教育の未来と豊かさ
  ー日本の成功と失敗の教訓から

    
  

日本の近代化は、教育を重視した

  教育は未来をつくるものである。日本近代150年の教育の歴史を経済発展と関連させながら、成功と失敗の教訓を連載する計画である。
 教育は、人々の暮らしを豊かにしていくものである。日本は、教育の力によって、経済的に大きな国になった。日本のように、資源の少ない国土において、人材育成は、国を豊かにしていく基本であったのである。
 日本のものづくりの典型として、戦前は、良質の生糸生産にみることができる。それは、伝統的な日本の手工業技術を生かしての近代化だった。日本は伝統的な職人的な技術をうまく生かして.様々な分野で近代化した。
 日本のこだわりの技が、良質なものづくりにつながっていったのだ。戦後は、電化製品、工作精密機械、ロボット、自動車生産など世界をリードできる良質なものづくりを展開してきた。
 日本の宝は、ものをつくるうえで、創造性ある豊かな能力をもつ国民が多いことである。これは、すべての国民がいつでもどこでも学ぶことができるようになったことによって、その宝をたくさん作りだす条件ができたのだ。
 
 
一万円札の肖像・福沢諭吉

日本の一万札には、今から130年ほど前に教育界で活躍した福沢諭吉の肖像になっている。かれは、日本の国を豊かにしていくために、学問のすすめを書いた人だ。学問は、一身独立して一国独立ということで、国民すべて個々が自由で豊かになることは、国民の独立の気力と能力を身につけさせることであり、そのことによって、国を豊かにし、独立していく力をつくることであるということを力説した人だ。私立の慶応大学をつくり、学問のすすめを民間の力で支えようとした人である。日本の大学は、官僚や教育者を養成する国立・官立大学と産業人・地域リーダーを育てる私立大学と二つの系があった。
 
 小学校はコミュニティセンター

 地域生活をしているところに、学校や成人教育の施設を意識的につくりだしてきたのが日本の特徴である。小学校は、子どもが学ぶ場だけではなく、地域のコミュニティセンターとしての役割を果たしてきた。
 戦前では、小学校で地域の勤労青年が学んでいたのだ。それらは、実業補習学校として制度化されたものだった。高等教育や専門的な中等教育に行けなかった青年も地域で学ぶしくみがあったのである。また、企業内でも普通教育や職業教育が活発に展開されていたのだ。このように、日本では、大衆的な青年教育が、勤労の場で展開されていたことが特徴だった。
 戦前は、どこの小学校にも薪を背負って読書する二宮尊徳像があった。日本人の勤労観と学習観を象徴したものである。戦前の小学校は、青年や成人が学ぶ場であり、地域がまとまっていく地域の単位でもあったのだ。戦後は、地域に公民館という学習期間が生まれ、学校と機能的に分離して行く。しかし、現代の大都市など、人々の地域のまとまりが消えていくなかで、あらためて小学校コミュニティが注目されている。
 
 立身出世と実学教育

 日本でも戦前から高い学歴や有名大学をでて、立身出世しようとする考えがあった。とくに、国立大学・官立大学は、その機能を果たしてきた。戦前の日本の国家は、有能な官僚をすべての国民のなかからつくりだそうとする意図があった。
 戦前においては、経済的条件によって、一部の奨学金を得られる人は別として、すべての国民が、立身出世の競争のなかに入れるわけではなかったのだ。しかし、戦後の1970年代以降に、国民の生活が豊かになることによって、高校の準義務教育化の達成がされ、画一的な能力主義のもとで、国民のすべての子弟が受験競争に巻き込まれていくのだ。受験競争の結果、人間形成、生きていくための能力、実学的教育が軽視され、教科の点数を優先させる教育が横行していくのだ。
 
 現代日本の教育矛盾

 日本は、近年、経済的に豊かさになった反面に、人間関係のむずかしさ、モラルの低下、文化的退廃、自殺やノイローゼなど、多くの矛盾をかかえている。学校では、登校拒否、いじめ、校内暴力などの問題が起きている。競争主義の弊害が大きく現れているのだ。
 競争は、人々の刺激やあたらしい意欲もつくりだすが、お互いに尊重しあう人間関係がなくなる。受験競争では大きな社会問題をつくりだすのだ。日本には切磋琢磨ということばがある。切磋琢磨は、お互いに競い合って、お互いに伸びていこうとする。弱いものと強いものが共存しあいながら、刺激しあうのだ。ここでは、お互いのいいところを尊重して、共に、発展していこうとする考えが強くある。
 近年、日本の経済も停滞し、日本のなかにあったものづくりの力が弱くなっていることだ。困難なことがあっても未来にむかって、粘り強く、共にみんなが幸福になるような考えが少なくなっている。自分の利益を中心に考える弱肉強食の競争主義が横行してきているのだ。ここに、日本の深刻な問題があるのだ。
 
 日本がベトナムから学ぶこと

ベトナムには、ちょっと前まで日本人がもっていた共同する心が強く残っている。独立の心、自立する精神が強くある。今の日本人は多くのことをベトナムから学ぶことができるのではないかと考える。日本はベトナムとの関係をとおして、アジアの一員であることを文化的に強く認識することもできる。日本文化のすばらしさをアジアとの関係をとおして、世界の人々、発展途上国に伝えていくことができるのだ。
 ベトナムはその橋渡しをしてくれる国だ。30年前に日本の若者はベトナムに平和ということで、全国各地で反戦運動を展開した。アメリカの基地の前にも平和を求めて座り込み、アメリカの兵隊に平和のよびかけをした。このなかで若者は成長し、あたらしい日本をつくっていく大人に成長し、現代日本の経済的な力を作ってきた。
 日本人の多くのなかには、ベトナムの独立の心から学び成長していったのだ。どんな困難にも負けずに、みんなでそれぞれのもてる力を出し合って日本の未来を、職場、地域、また、世界で活躍してきたのだ。今、NHKという日本のテレビ局がプロジェクトXという番組で職場、地域で日本の創造的な仕事をつくりだしてきた過去の業績の姿を放映している。日本の数々の優れた技術や製品は、一人の天才がつくりだしたのではない。みんなでそれぞれの持ち味をだし、個人、個人の職場や地域の役割を大切にして実現させてきたのだ。これは、一人一人が社会のなかでモラルをもって、そのなかでこそ生き甲斐を発揮できたのだ。
 
 21世紀の日本の課題

 日本は大きな改革をしなければならない時代だが、20世紀的時代から新しい人類の理想を築いていく必要がある。21世紀は、それぞれの民族の独立・自立した精神を基礎にして、それぞれの民族が共生し、人間が自然と共生し、世界が共に豊かになっていくことだ。それぞれの民族の文化が花咲く国際的関係をつくりあげていく時代ではないかと思う。このことによって、貧困、環境破壊、戦争という20世紀的時代の負の遺産もなくしていくことができるのだ。

 150年前の日本の寺子屋

 明治維新前は、寺子屋で多くの人々が学んでいた。国民の識字率は、男性50%以上という高い水準にあった。1858年に日本は、欧米諸国の圧力で、貿易の税金を自分の国でかけることができないことになった。また、外国人の罪を裁くことができない屈辱的な条約を結んだのだ。日本は、植民地の危機になったのだ。
 この危機を解決するのは、近代社会をつくるということで、鹿児島や山口など地方の人々が中心になって、幕府という封建的な中央政府を倒したのだ。
 この時代は、地方は独立した政府というしくみだった。それぞれの地方政府の中心地は都市を形成していたが、そこで武士のひとたちが学ぶ学校があった。また、農村には、寺子屋があった。ベトナムもフランスの植民地以前にあった学童という学習センターがあったが、日本では非常に発展していたのだ。ここでの勉強は実際に役にたつ勉強だ。武士の学校で学ぶ内容と異なっていた。科挙制度のようなものは日本にはなかった。
 
 日本の儒教の特徴

 日本の儒教は、武士ばかりではなく、農民のための学問、商人のための学問ということで、階層ごとに発達した。農民のための学者として、安藤昌益(あんどうしょうえき)二宮尊徳(にのみやそんとく)、商人のための学者として石田梅岩(いしだばいがん)など有名な思想家がうまれた。そこでは、人間の価値に、働くことや社会的モラルを強く求めたのだ。
 安藤昌益は、農民の労働の価値を中心に平等思想や環境思想をもった人だ。二宮尊徳は、勤労意欲や倹約、地域の資源を有効に使って農民の生活を豊かにしようとした。日本の封建時代でも、学問が武士だけで発達したのではない。農民、商人、職人など民衆の生活を豊かにし、生産を高めていこうと学問が発達したのだ。日本は、江戸時代に民衆の学問や文化に花が開いていたのだ。非常に純度の高い鉄の生産(たたら製鉄技術)、自然循環的農業技術、都市のリサイクルシステム、商業・商人の公益性などがあったのだ。

 石田梅岩の商人道徳

 石田梅岩は、商人のモラルを説いた人だ。儲けたお金は社会に還元し、商人になるためには、日常的に人として、愛、哀れみ、孝行を大切にし、倹約、勤勉、正直という公の正義の精神を大事にした社会モラルが必要であると力説した。商人の利益は、公に許された俸禄と同じだ。商人としての自分の道をはっきりさせるために、大衆的な教育活動を都市の商人を対象として、意欲的に実践した。
 
 二宮尊徳の農村再建の実践

 二宮尊徳は、工夫、勤勉、節約によって、苦しい生活状況であった家の経済や藩の財政を立て直した。そして、地域の経済を豊かにした人だ。どんなに身分や社会的地位が高くても収入がなければ豊かな生活をしていくことはできない。
 したがって、家や藩の財政を立て直すめには、身分や社会的地位を無視して、現実の収入状況から日常的生活を考えるようにした。このために、倹約をするということを徹底したのだ。
 荒れた土地でも工夫して新しい収入を得るように努力していく方法をとったのだ。洪水の起きる土地でも自然をよく研究し、農民の勤勉と節約によって、治水技術を開発し、豊かな村にしていったのだ。
 かれの学問は、実践のなかでの実学だ。二宮尊徳は、明治維新前の農村再建の実践的な思想家だった。尊徳の思想は、支出に限度を定め、真心を尽くし、勤勉に働き、節約し、生じた剰余を借金の返済や貯蓄に回すという徳に報いる報徳思想ということで日本の農村に大きな影響を与えた。

 明治維新後の学校の形成

  日本の近代学校制度は、当初フランスなどの制度にならってつくられたが、それは、失敗した。学校をつくった当初は、農民の学校打ち壊し一揆などもあった。日本の現状にあわないということで、各地に反発がおきたのだ。そこで、日本的に村落共同体を基盤に小学校をつくった。村落のなかでは、子ども達が、学校にいくように世話をしたのだ。
 地域に根付いた学校ということで、住民は、地域の文化センターとして、小学校を考えるようになった。運動会など学校行事は、地域の行事ともなり、地域の人々は学校教育活動や施設充実にボランティアとして、協力してきたのだ。行政から教育費でたりなりものを地域の共有の財産や寄附によって、学校の建物や教材などにあてたのだ。
 日本の小学校の教育は、子ども達に読み書き、そろばん、理科、地理、歴史などの基礎的な知識と同時に、生活指導、道徳教育などを大切にしてきた。学校教育では、人格の完成をめざして行われてきたのだ。この人格完成教育として、戦前は、教育勅語が教育内容の基本だった。
 
 日本の伝統的精神と欧米の技術の教育

 教育勅語では、日本の伝統的な精神の儒教的精神を基に、親・夫婦・兄弟姉妹・友人に対する孝行、慈愛の精神を尊重したのだ。そして、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、公共のために貢献し、忠君愛国の精神を強調したのだ。忠君愛国的な教育は、後に日本の軍国主義体制のなかで積極的に位置づけられていくのだ。このことが、戦後民主主義の教育のなかで、戦前の教育の否定をしたのだ。
 日本の最初の銀行をつくり、経済の発展にリーダーの役割を果たした渋沢栄一(しぶさわ えいいち)は、経済における社会的モラルを重視したのだ。かれは、論語の思想を経済活動のなかで大切にした。公益ということから、経営者の道徳を鋭く追求した人だ。かれは、近代日本の学校教育のなかで、商業教育、福祉教育、女子教育などにも力をいれたのだ。
 日本では私立の専門学校は、民間人の手によって積極的に作られた。1918年の大学の国家政策は、多くの私立の専門学校が法律的に大学になっていった。日本の大学の普及に私立大学が大きな役割を果たしたのだ。それぞえの大学に個性的な精神があるのは、私立の影響によるものである。札幌の官立農学校のように、個性的な専門学校もあった。1918年以前の大学は、帝国大学ということで、国立の東京大学や京都大学などだった。国家の人材を養成するためだ。帝国という名前はアジアへの侵略と支配のための大学というイメージがあり、よい名称ではないと思う。
 
 国民皆学確立と複線化

 1890年代は、経済の発展のなかで実業教育が制度化され、中等教育の進学要求も高まり、中等教育の3系統化ができた時期だ。中学校、高等女学校、実業学校という中等教育機関の複線化が1899年の「中学校令」「高等女学校令」「実業」学校令」で制度化した。
 さらに、地方改良運動という地主的生産力的発展ということで、いわゆるサーベル農政の時期に、地方の小学校の合併が行われた。そこでは、校区の財政的基盤になっていた大字の村の林野統一事業などが積極的に展開されていった。そして、このような状況のなかで、学校の効率化、分業化により、複線体系が確立していくのだ。
 中等教育機関の進学要求の高まり、実業学校の発展ということから、各尋常中学校に置かれていた実科が不要ということが文部科学省の認識だった。そして、各府県1校という中学校設置の制度が維持できなくなったのだ。このことにより、普通教育一本のエリート養成の中学校が生まれていくのだ。
 つまり、中学校における職業教育の内容が消えていったのだ。従前の中学校に2つの目的があった。しかし、そのひとつの職業との関係をもっていた教育内容が失われたのだ。中学校は、高等教育へのコースの教育機関として位置づけられた。従前の中学校がもっていた国民大衆教育の性格が失われたのだ。
 1902年に小学校は、90%の就学率になり、1907には義務教育の6年制が確立した。小学校の6年間は同じ教育を受けるが、その後、実業的な教育コースとエリートの教育と、分かれていった。エリートコースには、小学校卒業後に5年制の中学校に進学したのだった。
 
実業・専門学校重視の大衆的教育

 庶民の教育コースは、小学校を利用しての夜間の補習学校、高等小学校として、2年間の普通教育があった。さらに、補習学校は、農業など専門的な教育を夜間に実施したのだ。企業のなかでも学校がつくられたのだ。当時の日本の農村は、寄生的な巨大地主をはじめ農村では半封建的な地主制が拡大した。小作人の貧困化も農村の商品経済の浸透とともに厳しいものになっていった。貧困化していく小作人は、女子を中心に繊維関係などの低賃金労働者として排出していく。戦前の農村は、地主と小作人という厳しい関係があったが、同時に農村における自立的な自営層の商業的生産の動きもあったことを見落としてはならない。
 ところで、農村から供給される女子労働者層にたいする教育も大きな課題になっていくのだった。伝統的な織物業の工場では、工場制生産が振興していくことによって、粗製乱造の製品が市場に出回った。産地としての品質の維持も大きな課題になっていくのだ。そこでは、労働力の質が大きな問題になっていくのだ。農村からの労働力は、出稼ぎ労働者ということから寄宿舎生活を強いられていく。教養を身につけて生活や労働規範をたかめ、職場の秩序や技術の向上による生産意欲を高めることが必要になっていく。
 長崎の三菱造船所では、1899年に三菱工業予備学校を工場付近に設立した。工業応用の知識を開発し、将来の熟練技術労働者を養成するためであったのだ。年齢は満10才以上で尋常小学校卒業者又はその学力のあるものを試験のうえ入学させた。修業年限を5年として授業料は徴収しなかったのだ。
 労働者自らが幼年工講習所設立の要望をしていったのが、日本鉄道大宮工場にみることができる。大宮工場は、職工養成の制度はなく、熟練工は一般に募集して確保していた。1900年4月に本格的な職工養成機関の設置を労働者の有志は経営側に要求している。大宮工場で技能工養成が制度化されたのは、1902年10月に養成期間3年の職工見習い養成がはじまりだ。
 日立製作所の前進である久原鉱山電気修理工場は、1910年に徒弟養成所を工場内に設けた。講義を交えて組織的な技能工養成をはじめたのだ。八幡製鉄所は、1910年に幼年職工養成所を設置した。高等小学校卒を選抜採用して職工養成をしたのだ。 これらの工場内の教育では、職業的な訓練ばかりではなく、基礎的な科学的知識や教養を学んでいった。日本の大衆的な学校の発展は、地域や企業内で積極的に行われたのが特徴だ。大衆的な教育は、実際の生活や生産と結びついて教えられたのだ。
 
 職業的な専門学校と地方の振興

 職業的な中等専門学校として、農学校や工業学校が生まれた。それらの学校は、日常的な生活単位の地域のリーダーを養成する学校になった。地域での産業振興における職業的な専門中等学校は、大きな役割を果たしたのだ。
 地方では、農業、工業、商業、医療などの高度な専門学校が発達した。戦前までは大学にならなかったのだ。これらの高度な専門学校は、1945年以降の戦後に、連合してひとつの県にひとつの総合大学の理念になっていく。実際はすべての県で総合大学の実現があったわけではない。
 それは、エリートコースの教育のように社会的地位を得るための学歴ではなく、いいものをつくるため、あたらしいものをつくるため、生活を豊かに、地域を発展させるため、人間関係や社会的モラルを確立していくための学びだった。日本の労働者、農民、経営者などが勤労意欲と創造性をもってきたのは、教育の成果が大きいのだ。

 不平等条約の完全撤廃

 日本は、1912年に自ら国として貿易の税金がかけられるようになった。1858年の不平等条約は完全に撤廃された。しかし、日本が明治維新以来進めてきた富国強兵がアジア諸国と友好を結んで共に発展していく道をとらなかったのだ。帝国主義的に膨張政策をとったのだ。朝鮮半島や台湾の植民化はその典型だ。
 民族的な誇りの教育が、民族の独立精神からアジア民族を抑圧するための帝国主義的な教育になる。自国民族絶対主義に変わっていくのだ。ベトナムのドンズー運動などを十分に支援することができなかったのも、このためだ。
 1910年代の日本資本主義の急激な発展は、半封建的な日本社会の矛盾を人々にはっきりさせた。労働争議や小作争議が急増した。1918年には米騒動が全国的に起き、地主制と米の流通機構の矛盾がでたのだ。1919年には、植民支配に対する朝鮮の人々の民族独立万歳示威運動、3.1事件が起きた。
 米騒動は、工場のストライキとも連動した。のべ一千万以上の国民が参加するという騒動になったのだ。日本の労働者、農民、勤労市民の運動や朝鮮の民衆に対して、軍隊の出動という最悪の事態となって、治安が回復しいく。これらの騒動の発端は、米価の急騰だった。
 
 大正デモクラシーと民衆の教育運動

 大正時代に、日本の文化人・知識人をはじとして、デモクラシーの運動が起きた。米騒動が収まった以降も労働争議は終わらなかったのだ。1919年以降、足尾鉱山、川崎造船所、東京印刷、東京市電、八幡製鉄など大争議が続いていく。そこでは、軍隊出動という事態になる。そして、1922年に労働組合総連合が生まれ、同じ年に日本農民組合が創立される。
 第1次世界大戦以降に日本の社会は大きく変化していくのだ。重化学工業発展などの産業の再編成も起きている。
 教育の世界でも自由教育の動きが活発になり、仏教的な内なる自立の精神を基礎にして、自学主義、自発主義によって、教室外、実際生活をとおしての教育実践を重視し、私立の成蹊実務学校が1912年に生まれた。
 そして、1914年に中学校、1915年に小学校、1917年に実業専門学校・女学校、1922年に7年制高等学校を確立し、成蹊学園となる。
 実際的教育学を提唱した元文部官僚・前京都大学総長の沢柳太郎の提唱により、1917年に成城学校が生まれる。その学校は、児童中心の個性尊重の教育、自然と親しむ教育、心情の教育・鑑賞教育、科学的研究を基とする教育の実験学校だった。成城小学校は、多くのユニークな教師達を集める。成城小学校の指導主事として1917年に招かれた鹿児島県出身の小原国芳は、全人教育論を展開して玉川学園を1929年に創設する。
 1920年前後に北原白秋など多数の芸術家・詩人による児童文芸雑誌の「赤い鳥」の出版活動は児童中心の教育活動や注入的な画一教育の克服に大きな影響を与える。
 1924年には東京池袋に下中弥三郎などの教育の世紀による児童の生活の場として、自由教育をめざす児童の村小学校私立が誕生した。

 生活主義の新教育運動

 生活綴り方教育は、生活主義的な新教育と結んで発展していく。生活綴り方の教育運動は、子ども達の発達をみていくうえで、子どものおかれた生活状況が大切ということで、生活をありのままに表現させていく教育の方法として、各地に広まっていくのだ。
 教員も1919年に自己確立のために日本教員組合啓明会という組織をつくり、教育の民衆化が教員の自主的な運動として行われていく。
 1921年には羽仁もと子が「自活自労」の7年制女学校をつくる。日常生活に必要なものを自分で生産する教育を展開した。実際生活に遊離した当時の学校教育を批判して、女性地位向上のうえで教育の大切さを力説したのである。
 
 人道的経営者の大原孫三郎

 紡績業の発展で大きな富を持った倉敷紡績・倉敷絹織の経営者である大原孫三朗は、企業経営者の社会的貢献・社会的責任として、教育活動、文化活動、研究活動のための施設をつくっていく。田畑100町歩をもち、地域農業発展のために、岡山特産の葡萄や桃の改良のための実地研究や世界的な農業関連の文献収集を行う大原農業研究所(後に岡山大学に移管)を1914年に創立した。
 社会問題の克服をめざしての調査研究機関としての1919年に、大原社会問題研究所を創立した。マルクスの関係文献の翻訳、森戸辰雄など日本の進歩的な若手研究者が育っていく。1921年に、労働の医学的、心理学的研究を専門に行う労働労働科学研究所を創立する。1922年に、社会に平等に解放された倉敷中央病院を設立する。石井十次の岡山孤児院の支援する。さらに、倉敷に大原美術館を設置して、市民の芸術文化鑑賞活動の拠点をつくったのだ。このように、企業の経営者が社会的貢献や社会的責任として、利益の一部を社会に積極的に還元して、公益性を担おうとしたとは大正時代の一つの動きだった。
 
 大正時代の教育改革

 大正期は政府において、教育改造の動きは大きな課題になっていく。政府は臨時教育会議を1917年に内閣直属の教育諮問会議を設置した。その審議会の目的は、教育の抜本的な改革のため、重要事項の調査や審議だった。そこには、教育に関する答申や独自の建議を求めたのだ。1年半にわたって審議を重ね、小学教育、高等普通教育、大学・専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度など9領域、12の答申を行ったのだ。
 小学教育に関して「市町村義務教育費国庫負支弁」が答申されて、国庫負担法が、1918年に法律になった。小学校教員の俸給に対して費用の一部と市町村に国庫負担する法だ。父兄の貧富と町村の貧富に拘わらず国民の義務教育であるということで、国庫の負担において最低限の教育を保障しようとするものである。国庫負担は、教員の俸給に半額、市町村に半額として、とくに、資力貧弱なる町村に特別に交付金を増加したのである。

日本ファッシズム化と教育

 1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌は、半封建的構造をもっていた農村は、深刻な状況に見舞われた。1920年代は日本資本主義の発展による社会経済構造の矛盾が現れたのだ。日本の経済の支配的地位にあった巨大な鈴木商店は倒産した。
 重化学工業は、軍事部門を中心にして発展してきたが、大正期に国民的生産の織物業なども機械的工場生産に移行した。日本の産業段階も国民的経済の面からも機械制工場生産への移行に入っていくのだ。
 しかしながら、半封建的な農村構造に支えられている労働力の低賃金構造は変わらず、地方の織物工場資本の蓄積が再び、地主的土地所有の集積をもっていくのだ。つまり、封建的な束縛かに縛られて、近代的な工場生産の発展の限界をもっていたのでです。
 地方経済を地域のなかで自立的に発展させていくという自作農的上層運動としての織物業などの機械制工場の展開がみられていく。農家の副業としての農村工業の発展も新たな展開をとげていく。しかし、自由なる農家経済の発展は十分に展開されていかなかったのだ。全般的に農家経済は非常に厳しい生活にたたされたのだ。
 1930年代は、大恐慌というなかで、全面的な社会変革の必然性をもたらした。とくに、半封建的な農村構造の矛盾である地主制の廃止の問題が社会的な問題となっていく。自作農創設施策を部分的に実施した。それは、地主制の矛盾をやわらげようとするものだった。さらに、農村更正運動として、農民の自立的な経済活動を刺激していく施策を政府はとった。
 しかし、根本的な半封建的な矛盾構造である地主制の問題や古い形態を残した雇用形態、財閥制度は改革することはできなかったのだ。絶対主義的な国家機構は強く残存した。社会の矛盾構造から自由性と民主化を促すことができなかったのだ。人々の自立的経済活動を促進する施策を十分に展開できなかったのだ。そして、矛盾を海外の侵略活動にむけていくのだ。 
 尾高豊作や小田内道敏などは、学校教育と郷土の地域社会との乖離が著しい現状を憂いて、1930年に郷土教育連盟を結成した。子どもの成育における郷土教材の役割を重視した。この郷土教育の運動は、農村の厳しい生活の現実を意識しながら、教育によって地域の自立的更正運動をたかめようとしたものである。
 農村不況のなかで、村づくりの中堅的人材を養成していこうとする塾風教育という農民教育運動が展開された。山崎延べ吉は塾を1929年につくり、各地の農民道場づくりに影響をあたえる。加藤完治は、山形自治講習所の農民研修所を運営していたが、それを1933に廃止して、県立の国民高等学校にしていく。他の民間の農民道場と異なり、学校制度のなかに組み入れて行く。国家有用な人材としての農民道が教育で重視されたのだ。国家主義的農本主義の農民教育運動は、デンマークの国民学校をもモデルにしたが、自分たちが暮らしてきた地域での農民自立や農民福祉に結びつかず、国家主義的出世主義や海外侵略の開拓団につながり、ファシズムの社会的基盤になっていくのだった。

 軍国主義化での生活と科学主義の運動

 1933年城戸幡太郎などによって、創刊された雑誌「教育」は、生活主義、科学主義を大切にする教育運動だった。この教育科学研究会に結集した教育学者は、戦後の民主化のなかで日本のあたらしい教育理論をリードするメンバーになる。
 1931年に満州事変がはじまり、日本の軍国主義的国家体制は、中国への全面的な侵略を強めて行く。1935年の青年学校令の公布され、国民総動員の軍人教育の体制をつくって行く。1937年に国民精神総動員実施要項がだされ、教育機関を総動員してのファシズム化を押し進めて行くのだ。
 これは、大正デモクラシーを経て、国民の自由主義、民主主義、社会主義、労働運動、小作争議、社会的運動に対して、国民的に、網の目のごとく取り締まっていく思想動員体制だった。侵略戦争への国民の参加エネルギーを最大限に引き出そうとするものである。日本農民の窮乏化のなかで、農本主義的思想を軍国主義へと編成したのだ。
 ファシズム体制のなかで、地域や企業で経済活動や地域づくりとの関係で青年学校の存在があったのだ。地域や企業内で継続的に展開されてきた実業補習学校の伝統、普通教育、職業教育、訓育活動などが青年学校がつくられていくなかでも大きく反映しているのだ。この教育活動のエネルギーは、ファシズム的な日本軍国主義が敗北した1945年以降に、戦後の日本経済再建と発展、新たな地域づくりと結びついた教育活動に継続していくのだ。

 戦後の復興期の教育

 1945年は日本の新しい歴史のはじまりだ。日本の軍国主義やファシズムが敗北したのだ。戦前での民主主義的な活動は、自由になり、国民の新たなエネルギーが結集された。農村では、農地改革が実施され、小作争議は不要なものとなった。農民は自分の能力を生かして、努力すれば生活が豊かになった。封建的な労働慣行もなかくなり、日本の民主主義は様々な分野で進んだ。
 終戦直後は,空襲などによって親を失った多くの子どもが浮浪児として東京にあふれていた。戦災孤児問題が深刻な社会問題であったのである。子どもをめぐる問題は絶対的貧困状況の児童福祉の問題,年少労働保護行政が大きな地位を占めていた。1947年4月から戦後の9年制の義務教育がはじまるが,校舎や施設は極めて貧弱であり,教員不足も深刻であった。2部授業もあり,学級はすしづめ教室であった。
 戦争の傷痕は,絶大なるものがあり,荒廃した国土のなかでの国民は戦争からの開放観をもつ。そして一方に食糧不足が襲うのである。国民的生産力の崩壊から経済の出発であった。
 このようななかで,軍国主義体制の解体,農地改革,労働三権の確立が行われ,労働運動と農民運動などの民衆運動が高まっていく。
 この民主化運動や戦後復興の活力に支えられて,教育の世界でも様々な民主化施策が打ち出されていく。つまり,侵略戦争と軍国主義の反省のうえにたって,新しい平和と民主主義の教育がはじまる。そして,教育の民主的な制度として教育委員会の公選制,コア・カリキュラム,地域総合制の高校など様々な民主化のための教育政策・活動がおこなわれていくのである。
 
 荒廃した国土の短期回復

 日本経済は,戦後10年にして戦前水準を回復した。戦後の荒廃から予想外の短期間の達成である。
戦争によって破戒された国土は、10年間で完全に回復し、戦前の生産力水準は、完全に回復した。農村では史上最高の生産力になるのだ。戦後の10年間は、日本の新しい社会をつくる大きな飛躍だった。
 義務教育の9年制が確立し、高等学校も生活している地域に生まれた。高度な専門学校が大学となり、すべての県で国立大学が生まれた。大学の大幅な増加になった。多くの国民が大学に入学できることを可能にしたのである。大学の大衆化が、本格化するのは、高度経済成長を待たねばならなかった。
 1950年代の後半には,白黒テレビ,電気冷蔵庫,電気洗濯機が普及しはじめ,1965年には,それが100 %近くに達する。1961年にレジャーブームが起き,マイカ−が400 万台を突破した。TVも1000万台を越えた。60年代後半は,3C時代として自動車,クーラー,カラ−テレビの大型耐久消費財が各家庭に普及して,大量消費社会の時代に入っていくのである。1967年には,交通事故が1万人を超す。

 高度経済成長の矛盾

  高度経済成長は、子どもの人格的な発達をおろそかにしていった。子どもと親の関係においても小子化現象のなかでの過保護と放任が生まれていく。放任のなかでの子どもへの溺愛現象が経済的な関係のみによってのみ充足させるということが起きる。親子をめぐる精神的な貧困化現象が起きていくのだ。
 共稼ぎ家庭の増大に伴う子育ての社会システムの貧困ということでの子どもの問題状況がみられてきていく。また,父親の長時間労働という会社人間化という大きなマイナス面があり,困難をかかえている母親への地域の支援システムがないなかで、母親のみの孤独な子育てが増えていく。子育ノイローゼによる子どもの虐待問題も起きていく。
 高度経済成長は,重化学工業コンビナートを中心としたものだった。重化学工業地帯では,子どもをはじめとして深刻な大気汚染の公害によるゼンソク問題が起きる。川崎ゼンソク,四日市ゼンソクと呼ばれる問題だ。さらに,自動車の排気ガスによる大都市の大気汚染は深刻になっていく。
 全国各地に高度経済成長の弊害による公害問題が起きる。60年代後半に公害問題を克服していく住民運動が活発化していく。小学校や中学校のプレハブ教室,大規模の学校など、矛盾も深刻になっていく。

 子ども文化の商品化

 大量消費社会のなかで,子どもの伝統行事や子育て慣行等の地域社会の文化が消えていったのも大きな特徴だ。それは,地域文化や民族的な文化の喪失過程でもある。とくに,農村から都市への人口の流失と大都市への過密化・ドーナツ化現象は,伝統的な地域文化を軽視していく。あたらしいおもちゃがもてはやされ,子どもの生活もマスコミなどによってつくられる流行に左右されていったのだ。子どもの遊びや文化は商品化していったのだ。おもちゃが高級化して,子どもが商品化されたおもちゃづけになっていく。また,マスコミのキャラクタ−の玩具が子どもの人気ものになっていく。子どもの食べ物の嗜好もテレビのコマ−シャルに成っていく。まさに,子どもの生活や文化が大きな商品市場として利潤の対象となっていくのだ。子どもが商品市場の大きなターゲットになっていくことも日本の高度経済成長期における大量消費社会の特徴だ。
絶対的貧困のなかで育った親たちにとって,子どもに豊かなものを与えてやりたいということが,大量消費の論理で進んでいくのである。
 大量消費社会のなかでの享楽的消費文化は子どもの遊びの商品化,子どもの生活における金銭問題が大きく左右していく。大量消費の社会における変化のなかで,子どもの独自の遊び世界などに経済的な商品化の問題状況が入っていくのである。
 大量消費社会のなかでマスコミのもっている刺激的な享楽文化も無視することができない。子どもの地域生活が崩れているなかでは,マスコミの影響が純粋培養的に入りこんでいく。子どもの文化がマスコミによって誘導操作されていくこともある。

 高学歴化現象

 戦後の学校教育の発展は,新制中学校の発足による義務教育の9年間確立と高校の就学率が95%を超え,準義務制的になったことである。高等教育機関も著しい発達をとげ,高等学校の卒業者のうち大学・短大等の進学率は,30%を超えるようになっている。(1975年34.2%,90年30.6%,94年36.0%)。
 1950年当時の高等学校の進学率は,42.5%と半数にも満たなかったのである。高等学校卒業者の大学等の進学率は,この50年当時にも30.3%となっていたが,高校への進学率が低かったため,同一年齢世代の大学進学率は低い状況であった。高校への進学率の急速な上昇にともなって,高校卒業者の大学の進学率は低下し,1960年は17.2%となる。60年以降,日本の経済成長にともなって75年まで大学への進学率は急速に増大していく。子ども学習権保障の発達として高校進学率の90%以上の上昇は画期的なことである。しかしながら,高校卒業者の約3分の1が大学等の進学ということは,75年以降20年間変化がみられないが,大学等の進学に大きく高校教育がひきまわされている。高等学校が準義務教育化という大衆化したなかで,大学等までの受験競争の論理が学校教育のなかに支配しているのである。この高等学校の95%以上の進学率と大学等の進学率の上昇が国民の進学競争への激化となっていくのである。

 高学歴化の矛盾

 高度経済成長は,高校の進学率を上昇させ,大学の大衆化を促進していった。これは,社会の科学技術の大衆化,一般大衆の知的・文化的能力の向上としての可能性をもったことだ。大学の大衆化の過程は,同一の教育内容と価値基準による競争という偏差値教育と学校の格差づけによって学歴志向の問題が学校歴と重なっていっていくのだ。学校間のラベルが一層重要になって学校名の権威獲得競争が行われていく。高校の準義務教育化のなかで,学校間の権威的序列競争が一層に激しくなっていく。受験競争の激化,輪切りによる学校間格差,教育の画一性をもたらした。学校をとおしての立身出世主義の大衆化として教育をめぐる矛盾が増大していったのだ。
 子どもの受験競争は低年齢化していくことによって,子どもの発達過程における他者との関係が競争との関係でみるようになり,子どもの遊び仲間集団などで作られていく子ども本来の社会化していく協同や連帯の精神との矛盾関係が起きていく。高度経済成長のなかで,この子どもの矛盾関係が促進していくのだ。
 「学力差」による差別・選別の教育が行われ,高校教育での中退者が大量に現れている。中退者は,社会的な不安定労働力市場に動員されている。学校教育のおちこぼれ現象が貧困層をつくりだしていく。学校教育の失敗が人生の失敗という現象がみられていく。
 中退等にみられるように学校教育での差別・選別を受けたものが貧困層をつくりだしていく。これらの層は労働意欲や生活意欲の問題とも絡んでいく。
 
日本のエリート層の退廃

 日本のパワーエリ−トの層はいわゆる有名大学出が多く,様々な汚職の疑獄事件をおこし,官僚,政治家,企業のトップも社会的な問題を起こしてきたことはいうまでもない。また,バブルの時期には,様々な金銭をめぐっての頽廃,無計画な開発,土地取引がおこなわれ,莫大な不良債権をつくり長期の経済的不況の原因をつくったが,これをひきおこした多くもエリ−ト大学をでた人たちである。
 立身出世主義にのぼりつめた層の退廃もみられるのである。また,オウム事件にみられるように、日本の将来を担う若いエリート大学の出身者が、盲目的絶対権威の宗祖による社会的破壊活動に科学技術が利用されていった。大学の教育が問われたのだ。
 日本の経済発展は、国家の財政施策と密接に結びつき,金権という政治の汚職・社会的退廃をもたらし,子どもの道徳形成にとって大きなマイナスを与えていった。政治的退廃は子どもからの社会的リーダ層への不信を大きくしていったのだ。
 80年代後半は,異常なバブル経済に日本社会は酔いしれ,株,土地,為替,先物取引などの投機的分野に資本投資が膨大に流れ,金銭をめぐっての様々な社会的な退廃状況が噴出した。証券スキャンダル,銀行の不法貸し付け,不法投棄,銀行・信用組合等の大量の不良債権など信用機関の不祥事が目立ったのである。これは,日本を支配する金融・信用部門のばくち的な投機の横行であり,社会的な退廃の深刻性を示すものである。さらに,政治や行政の責任を担うトップエリ−ト層が、ロキ−ド事件,リクルート事件,佐川宅配便事件というスキャンダルを起こしていったことは,未来を担う子どもたちに重大な道徳的なマイナス面を与えたのである。

企業モラルの問い

 バブル崩壊の92年以降、長引く不況は,投機的な資本投資の問題が明らかになり,社会的にもバブル経済の問題点が露呈した。この反省として,社会的に新しい価値観の問いかけが生まれている。証券不祥事事件を契機にして1991年10月に経団連企業行動憲章として,企業の社会的役割を果たす7つの原則が次のようにだされた。
「1.社会的に有用な優れた財・サ−ビスの供給に勤める。2.社員のゆとりと豊かさの実現に務め,社員の人間性を尊重する。3.環境保全に配慮した企業活動を行う。4.フィランソロピー活動を通じて,積極的に社会的貢献に努める。5.事業活動をつうじて,地域社会の福祉の向上に努める。6.社会の秩序や安全に悪影響を与える団体の活動に関わるなど,社会的常識に反する行為は断固として行わない。7.広報・公聴活動等を通じて常に消費者・生活者とのコミュニケ−ションを図り,企業の行動原理が社会的常識と整合するように努める」。この企業憲章は利潤第一主義的傾向,なりふりかまわずの規模拡大志向を企業側から倫理的にコントロ−ルするうえで大きな社会的圧力の降下をもっていく。60年代の経済成長第一優先の時代は,規模拡大することが企業の支配的論理であり,公害防止の問題は軽視されていたのである。それが,90年代の現代は,環境保護のビジネスは,新たな期待される産業として大きな脚光をあびるほどになっている。社会のために役にたち,そして,企業の採算の基盤もなりたたせようとするモラルも生まれた。

 豊かになった日本の学校矛盾

 日本は経済の大国になったことによって、創造的なものづくり人間から大量に消費する人間社会にかわった。工業学校や理科教育などの人気が落ちていった。現在、日本では子どもの理科離れが深刻になった。
 現実の労働との関係で教育をしていこうとする傾向が弱くなっている。定職に就かずに、フリーターということで臨時的に働く青年が200万以上と増大し、また、小学生や中学生など学校に行かない子どもが13万人と増えている。
 楽をして、安定した収入を得たいという傾向も強まっている。労働の現場に結びつく仕事をきついということで、やりたがらない青年が増えている。
 学校の教師も一般公務員よりも給料がいいこともあって、教員になるための採用試験も難しくなている。子どもの問題行動も消費社会のなかで様々な問題が生まれている。

 矛盾克服の運動

 60年代後半に、社会の矛盾の解決に住民自らが立ち上がって国・自治体に企業に要求していったのだ。高度経済成長の歪みの克服施策や公害防止,福祉を重視する住民自治によってシビル・ミニマム論が自治体で確立していくのだ。ここに,住民参加による地域民主主義の確立の意識が成長していくのだ。多くの自治体に、社会党・共産党・市民団体などによる、いわゆる革新自治体が誕生する。
 高度経済成長期は,アメリカのベトナム侵略が激しくなっていった。沖縄をはじめ日本のアメリカ軍基地によってベトナム侵略戦争が遂行されたことから,その平和運動が大きく盛り上がったのだ。
 以上のように,高度経済成長期は,国民の権利獲得運動,平和と民主主義の運動が高まったことにより,子どもの世界においても,その影響は大きかったのだ。
 学校教育で落ちこぼれて、労働意欲を失って若者を、学校教育以外での優れた中小企業経営者の人間的な触れ合いによって,成長していくことがあることを重視しなければならない。企業の教育力によってあらたな人間的な成長をとげている若者が数多くいたのだ。
 全国で約4万の会員をもつ中小企業家同友会全国協議会の1993年の定時総会では21世紀型中小企業として「自社の社会的使命を自覚し,国民と地域社会からの信頼や期待に高い水準で応えられる企業,社員の総意や自主性が十分に発揮され,労使が共に育ちあい,活力に満ちた豊かな人間集団を築く企業こそが,未来に向けて発展を続けうる企業であること」というように企業での人間的な育ちあいの実践事例が数多く生まれてきていることだ。共に育つということが学校教育ではなく,学校教育ではじきだされた青年が中小企業で知的教養や技術をみにつけ人間的に成長しているのだ。学校教育の失敗は決して人生ではないことを中小企業家同友会の実践は示しているのだ。
 また,働くものが出資して共同で経営する新しい企業として,労働者協同組合が生まれている。それは,1990年に本格的に展開していく。92年に労働者協同組合の原則が確認され,労働者が企業の主人公になる労働と教育を基礎に自立と協同と愛の人間的成長の経営を目標とする企業体が生まれたのだ。
 このような企業のなかで共に育つ企業が社会的に増えていくことによって,子どもの進路問題にあららしい見方が生まれているのだ。
 企業の社会的貢献・モラル,豊かさの問いかけ,競争から共生社会の問いかけ,住民自身による地域の様々な共同事業,自治体への住民参加など大きな関心になっていく。子育てについても地域の協同化運動が各地で起き,教師の体罰,学校の校則問題,内申書による生徒管理問題等学校をめぐる子どもの人権を守る父母の住民運動も発展してきている。これは,学校の閉鎖性を克服し,父母の学校参加の道を開く運動として大きな意味をもった。
 そして,地域からの教育改革として,校区ごとにつくられた地域教育会議の実践は教育における地方自治を生活圏レベルの校区で定着しようとする貴重なものである。教師と父母による子育て・教育の協同の市民運動が展開されていくのであす。
 日本の国際化は教育改革に新たな視点を国民に与えている。円高のなかで日本の生産拠点がアジアなど世界各地に移転していく。このことは,日本においてアジアなど世界がより身近かな問題として国民の前に明らかになっていく。そして,世界との教育の比較も可能になっていく。
 労働との関係で子どもの教育をしていこうと、農業体験学習や農村に子どもを留学させる試みもはじめている。農業や農村の教育の役割があらためて注目されているのだ。大学生や青年達が発展途上国にでかけて生活体験することは大きな価値観の転換になっている。
 高学歴化のなかで若者の創造的能力は高まっている。社会のなかで役にたちたいということで、ボランティア活動する青年も増えている。ベトナムとの交流は、現代日本の消費社会から、教育の矛盾を解決する道を与える思う。
 

 高学歴化の進歩性

 国民皆学制・教育の機会均等の近代学校が資本主義の形成発展のなかで生まれてきた文明史的役割と,それが資本主義的な競争による能力主義や資本主義的な合理性になっていったことによる様々な矛盾とは別だ。今後の展望として資本主義的競争矛盾の解決の展望をめざし,近代学校の市民協同性としての学習権の実質的な構築の創造が求められている。
 ここには,資本主義的な競争や合理性への社会権的な制度のひとつとしての学校の民主的な制度改革の課題がある。子どもの社会のいじめ問題という深刻な問題があるが、受験競争のなかで傷ついてきた子どもたちが,一方ではひとの心のやさしさに敏感になっていることも見逃せないことだ。矛盾のなかで、あらたな進歩性が潜んでいるのだ。
 高学歴化の現象は,科学の大衆化として人びとの教養や専門的な能力を高めていく。社会的な知的・文化的能力の向上として,社会の発展に大いに寄与しているのだ。
 戦後の日本社会の発展にとって,軍国主義的な体制が一掃されたことは大きな歴史的進歩である。大学等の高等教育機関が軍事研究との関係をもたず,民間の研究機関も民需との関係で商品開発を積極的に行ったことが日本の戦後の特徴だ。科学技術開発における平和主義と民需の製品開発という論理が基本であったのだ。
 軍事的優位にたつためには,コストを度外視して,一刻も早く軍事的開発を行うが、市場をとおして民需のための商品開発は,消費者を意識しての科学技術開発になる。日本では科学技術が民需のために大衆むけの商品開発に利用されて,経済成長に貢献していくという構造であったのだ。
 民需の部門に科学技術が発展し,大衆むけの商品開発が様々な分野で行わたのだ。それが,中小企業までも含めて全国いたるところで絶え間ない商品開発・市場開発を行ってきたのが戦後の特徴だった。これを支えてきたのが高学歴化現象のなかでの国民的な教養や専門家の形成だ。
 日本の経済成長をなしとげてきたのは,国民の勤勉性と同時に,民需を中心にした科学技術力の進歩,高度の技術を商品化していく創造性にあったのだ。高学歴化は,中小企業を含めての広範な商品開発・市場開発を可能にしたのだ。多くの中小企業が、後に国際的な企業に成長していったのだ。
 60年代後半から70年代に全国各地におきた公害問題の住民運動は,新たな公害防止産業をつくりあげていったのだ。現代のゴミ問題やリサイクル問題などでもあらたな環境にやさしいエコビジネス産業をつくりだしている。この様々な社会的矛盾に対して,それを克服していくあたらしい産業が生まれていくのだ。この国民の活力や創造性は,国民的な教養性と、専門的開発の能力が国民的規模に広範にあることで、日本社会の強い進歩性があるのだ。
 企業内での教育力も日本の高度な商品開発や品質を高めいったことに、大きな役割を果す。この企業内教育も学校教育での基礎的な能力形成のうえに展開しているのだ。戦後の大学において,広範な学生が社会進歩を求めて学生運動をしたことは,それぞれ卒業していった学生たちが自己の専門分野で社会のモラルを機能させ,日本の社会進歩に大きな役割を果たした。人権や社会福祉を発展させ,社会的に民主主義を形成していく力になっているのだった。