ナムディンの歴史と文化の特徴

紅河デルタは、ベトナム人の文化の多様性、独立心、共同性のこころを強くもっているところである。ベトナムが歴史的に中国から独立していくうえで、紅河デルタは大きな意味をもっていた。ハノイを中心とするベトナム北部は、紅河デルタ地域に覆われていた。ベトナム人にとっての河川との闘いは、食料生産を豊かにしてきた。それは、開墾と独立のための歴史であった。1200キロと流域面積12万平方キロメートルという巨大な紅河は、ベトナムの中流域には平原をもたず、山地とデルタが直接に接している特殊性をもっている。
このため、ベトナム人は、雨期に荒れ狂う紅河と闘わなければならない歴史であった。紅河デルタの北部のベトナム農民は、経済的基盤をつくるために、広範囲に網の目のように、大小の防波堤を築くことであった。歴史的に、中国からの独立のためには、農業生産を向上し、安定させることであった。そこでは、輪中をつくり、紅河の氾濫地域を防波堤で防ぎ、田庄とよばれる荘園をつくっていった。この荘園には私兵をもち、中国の侵略にたいしての強力な抵抗勢力となったのである。今でも、ナムディンの中心街の公園には、3度による元朝の侵略を打ち破った指導者の陳興道(チャンフンダオ)の銅像がそびえている。それは、ベトナムの人々のあつい独立の精神的支柱になっている。
この紅河デルタには小さな運河がはりめぐらせて交通手段と灌漑とを兼ねているのである。今では、ナムディンの海岸では1千トン未満の船舶の造船業が盛んにおこなわれている。河を利用した交通の要衝であったため、造船業が発達した。
中国軍を追い払ったのも河を利用しての水位の日ごとの差と時間差を利用した戦法であった。河にくいをうちこみ、水がひいたときに船がでれなくなる。よく地形を考えた戦法である。ベトナムの伝統思想家グエンチャイ
(1380年〜1442年)は、仁義を唱えた15世紀中国の明朝の侵略を打ち破った指導者で思想家である。「仁義は横暴より強し」ということで、「大義をもって残虐に勝る」ということで、儒教のこころをベトナム的に応用して独立を守りました。捕虜になった明朝の兵士を人道的にあつかい、彼等の食料と帰りの道を確保しました。海を渡って帰る兵士に500余の船を与え、陸を通って帰る兵士には、数千の馬を与え、人道的なはからいをしました。
人間としてのこころをベトナム人にといた。ベトナムの民には、十分なる休息を与え、今後中国と平和を築くために施策をした。帰った兵士たちが、その協力を積極的にしたのである。
紅河は、輪中による強固な共同体をもっていた。しかし、交通手段が発達して、外に開かれていたことも重視しなければならない。紅河デルタ地帯の共同体は、集落それ自身が、輪中化して、塀をつくりひとつの大きな家族共同体となっており、そのうえに、皇帝の指揮のもとに派遣されている郡単位規模の上位の地方共同体、省レベルのふるさと意識が存在し、国家・民族意識と繋がっていくのである。

北部ベトナム人の強い郷土意識もこのような歴史的な構造のなかでつくられてきたのである。それは、歴史的に北部を中心として発展してきたベトナム人の意識である。北部の基層的文化は紅河デルタを中心とした上位と生活単位の層をもつアジア的な共同体文化が基本的に根強くあるのである。
紅河デルタの李・陳朝時代に創建された寺院や皇帝廟などは、今も農民をはじめベトナム人にとってあつい信仰の対象になっている。神仏混合文化は、日本の近代以前と同じである。ナムディンにある陳朝廟やとなりにある普明寺には、旧正月・テトのときは、全国から人々が訪れ、、めったにない自動車の渋滞にあうのである。
ベトナムのナムディン地方は、仏教寺院やカソリックの教会、また、祖先崇拝の祠堂や村の守護神の廟・亭など複合的な神仏混合の信仰生活が深く根付いている。 また、儒教と道教と結合した浄土教や禅宗の仏教徒とカソリックが共に暮らしていたのである。村落の守護は、それぞれの信仰を認め合う価値が共有していたのである。 旧暦の12月23日(2009年の1月18日の新暦)は、料理の神様が天に昇る日で、コイをもっていかせるために授けるという儀式がある。テトの正月まえに帰ってくるという。このように、ベトナム人の日常生活のなかでに、昔話にある世界が日常生活の儀式として残っているのである。
ところで、近代に至る過程で、フランス植民地化とグエン王朝体制のなかで、仏教・儒教・道教とカソリックとの敵対関係がつくられた。このことは植民地文明と近代化ということで重視すべきである。異なる信仰が一時的にせよ、敵対的関係に利用させることがあるからである。しかし、これは、ベトナムの民族的伝統の歴史ではない。
ナムディン地方の伝統的な寺院であるCO LE、KEO HANH THIEN、KEO THAIBINEは、神光寺として、李王朝の安泰と百姓人民太平ということで、11世紀に設立されたものである。3つの神光寺は、相互に関係し、祈願とこころの悩み、易をしてくれるところで、王の病もこの寺に祈願によって、回復しているということで、今でも祈願や祈祷をしたり、僧侶に悩みを解決するために多くの人々が訪れる。1262年の陳朝時代にベトナム式座禅の寺として晋明寺が建設される。14の段の棟が農村の風景にそびえたち、寺はコイと竜の彫刻物が屋根のうえに飾られている。この寺院の村落にカソリックの教会が併存しているのである。
李朝・陳朝時代は、仏教の手厚い保護のもとに、仏教、道教、儒教が結合していった。仏教の学校は、長い伝統を持ってきたのである。ベトナムのキリスト教の普及は、フランスの植民地以前のずっと前に、ナムディン地方に1538年にフランシスコ派によってはじめて布教された。そして、1614年以降は、イエズ会によって本格的に普及していく。ベトナムのキリスト教は、植民地支配以前にも存在していたという長い歴史をもっていたのである。

ベトナムの文化、異なる信仰的価値を互いに認め合ってきた寛容性をもっている。これは、民族の伝統性としてつくられてきたのである。従って、為政者による廃仏毀釈という特定の信仰を弾圧する歴史をもたなかったのである。科挙試験の内容も中国や朝鮮半島と異なっており、儒教の内容ばかりではなく、仏教や道教の内容も試験として課していたのである。これが、ベトナム的な科挙試験の3教試である。
すでに、15世紀の中国の明を撃退したあとの科挙試験は、軍民に限らず、力のある者すべてが、認められたのである。その試験は3年ごとの3段階の試験であった。このようななかでベトナムでは、学問をすることが広くいきわたっていくのである。士夫、文士、文神、文人ということが人々に尊敬される対象になっていく。日本では科挙制度がなく多様な儒教の考えをもった学者を輩出していくが、ベトナムでは多様な信仰心と異なる価値観を容認しながら学問をするものに対しての尊敬が生まれたのである。
小学校は、この地域のもつ共同性を基盤にして、存在しており、地域組織の活動に学校の施設の果たす役割が大きくある。また、ベトナムでは、行政的に整備されているのは、県(日本の郡)段階であり、日常的な生活の単位や小学校のまとまりの社(日本の町村)の人民委員会は、日本の町村行政のように、それぞれの部門ごとの担当行政職員が配置されているわけではない。
社の下に集落があり、デイン(神社)は、集落のまとまりの象徴でもあった。この集落単位に、文化会館という集会所があり、そこに、青年会、婦人会、農民会、在郷軍人会などの地縁組織があるのである。
ベトナムでは、2010年から全国的に新農村建設運動がはじまった。工業化に伴う都市と農村の不均衡な発展を是正するために、豊かな農村生活のための地域づくり運動である。ベトナムは、2020年までには、工業国にしていく計画であるが、農村を失わずに、また、農業の発展、伝統的な農村文化を維持しての工業化を模索しているのである。このなかで、注目されるのが、伝統的な生活を見直しながら、農村の近代化を行っていくというVAC運動である。