巫覡の統制
一心庵暄和
巫覡たちの活動は律令国家への移行体制が整い始めたころより、なにかと規制されてきたようである。これは恐らく佛教を利用した中央集権国家化に、古来の神道的な巫覡たちの活動がそぐわなかったからであろう。朝廷は奈良大仏建立など必要なときには巫覡を国民の統制に利用したが、必要が無くなると巫覡たちを切り捨てている。この奈良大仏建立の際の事例は後に述べる。ここでは巫覡の統制について出された律令についてみてみたい。(本文引用中の「_」はSJISコードに該当する漢字が存在しないので便宜上置換してある。国史大系などで該当する文字を確認して頂きたい。MacOS XだとUnicodeが使えるんだけどね(^_^;)
朝廷は民間の巫覡が祭祀を行うことを認めていなかった。民間の巫覡が行う祭祀は淫祀とされ禁止され、時には処罰の対象ともなった。
『日本書紀』皇極天皇三年(六四四)七月条に富士川の辺の人、大任部多が虫祭を常世の神だと言って人に勧めたとの記事がある。巫覡等もこれにあやかったのか、偽って「祭常世虫者。貧人到富。老人還少」と「神語」が託されたと言い人々に神餞を出させ、「新富入来」と連呼させた。都鄙の人々は「歌舞求福。棄捨珍財」したが益は無く損ばかりであったという。
特に、「歌舞求福」という記述に注目したい。歌舞は重要な要素であったのではないだろうか。この虫祭は大任部多がいいだしたものであろうが、それを都鄙の人々に広めたのは、まぎれもなく巫覡たちである。巫覡たちが民衆の信仰に深く関わっていたことを示す記事である。
民衆が勝手に祭祀を行うことは方によって禁止されていた。また、法によって禁止された祭祀もあった。これらの禁止された祭祀を朝廷は淫祀といった。『類聚三代格』をみると、淫祀に対する禁制がみられる。「禁断京中街路祭祀事」として、宝亀十一年(七八〇)十二月十四日に出された禁令が次の通りである。
奈良時代のことではあるが、民衆の祭礼に巫覡が深く関与していたことが窺える。
都が平安京に移っても、民衆の祭礼が活発であったことは前掲の宝亀十一年の禁制に続く記事に大同二年(八〇七)九月二十八日の太政官符「応禁断両京巫覡事」がある。
巫覡が民衆を扇動して祭祀を行うことを警戒しているのか、ただ庶民が群集するのを警戒したのかは、解釈が分かれるであろうが、ここでもやはり民衆の祭礼に於いて巫覡が中心的な役割を果たしていたことが窺える。
また、祭礼の禁制ではないが、延暦十六年(七九七)七月十一日の太政官符「禁断会集之時男女混雑事」は庶民が群集することを禁じたものである。
続けて、翌年延暦十七年十月四日には太政官符「禁制両畿内夜祭歌舞事」が出されている。
延暦十六年、十七年と立て続けに庶民が群集することを風俗、秩序を乱すとして禁止している。延暦十六年の「禁断会集之時男女混雑事」は倫理的側面からの禁制と捉えることが出来るが、同十七年の「禁制両畿内夜祭歌舞事」は「盛供酒饌」し「夜祭会飲」するなど、祭祀を禁止したものとみることができる。
この庶民が群集して歌舞を行うということは、もっと古くに根があったと思われる。遡って禁制をみるに、天平神護二年正月十四日の太政官符「禁断両京畿内踏歌事」を挙げることが出来る。
民衆の祭祀に於いて特に歌舞音曲は重要な要素であったと思われる。神泉苑御霊会でも、船岡山御霊会でも、民衆の参加が特別に勅許され、多数の民衆が参加している。民衆が群集して歌舞音曲をともない、酒饌を供え御霊を供養したものである。
歌舞音曲といえばカガヒ・ウタガキでも重要な要素であった。摂津国風土記逸文に「歌垣山」の記事がある。これはカガヒ・ウタガキが東国の筑波のみならず畿内にも存在していたことを示す記事と思われるが、カガヒ・ウタガキと御霊信仰との関わりについては調査不足のため、後の課題としたい。今言えることは、庶民が群衆して歌舞音曲を楽しみ、酒饌を供えたことはカガヒ・ウタガキも御霊信仰にも共通することであるとともに、民衆主体のマツリであったということである。
常世虫の事例から窺えるように、民衆の群集には巫覡たちによる呼びかけがあったものと考えられる。大多数の庶民は中世に至るまで庶民は上代と変わらない竪穴式住居に住み続けており、社会的には律令という法体系で束縛されることになったが、生活水準は上代とほとんど変わらなかったのである。また、佛教も鎮護の為に導入されたものであり、いいかえれば霊的国防システムとして導入されたものである。庶民レベルで佛教の信仰は許されていなかった。庶民の信仰は依然として巫覡たちのような遊行者に負っていたのではないだろうか。
巫覡たちは託宣を受け、その託宣を遊行しながら広めていく。その数も一人二人といったものではなく、後世の熊野比丘尼のように多数存在したであろう。しかし、庶民を集わせ、影響を与える巫覡たちを、朝廷は快く思っていなかったようである。21世紀の現在に於いても公安条例事件の類の話題には事欠かない、古代に於いては尚更のことではないだろうか。現在のように処分の相当性や、危険の蓋然性、明白性などが必要でなかった時代のことである。巫覡たちの祭祀は淫祀とされ行政刑罰の対象とされたのである。
『続日本紀』天平勝宝四年八月庚寅条に「捉京師巫覡十七人、配于伊豆・隠岐・土佐等遠国。」とあり、『類聚三代格』の禁制と照らし合わせてみれば、巫覡たちの活動こそが弾圧の対象であったことがうかがえる。庶民が群集することは朝廷にとって、望ましいことではなかったのであろう。それはただ単に民衆が集って暴動を起こすことを警戒したのではなく、厭魅など宗教的な意味での恐れもあったのかもしれない。巫覡たちの詐欺から民衆を保護するという積極的目的とも言えなくはないが、どちらにせよ庶民を群集させ淫祀を営ませる巫覡たちは朝廷から目の敵にされていたことは否定できないであろう。