一心庵暄和
『遊歴雑記』四編巻上第貳拾五に拠ると、十方庵は下総国北相馬郡守屋駅を源右衛門と伴に訪れている。駅の附近をしばらく散策し風景を楽しんだ様である。現在の行政区画では茨城県北相馬郡守谷町となっている。守谷は江戸時代には駅が置かれており、交通の要所であった。『遊歴雑記』に拠れば、駅の長さは七八町であり、駅の中央には高札場があったようである。守谷の駅から南へ行くと、平将門の城跡があったと記されている。城跡の様子が詳細に記されており、升方をした築地の土手があり、その内側には空堀あった事が分る。記述から文化・文政年間まで城跡は特に壊れずに残っていたことがわかる。
守谷には平将門にまつわる史跡が残っている。守谷の城は将門が石井に内裏を造営するまで将門の本拠地であった。現在でも守谷には将門に関連する史跡が残っている。『遊歴雑記』に記されている城跡のほかにも、将門を祀った神社や寺院等が多数ある。
そもそも、平将門とはどのような人物であったか史実からみていきたい。
平将門は桓武天皇の曾孫である高望王の孫である。高望王は平姓を賜り、従五位下上総介を任ぜられ、任地へ一族を引き連れて赴く。任期終了後も上総国に留まり豪族となった。『尊卑分脈』に拠ると高望王の三男良将は下野国相馬郡の県犬養春枝の女と婚姻を結び、荘園を開発し拡大していった。県犬養氏の馬や牛の放牧地を所有しており財政の基盤となっていた。所領の下野国猿島郡、豊田郡、相馬郡の辺では九世紀後半には製鉄が行われていた。この豊かな領地の相続が原因となって当時相馬小次郎と呼ばれていた将門と叔父達との間に争いが生じ、発展して天慶の乱が起る。
天慶の乱は天慶三(九四〇)年に、平将門が伯父の良兼と紛争を起こしたのがきっかけで、一族の中で激しい争いが起こった。国衙の官人に一族の人間が多かったため、国衙の紛争に介入して国衙を焼き払ったため。国家に対する叛乱となった。関東諸国に出兵し、守護を追放した。その後、自ら新皇と称した。騎馬隊と鉄を所有していた将門軍は当初優勢であったが、俵藤太こと藤原秀郷と平貞盛の参戦によって戦局は変化する。そして、天慶三年二月一四日に将門は流れ矢に当たり死亡した。その後首は京へ送られ、梟首された。
天慶の乱は延喜天暦の治といわる時代の間で起こった。この時代は平和で文化が『延喜式』や『古今和歌集』などができ、王朝文化が華開いたとされる時代であるが、それは平安京の中の内裏のみであり、各地で小規模の騒乱が起こるなど内裏の外は混乱に満ちていた。この混乱した時代に将門は一族と争い、朝廷に叛旗を翻すことになるのである。
将門の朝廷に対する叛乱は鎮圧され、将門の負けに終ったが、乱の後様々な伝説を今日に伝えており、その伝説は関東地方を中心に広く分布している。
平将門の伝説をおおまかに分類すると、将門の首に関する伝説、首なし武者の伝説、怨念に関する伝説、影武者の伝説、菅原道真との関連する伝説、寵妃桔梗の伝説、地蔵の伝説となる。また将門に関連する伝説として俵藤太の伝説も数えられる。
秩父の椋神社の伝説や、御伽草子や謡曲、歌舞伎、浄瑠璃などに題材を与えて文芸としても伝説が伝えられている。また、今日に到っても平将門を題材にした小説などが書かれている。
江戸に封入した徳川氏は朝敵とされていた将門にも寛容であり、家康などは将門に対する畏敬念が特に深かったといわれている。将門の末裔である相馬氏も将門の旧領に細々と生きていたが、家康が領主に取立てたことが『遊歴雑記』にも記されている。
江戸の庶民にも将門は受けがよく、浄瑠璃をはじめとする芸能、黄表紙や読本といった文芸として浸透していた。上方でも江戸程ではないにしろ、浄瑠璃や歌舞伎の上演は沢山あった。上方の浄瑠璃作家として近松門左衛門も将門を題材に台本を書いている。庶民にとって将門は英雄であり、御霊であった。朝敵の怨霊ではなかったのである。十方庵も江戸の民として将門に親しみを持っていたから守谷の城跡を訪れたのであろう。
現在でも、東京都内に限っても平将門を祀っている神社は神田明神をはじめとして多数存在する。大手町の首塚や、日本橋の兜神社にみられるように、将門の体が五つに切断され各地に分散したとも云われており、それぞれを祀った神社や塚などが方々に存在する。
四編巻上第貳拾五に将門の伝説が一つ取上げられている。守谷の城跡から更に南、妙見山という松山があり、東側の崖に三本の杉の木があった。役に立ちそうなので伐採する事になり、過ぎの木を切り始めると切り口から血を流したという。それでも豪気な樵が三本とも切倒してしまった。樵たち八九人はその夜から発病し、三日程で皆死んでしまった。また、伐採に関った者数十名も皆それぞれ病をかかえて死んでいった。その杉の木は将門の愛樹であったのであろうと、それ以来妙見山の他の木も伐採していないという。十方庵が訪れる五十年程前の話であるという。
将門に関る物を破壊して祟られたという話である。これに類する話は近代に入っても語られている。大手町という東京の中心での話である。関東大震災で将門の首塚が壊れ、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられ、工事関係者や大臣が二年間で十四人も死亡するという事件が起こり、将門の祟りであるという噂がまことしやかに流れた。そこで昭和二年に神田明神の宮司を招いて盛大に将門鎮魂祭を執り行い、ようやく大蔵省内の不安を取り除く事ができたという。
『遊歴雑記』に採集された話は祟りの話であるが、この将門の霊はなんであろうか。御霊の愛した木を伐採した咎なのか、怨念に拠るものか定かではないが、神の持物に人間が手をだして、祟られたというのであるから、恐くは御霊であろう。この辺からも当時の将門に対する畏敬の念が推量ることができる。神田明神の賑わいや、首塚も未だ線香が絶えず、将門に対する信仰は現在でも活きている。小説等文芸の世界でも未だに題材として取上げられるなど、将門は江戸の頃程ではないにしろ、今も変らず人びとに親しまれているのである。
梶原正昭・矢代和夫著 『将門伝説』 昭和五〇年一二月三〇日 新読書社
梶原正昭訳注 東洋文庫『将門記』二 昭和五一年七月一四日 平凡社
福田豊彦著 岩波新書『平将門の乱』 昭和五六年九月二一日
黒板勝美編 国史大系第十一巻『日本紀略後編・百錬抄』 昭和四〇年八月三一日 吉川弘文館