ホーチミン市での旧大統領官邸・青年の集い11月23日の講演
  約500名が集まり、韓国、シンガポール、ドバイ、スイスなど各国の成功とベトナムでの成功事例をシンポジュウムで行いました。そのときの講演原稿です。講演の内容は、東日本大震災の支援のお礼と稲盛経営哲学を強調することでつけくわえました。主催者側のホームページでは、稲盛和夫の経営哲学と京セラのことが強調してのっています。




戦後の廃墟からなぜ日本は発展できたか。それは、学び。

 敗戦直後の廃墟の日本

 日本は第2次世界大戦によって、広島と長崎に原爆が落とされ、東京、大阪、名古屋、、神戸、鹿児島など空襲によって廃墟となった。その被害は、世界史上、最大のものであったといわれる。
 日本の戦後国民は、なにもかも失った。まさに、廃墟からたちあがったのである。日本は、廃墟になったが、豊かな心はのこった。国民は高い学ぶ意欲があったので、大きな夢と希望をもっていたのである。日本は明治維新以降に、国民的に学問の普及が行われて、国民がみんな学ぶという文化的風土をつくりあげ、教育制度も著しく発展していた。
 戦後は、すべての県にあたらしい国立大学をつくった。戦前に専門学校であった学校が、大学になっていった。廃墟という物質的には、貧困であったが、学校をくまなくつくった。とくに、実業教育と教養教育に力を入れた。
 高等学校、中学校、小学校も新しい時代のなかで、教育体制を充実させた。1970年には、ほとんどの生徒が高校に通うようになった。学ぶことによって、廃墟の国を立て直していった。それと同時に、民主主義を実現するために、国民的な運動も積極的に展開された。廃墟のなかで、新しい社会を作ることに日本の国民は、燃えていた。労働組合、農民組合、農業協同組合、青年団、婦人会、中小企業団体、経済団体など活発に地域や職場で、努力するば豊かになるという確信で、教育活動を展開していく。

 農村での生産学習

 国民の学びは、荒廃から豊かな日本の社会をつくろうということで、学校教育だけではなかった。地主制がなくなり、農民の生産意欲は大きく高まった。戦前の日本は、植民地によって、食糧を維持していた。敗戦によって、植民地はなくなり、終戦直後の日本の食糧難は深刻であった。廃墟になった東京でも、いたるところが畑になった。国会議事堂の前の広場も畑になった。
 わたしは東京で育ったが、幼い頃は、畑だけではなく、にわとりを100羽ほど飼っていた。子どもにとっては、学校給食は、重要な空腹をみたすものであった。東京タワーの近くで、東京のど真ん中でもみんな食糧にこまった。復興のための作業と同時に、東京の近郊に食糧を買い出しにいくのが大切な仕事であった。
 敗戦後、日本は、10年後に主食の米の自給を達成していくのである。農民の生産意欲は、農業生産高を戦前の水準より、大きく超えていく。各地で生産学習ということで、青年が工夫して、次々と新しい生産の方法を開発していった。
 わたしは、1944年の生まれであるが、小学校の低学年のときは、毎日のように学校の庭での畑作業をさせられた。爆弾があちこちに埋まって、畑の作業も中止になることも多かった。授業は、2部授業といって、校舎がきわめて不足していて、午前と午後にわかれていた。小学校の低学年でも畑作業をさせられていたのである。国民みんなが、明日の未来を信じて、がんばっていたのである。しかし、小学校の高学年になると、勉強と遊びという子ども生活がおくれるようになる。

 戦後の日本経済をリードした企業




 戦後の日本の経済発展をリードした多くの企業は、小さな工場から出発して、世界的な大企業になっていった。ソニーは、1946年に創立された。東京の白木屋デパートの3階の一室からはじまった。白木屋デパートは、空襲から焼け残った。しかし、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。
 井深 大(いぶか まさる)たちは念願の会社の看板を掲げた。会社ができ、自分たちの持てる技術を世の中に役立ててたいという目的はあった。しかし、正直言ってどの仕事から手を付けてよいか分からなかった。 最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、何か仕事をしなくてはならない。それで思い付いたのが、ラジオの修理と改造である。ラジオの修理の次に研究所で手がけたのは、電気炊飯器。二十数名の小さな会社であった。
 売れに売れた電気ざぶとん"は、井深が考案した。また、どんなことがあってもテープレコーダーをやりたいと一大決心をしている。何とか無理を言って進駐軍の将校にテープレコーダーを会社まで持って来てもらった。テープレコーダーは、アメリカでもできたばかりの貴重品である。製品として日本初の「もの言う紙」のテープ録音機をつくりあげる。日本ほど教育におけるテープレコーダー活用の浸透率が高い国は、世界にない。学校に販路を開拓していったことが大きな躍進であった。トランジスタに“石”を使う画期的なことを次に開発していく。SONYは、次々と国民が求めれる新しい夢の製品を開発していくのである。
 バイクや自動車のホンダは、静岡県浜松の大空襲の焼け野原のなかで、陸軍で使用していた無線用小型エンジンを改良して、自転車に取り付けることからはじまった。動機は、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」との思いからである。そして、独自にエンジンを開発していった。たくさんの外国のオートバイを分解して研究をかさねていった。1948年株式会社として設立したが、従業員20名。
 女性でも簡単に運転できる原動付き自転車を開発し、全国的にうれていく。1960年代にアメリカは自動車の排気ガスに悩んだ。自動車の排気ガスに真正面から挑戦したのがホンダであった。1972年にホンダは、不可能といわれた排気ガス規制法をクリアーする低公害のエンジンを開発したのである。
 日本は、1964年に東京オリンピックを開催する。東京は、オリンピックを契機にして大きく発展した。廃墟から20年も経過していないにもかかわらず、世界の大都市と同じように肩をならべる。日本は、高度経済成長に入ったのである。そして、次は公害問題に悩まされる。この公害問題は、国民的な運動になり、各地で公害患者の救済、公害克服のための整備がされていく。日本は、煙突からの煙を除去、排水を浄化する技術開発がされていく。国民の暮らしを守り、豊かな暮らしをしていくために社会保障や福祉の整備も同時にされていく。高度経済成長の矛盾のなかで、新しい社会づくりが進んだことも特徴である。退職しても安心して暮らせるようにと国民みんなが加入する年金金制度、病気になっても安心して病院にいけるようにと国民健康保険制度などが充実していった。国民が安心して働けるようにと失業保険保健、雇用保険も整備されいった。 日本的な雇用制度は、会社に入社したら生涯にわたって、生活の面倒をみるというしくみが、国民の働く意欲を向上させた。そして、職場のなかで仲間を大切にしながら、みんなで向上心をもって、創造的に仕事に打ち込む気風がつくられていった。

働く人を大切にする企業と全員参加経営



 働く人を大切にしていく企業経営のあり方も広まった。零細企業から大きな企業に成長していったのも少なくない。零細企業のもとでも、社員を大切にし、社会のために貢献していく会社の経営理念を貫いているところは継続して発展していった。働く人を酷使した企業は、一時的に発展して、大企業になっても、いつかは、倒産した。
 日本では、江戸時代から社会的な正義、世のため、人のために尽くす大義の経営は商人のなかでも行われてきた。明治になっても商売における大義の精神は、澁澤栄一、大原孫三郎という日本の代表的な経営者によって実践されている。
 京セラという自動車や電気などの中核的な部品生産を担っている企業の創設者の稲盛和夫は、つぶれた日本航空を再建した経営者として国際的にも有名になった人である。携帯電話では、日本の独占的な通信会社のNTTに挑戦して、auを創設した人である。かれは、陶器の材料を最も先端産業にしたファインセラミックを開発した研究者であると同時に技術者でもあった。かれも零細企業から会社をたちあげた人である。
 創業まもないが、会社が軌道にのって新しい社員を9名やとったとき、1年足らずして、給料が安いということで社員から反乱があった。小さな会社であったので、大切な社員であった。しかし、社員の要求どおりに給料を払える会社でなかった。このとき若い社員から学んだことは全従業員の物資的なこと、心のことも豊かにして、みんなが幸せになるために経営者は、全員参加の経営に努力することであると悟るのである。
 社会的正義を守り、世のため、人のため、社会のために尽くすために働くことを大切にしていく。決して、私欲にはしらないこと。動機は、善であるかどうかと自分自身、常に問いかけることをした。会社の理念として、フィロソフィーの教育を重視しているのである。現在も大企業に成長した京セラは、この創業後まもない経営理念を貫いている。この意味で、世のため、人のためという社会的な正義をもつ大義の経営ということがいえよう。世のため、人のために、大義のもとで働くということが、成長の原動力になっているのである。

 学ぶことが発展の原動力



 学ぶことによって、大義を理解し、自己の真の社会的役割を考えることができる。そして、社会的な正義をもって働くことのすばらしさを知るのである。仲間を大切にし、みんなの協同の力によって、会社としての大きなエネルギーになっていくのである。個々の自己利益、私欲をあおっていく成果主義はとらないとしている。稲盛経営哲学は、いわゆる能力主義的な管理システムではなく、世のため、人のため、社会のためというフロソフィーを大切にしての自発的な全員参加による経営による協同のエネルギーを大切にしているのである。
 1990年以降のバブル崩壊後に、日本の社会、日本の企業のあり方も大きく揺らいでいる。日本経済も停滞していく。韓国や中国に追い抜かれていく分野も増えている。とくに、価格競争ということでは、厳しい局面にたたされている。京セラは、小さな会社のときから、社会的に重要な役割を果たすということで30年間にわたって、頑固に太陽光発電の研究開発をしてきた。決して、当面の利益のみによって経営するのではなく、人類社会に貢献するという大義をもって、仕事に誇りと意義をもたせるために会社としても位置づけたのである。京セラの社員は、ソーラー発電をとおして、小学校で暮らしと環境の出前授業を積極的に展開している。
 この10月に鹿児島に日本最大のメガソーラーの発電を完成させたのである。各家庭の屋根、工場、また、空き地に太陽光発電が急速に、日本では普及している。このように、日本の経済成長のなかには、短期的な商売と、長期の視野をもっての人類的な貢献をしていく技術開発がおこなわれているのである。
 日本は最先端の技術をもっともっと発展させて、価格競争という側面ばかりではなく、世界の人びとが今、何を求めているのか。世界の人びとが何に困っているのか。人類的な社会貢献の視点から、品質を大切にしてのものづくりを今後も大切にしていくことでしょう。これが、日本のものづくりの文化、また、戦後の廃墟から世界的に経済成長を遂げた日本の姿である。 国際的な連携を模索し、それぞれの国の文化を大切にしながら、共存、共栄の国際的な分業を日本は担っていくことでしょう。
 ホーチミンは、ベトナムの独立のために生涯をかけた。ベトナムの独立のよびかけが、国民的な、世界的な共鳴を受けたのは、民族の独立の権利、国の主権という普遍的な社会的な正義をもっていたからである。どんな困難ななかでも、独立を達成したことは、国民の協同の英知の結集があったからである。日本が戦後の廃墟から立ち上がっていくことも国民的な英知があってこそ、経済発展をすることができたのである。
 今年は、ベトナムと日本の国交回復40周年の記念である。両国の交流によって、アジアの平和と発展、それぞれの国、民族の共存、共栄を願うものである。そして、世界的な面から社会的な正義のもとに、人類的な貢献を共にしていこうではないか。それは、持続可能な経済の発展のモデルを、ベトナムや日本の地域社会に数多くつくっていこうではないか。それには、国民的な規模で持続可能な発展のための教育、その学びを展開していくことが必要ではないか。
 日本人は、明治維新から国民みんなが学ぶ文化をつくってきた。福沢諭吉の「学問のすすめ」は、日本人の近代化の精神を書いたものである。ぜひこの本を読んで、独立の精神を考えてほしい。