が良くなかったのですが今日は見事なパフォーマンスを見せてくれました。サマーウォーズもクセがあるといえばクセがあるのですが、印象深さを与えるという意味では成功していると思います。
 こうして、友達と行ってみて思ったけれど、やはり彼女と遊ぶのとは違った面白さがあります。レディファースト的な配慮も少なめでいいし、やはり趣味の方向性が近いです。付き合っている相手を縛ってしまう束縛というのがたまに教えてgooなどで取り上げられますが、たとえ相手ができたとしても束縛せずにいろんな人と遊ぶことがお互いの新鮮さや独立性を保つために大事なんじゃないかと改めて思いました。やたらと偉そうな日記を失礼しました。

九月十一日

Escapismを閉鎖して数日がたった。思うところは数多いのに、それを書く場所が無いということに久しぶりに気付かされた。失って気付く存在の大きさというものだろうか。Escapismを閉鎖したくなったのは、書けることが減ったのも大きいが、それ以上にWebに個人情報、いや思考を垂れ流しにすることが果たして良いのかどうかということだ。たとえば、エンデバーはやたらと妄想好きでエロゲ好きだから、エロゲの販売情報をメールアドレスに送れば稼げるぜといった分析が可能なわけである。自分のホームページなんて見ている人はせいぜいが身内程度かもしれないが、ホームページを作っていない人に対して、自分はそういった不利になる可能性となる情報を垂れ流しているわけだ。そんなものを続ける意味がどこにあるのか。

今日、消防団に関する番組を見た。消防団に入ってくれる人がいないから、地元の消防団としては苦しいという内容である。そこで特にクローズアップされていたのが、皆に対する存在の周知の難しさである。人に見てもらうということがどれだけ難しいかということが語られていた。なるほど、あんな日記でも人に見てもらえているということはどれだけ素晴らしいことなのかということを再認識することになった。書きたい意思と見たいと思ってくれている人がいる、その素晴らしさを改めて考え直して、できる範囲でホームページを続けていこうそんな決意を新たに、計画していたねがぽじをアップロードすることにする。読みにくさはスタイルシートでいずれどうにかするのでまってほしい。

九月九日

この日、自分は落ち込んでいた。理由はなんとなく分かっている。自分が社会の役に立っていないからだ。今日、大学でとある一つのデバイスをいじっていた。それはWiiリモコンなどに搭載されている加速度センサやジャイロセンサが入った無線デバイスだ。しかし、単にデモプログラムを動かすだけで一苦労し、何の生産もすることはできなかった。そこへ、彼女から「資料作りがうまくいった」というメールが来る。全く、自分は何も出来ていないじゃないか。

こういう気分になってしまったら、何も進まないのは明らかだ。そのまま帰路につき、気分転換するために靴を買いに出かけた。池袋の街は変わらず人波であふれているが、自分はただ黙々と歩く。街には色々なものがあふれている。最近興味を持っているDSのソフトラブプラスもあるし、久しぶりにやりたいなと思ったドラクエシリーズもある。しかし、買う気は起きない。ゲームを最後までやる力に欠けているのだ。

思えば、何か新しいことに取り組むという力は年を取るに従って落ちているというのをひしひしと感じている。昔は気になるソフトがあればとにかくインストールしてやってみよう!という気概があったが、今はひどいものだ。起動もせず、レビューだけ見てやはりこのソフトはつかえねぇと勝手に烙印を押して、興味を持たない。本屋のパソコン本コーナーに行ったときのときめきはどこへいったのだろう。

こういうものたちをスルーして、靴を買った。とは言っても、既に持っている靴を買いなおすだけの話である。自分が今はいている靴はウォーキングシューズとして、非常に定番なものだ。とはいっても、コンバースやアディダスといったいまどきのものではない。黒一色の実用一点張りの靴である。たまに、美しいデザインのものを買おうと思うこともあるが、昔買ったコンバースの靴は色々とひどい目にあった。靴ずれができたり、三ヶ月でかかとが壊れたりとひどいものである。しかし、今はいている靴はとても歩きやすいのだ。だから、もはや自分は動くことが出来ない。情けない。

帰ってさくっとオナニーを済ませると、また疲れが倍増する。やるべきことはあるような気もするが、何もする気が起きない。終わっている。

俺はこのネガティブ思考の原因が分かっている。先日のデートが楽しすぎたのが原因だ。ポジティブ物質を放出し尽くして、その結果残ったネガティブ物質が残っているのである。こんなとき、現実逃避のEscapismがあればと思ったが、既にEscapismは存在しなかった。はじめに、で書いたように既に閉鎖すべき状態にあったからだ。これを変えるためにどうすればいいのか外を歩きながら考えた。そうだ、このネガティブとポジティブをテーマとしたホームページを作ればいいんだ。こうして、残骸のようになっていたホームページを作り直せると思ったら、自分のテンションが上がってきた。俺は過去に大好きだった本屋へ向かい、Webページの作り方を学ぶためのコーナーへとわくわくした気持ちを思い出して出向いた。

XHTML+CSSを使うこと、デザイン先行ではなく内容先行でいくこと、-日記と+日記という名前でいくこと、などの構想はこの途中で練った。久しぶりに自分の中で、何かを作りたいという衝動が芽生えたことが嬉しかった。こうして、ねがぽじという名前でホームページを再生することになったのである。ネガティブな状態に陥っても、これを糧に何かを生み出せる、ポジティブ思考だけに頼っていた自分からの脱却への一歩だ。