一心庵暄和
御伽草子『俵藤太物語』は武家物で、二巻または三巻の作品である。室町時代に成立した。俵藤太による百足退治と将門討伐の二つの話題で構成されている。
後半の将門討伐の中に見られる、七人将門伝説、併せて将門の首にまつわる伝説について典拠を中心に考察したい。
なお本文中の引用文は、新潮日本古典文学集成『御伽草子』(注1)に拠る。
後半部で重要な登場人物である将門についてはどのような人物であったのだろうか。また、後半の世界を構成する天慶の乱とはどのような事件であったかを見ていきたい。
平将門は桓武天皇の曾孫である高望王の孫である。高望王は平姓を賜り、従五位下上総介を任ぜられ、任地へ一族を引き連れて赴く。任期終了後も上総国に留まり豪族となった。『尊卑分脈』に拠ると高望王の三男良将は下野国相馬郡の県犬養春枝の女と婚姻を結び、荘園を開発し拡大していった。県犬養氏の馬や牛の放牧地を所有しており財政の基盤となっていた。所領の下野国猿島郡、豊田郡、相馬郡の辺では九世紀後半には製鉄が行われていた。この豊かな領地の相続が原因となって当時相馬小次郎と呼ばれていた将門と叔父達との間に争いが生じ、発展して天慶の乱が起る。
天慶の乱は天慶三(九四〇)年に、平将門が伯父の良兼と紛争を起こしたのがきっかけで、一族の中で激しい争いが起こった。国衙の官人に一族の人間が多かったため、国衙の紛争に介入して国衙を焼き払ったため。国家に対する叛乱となった。関東諸国に出兵し、守護を追放した。その後、自ら新皇と称した。騎馬隊と鉄を所有していた将門軍は当初優勢であったが、俵藤太と平貞盛の参戦によって戦局は変化する。そして、天慶三年二月一四日に将門は流れ矢に当たり死亡した。その後首は京へ送られ、梟首された。
天慶の乱は、朱雀天皇の時代に起きた。この乱は、当初一族内の私闘であったが、それが国家に反乱するという内乱にまで発展した特異な例である。将門にまつわる伝説は関東地方を中心に分布している。
一方『俵藤太物語』の主人公俵藤太こと藤原秀郷は平安中期の武人で生没年は不詳。先祖は藤原鎌足とされている。秀郷は相模国の田原を治めている藤原氏の長男、つまり太郎君ということで、田原藤太と呼ばれていた。また、百足退治の結果竜王から米の尽きない俵をもらったという伝説とからめられて、後に田原と俵をかけて俵藤太と表記されるようになったともいわれている。
延長七年(九二九)に下野国司から濫行を訴えられている。また、秀郷はこの十三年前にも罪人として流罪にされている。このことは、『日本紀略』延喜十六年八月十二日に
八月十二日甲午。下野国言。罪人藤原秀郷。同兼有。高郷。興貞等十八人。重仰国宰。随其罪科。各令配流之由。重下知之。(注2)
とあるが、何故流罪にされたかは記されていない。しかし、一度流罪となったにも関わらず一族が衰えた様子はない。
天慶三年の天慶の乱では、下野国の押領使として追武使平貞盛とともに、将門を討ち破った功績によって従四位に叙され、下野守に任じられた。後に鎮守府将軍に補せられ、その子孫は関東北部を中心に勢力を誇った。また、奥州藤原氏の祖である藤原経清は俵藤太の子孫である。
『俵藤太物語』で将門は
その有様まことに世の常ならず。丈は七尺に余りて、五体は悉く金なり。左の御眼に瞳二つあり。将門にあひも変らぬ人体同じく六人あり。
と描かれいる。鉄身伝説、七人将門伝説を反映したものである。また、
本体には、日に向ふ、灯火に向ふ時、御影うつり給ふ。六体には影なし。さてまた御身体悉く黄金なりといへども、御耳のそばに蟀谷といふ所こそ肉身なり
と将門の本体の見分け方があげられている。これを俵藤太は小宰相から聞出して、ようやく将門を討取る事ができるのである。
将門の見分け方も『俵藤太物語』で描かれている他にも、影武者は藁人形であり、将門だけが寒い日に白い息を吐くといったものや、俵藤太が投げた成田不動のお札により、将門の七変化の妖術が破れたというものがある。
また、これらの他にも、
将門一人の首は、いまだ眼も枯れず、色も変ぜず、時々は歯噛みをして、怒る気色なり、恐ろしといふばかりなり
とあるが、これは天慶三年四月二十五日に将門の首が都に届き、五月三日に左京に梟首されたが、首がからからと笑っていたという伝説である。
将門が鉄身であるという話は、『太平記』巻第十六・日本朝敵事にみられる。
官軍擧テ是ヲ討タントセシカドモ、其身皆鐵身ニテ、矢石ニモ傷ラレズ劒戟ニモ、痛ザリシカバ、諸卿僉議有テ、俄ニ鐡ノ四天ヲ鑄奉テ、比叡山ニ安置シ、四天合行の法ヲ行セラル。故天ヨリ白羽ノ矢一筋降テ、將門ガ眉間ニ立ケレバ、遂ニ俵藤太秀郷ニ首ヲ捕ラレテケリ。(注3)
とあり、鉄身であることが記されている。
また、これに続く話として、将門の首がからからと笑うという話があり、
将門はこめかみよりも射られけりたはら藤太がはかりことにて
という歌を聞くと、その現象が治ったとされている。
『太平記』ではこの歌は、
將門ハ米カミヨリゾ斬ラレケル俵藤太ガ謀ニテ(注4)
となっているが、ほとんど同じである。
そして、『平治物語』にも、
むかし、将門が頚、獄門にかけらてたりけるを、藤六といふ歌詠が見て、
将門は米かみよりぞきられける俵藤太がはかりことにて
と、よみたりければ、此首、しいとぞわらひける。二月に討たれたる頸を、四月に持て上りて懸たりけるが、五月三日にわらひたりけるぞ恐ろしき。(注5)
と将門の首についての話がある。
その他にも、将門が乱を起こした時、俵藤太が「この人に同心し、日本国を半分づつ、管領せばや」と将門に会いに行くという話は『源平盛衰記』や、『今昔物語』にみられる。
このように『俵藤太物語』にみられる将門の伝説は多数の典拠を示すことができる。
『俵藤太物語』の後半部は、将門の伝説が中心となっている。その伝説が織込まれて、俵藤太を主人公とした作品に仕上がっている。
『俵藤太物語』は俵藤太を描きつつも、将門の伝説が中心となっている。源平の争いや、南北朝の動乱を描いた作品に、将門の乱が断片的に出てくるのも興味深い。
また、それらの断片を統合したのが『俵藤太物語』にみられる、将門の伝説ではないだろうか。
注1 松本隆信校注 新潮日本古典文学集成(第34回)『御伽草子集』 昭和55年1月10日 新潮社
注2 黒板勝美編 国史大系第十一巻『日本紀略後編・百錬抄』 昭和40年8月31日 吉川弘文館 20頁
注3 後藤丹冶・釜田喜三郎校注 日本古典文学大系三五『太平記』二 昭和36年6月5日 岩波書店 168頁
注5 栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳校注 新日本古典文学大系四三『保元物語・平治物語・承久記』 平成4年7月30日 岩波書店 232〜233頁
〈参考文献〉
1 横山重・松本隆信編 『室町時代物語大成』第九 昭和56年2月28日 角川書店
2 梶原正昭・矢代和夫著 『将門伝説』 昭和50年12月30日 新読書社
3 後藤丹冶・釜田喜三郎校注 日本古典文学大系三五『太平記』二 昭和36年6月5日 岩波書店
4 梶原正昭訳注 東洋文庫『将門記』二 昭和51年7月14日 平凡社
5 小峰和明校注 新日本古典文学大系三六『今昔物語集』四 平成6年11月21日 岩波書店
4 水原一考定 『新定 源平盛衰記』第三巻 平成元年6月15日 新人物往来社