斎王(大来皇女)の足跡を訪ねて



  2001年2月10日(土)〜2月12日(月)
    この3日間、斎王(特に大来皇女)が最愛の弟である大津皇子が処刑された後に、飛鳥に帰っていった道を歩い
   てみようと思い立ち、伊勢市ー松阪市ー青山町ー名張市を旅してきました。
    この松阪から一志、川口、阿保、名張、都介、そして飛鳥への道は、後年(6世紀後半以降)斎王達が凶事により、
   斎王の任を解かれ都に帰っていく道となっています。 はっきりとした理由は分かりませんが、私の想像では、この
   大来皇女が父親である天武天皇の死、同母弟(大田皇女が母親)である大津皇子の死という状況での帰京路が、
   凶事による帰京路とされた可能性が高いのではないかと思っています。
   (詳しくは、斎宮歴史博物館のHPを参考にされるか、問合せをしてみてください。)
   斎宮歴史博物館ホームページ   

「斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性
のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、 
勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢
に遣わしたことに始まる。                                                   
 以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀
った倭姫  命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。                    
制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経
て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外
は一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも
許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を
解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。」                             

2001年2月10日(土)
 明和町の斎宮歴史博物館訪問
    この日は、近鉄名古屋発の特急に乗り、松阪で下車。 そして普通電車に乗り換え3駅伊勢よりの斎宮
   駅で下車。 天気は良いが、風が強くものすごく寒い。 斎宮駅から歩いて10から15分ほど。
   駅前には、いつきのみや歴史体験館があり、十二単(じゅうにひとえ)や直衣(のうし)の試着体験、天皇
   や斎王の乗り物であった葱華輦(そうかれん)に乗ってみたり、盤双六(ばんすごろく)や貝覆い(かいお
   おい)などの古代の遊びに挑戦できたり、桃の節供や七草粥づくりなど平安時代年中行事の復元体験
   や、機織りや草木染め、火起こしなど古代の技術・文化が体験できます。
    また、この地域一帯は国史跡斎宮跡となっており、斎宮跡の発掘調査も行なわれ、来年には当時の斎
   宮の1/10のサイズでの復元がなされるそうです。 そして毎年6月には斎王祭りが開かれ、斎王群行の
   再現パレードを行なっています。 (自信のある方は、斎王役に応募してはどうですか。  一般募集してい
   ます)

  

        ちょうどこの時期は、斎宮跡の碑の前のアヤメの花がとてもきれいに咲き誇っていますので、一見の
      価値は有ります。  ちょっと横道にそれましたので、元に戻ります。
        寒風をついて斎宮歴史博物館に到着。斎宮歴史博物館は展示スペースが3つ(うち1つは特別展示の
      際に使用)と映像スペースが1つと簡単な資料室が有ります。
      今回の目的が78SP荒井さんの『 大来皇女の足跡を知りたい 』ということであったので、早速学芸員さん
      に質問をしました。
        この博物館は斎宮自体や当時の斎宮での生活ぶりなどの展示が中心であるので、一人一人の斎王に
      関しては資料などを詳しく作成はしていないし、また大来皇女についての足跡を示す資料はないのですが、
      という前置きのもと色々情報をお聞きしました。
      私が質問したのは、大来皇女が斎王の任を解かれた後、どのようにして飛鳥(藤原京)に戻っていったか、
      ということでした。 これに対し、大来皇女が帰京していった道は記録には残っていないが、おそらく6世紀
      後半以降に確定した、凶事の際の群行路(一志、川口、阿保、名張、都介)であろうということでした。




       斎王が群行の際に宿泊をする場所が「頓宮」と呼ばれているのですが、一志、川口、阿保、都介にはその
       頓宮が有ったということです。いずれの場所の伝承地となっており、調査が行なわれていないため本当に
       そこに頓宮が有ったかどうかは分からないとのことです。(発掘するための予算が付かないのでしょうね)
       1日でその頓宮跡を回ってみたいのですが、というと「車を使わないのであれば川口と阿保ですかね。」と
       いうことで、住宅地図のコピーを頂いてしまいました。川口は白山町のJR名松線 関ノ宮駅のそば、阿保
       は青山町の近鉄大阪線 青山町駅から歩いて15分ぐらいの距離でしょうか。
         それと説明していただいた方からもうひとつ、
       「大津皇子が大来皇女に会いに来た、という記述が有りますが、どうもその時がはじめてではないと思い
        ます。なぜなら、この時期は大津皇子は監視をされており、皇子自身も分かっているはずですから昼間
        は移動しないと思うんです。 となると、当時の道は分かりづらいですから、何度も来ていないと夜間に間
        違えずに移動するなんて考えられないですよ。 絶対何度か会いに来ているはずです。」
       というような興味深いことも聴かせていただきました。
 
        この後、「斎宮歴史博物館 総合案内」と「斎王群行と伊勢への旅」の書籍を購入し(1700円)、併設す
       る喫茶室で昼食を済ませ(1050円)、明日の群行路めぐりにおもいを馳せ、斎宮歴史博物館を後にし、一
       路宿泊先の伊勢に向かいました。  でもこの書籍購入や昼食がこの旅を左右するようなことになろうとは
       思いませんでした。

     

松阪方面  伊勢方面




         本当は斎宮歴史博物館を出た時間が13時ぐらいであったので、松阪に戻り、松阪牛のステーキ、いや
        ホルモンを食べようかと思ったのですが(自宅を出てくる時も、今日は松阪牛の焼肉だぁー。 と意気込ん
        でいたのですが)、なぜか伊勢市の角屋麦酒蔵に寄りたくなり、宇治山田行きの近鉄に飛び乗りました。
         でもこれが不幸中の幸いであったのです。 伊勢市に着くとすぐ銀行に向かいました。
        角屋麦酒蔵ではいつも4000円近く地ビールと料理を食べるので、明日以降の交通費も含めて2万円ほ
        ど引き出そうとしたのです。
        ところが銀行行って真っ青、銀行のカードを忘れてきていたのです。 持っていたクレジットカードもキャッシ
        ングの機能のないもので、財布にはもう8000円しか残っていません。 帰りの名古屋からの新幹線の切符
        は既に購入していたのと、ホテルはクレジットカードが効くのでいいのですが、群行路跡を回ろうと思ってい
        た交通費と食費を考えると、腹を空かして群行路跡を回るか、食べるものは食べて群行路跡をまわるのを
        諦めるか、2つに1つの状況に陥りました。 なんてこったい!! (TOMさんならOh My God!!でしょうか)
        しかし、捨てる神有れば拾う神あり、ここは天照大神のひざどころ。なんと近畿日本ツーリストが土曜日なの
        に開いていました。
          これはカードが使える。 交通費はすべてカードだぁ!! と喜び勇んで、ゲートをくぐりました。
        近鉄は今年の2月1日より普通乗車券での途中下車を認めなくなったので、降りる場所毎に切符を買わなけ
        ればなりません。 300円だの500円だのという切符を5、6枚それも支払はリボ払いのDCカード2。
        こんな額面の小さい切符をカードで買う人なんて普通はいないのでしょうね。 まあ、こちらはお客様ですから
        例え100円200円でも切符は売ってくれるのでしょうが、内心向こうはどう思っていたのでしょうか。
        だって別な出入り口を一歩でれば、すぐそこに近鉄の窓口や自販機が有るのですから。
        何も近鉄の切符を近畿日本ツーリストで買わなくてもいいはずなのです。 でも私には現金がないのですから
        いたしかた有りません。
        まあこれで、3食分のお金と、群行路跡を回る切符は手に入れることができたので、まずは一安心でした。
        でも、角屋麦酒蔵と伊勢土産を買うことは諦めざる終えませんでした。 夜はコンビニ弁当と発泡酒で済ませ
        ました。 本当なら、松阪牛、地ビール、豪華な料理が食べられたはずなのになぁー。


      2月11日(日) 名張 夏見廃寺跡(昌福寺)
      朝9時30分頃の近鉄特急で一路名張へ出発です。
      名張には、上の群行路でも示したように頓宮は有りません。 青山町の阿保頓宮のつぎは奈良の都介頓宮と
      なっています。 でも休憩するくらいの場所はあったとは思っていますが。
      今回、この夏見廃寺跡(昌福寺)を訪れたのは、この寺が大来皇女が建立した寺とされているからです。
      その証拠は醍醐寺本薬師寺縁起に、
        「大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。
         夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」
      と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています。 ここで、浄(御)原天皇は父親である
      天武天皇のことです。 本当のことは分かりませんが、表向きは父親である天武天皇の菩提を弔うために建立
      したことになっていますが、実は弟の大津皇子のために建立したのではないかとされています。 その証拠に、
      私は確認できなかったのですが、この名張市夏見から二上山が見えるということです。
        10時半ごろ名張駅に到着、夏見廃寺のある夏見まで25分ぐらいの距離です。 場所は小高い名張市の
      中央公園の一角にあり、小さいながらも展示館が併設されています。(入場料200円)


                                    



   展示館の展示内容は、大来皇女に関する説明
   と復元金堂を始め、各種の出土品の展示です。
   あまり大きな施設ではないのですが、ひとつの
   廃寺跡に対して展示館があるというのは、逆に
   いうとすごいことなのかも知れません。
   30分ほど、壬申の乱のアニメビデオと展示内容
   を見学した後、実際の廃寺跡に向いました。
    展示館の裏側に70m四方の土塁で囲まれた
   ちょっとした斜面に礎石跡があります(左図参照)

   あまり大きくない様な気がしましたが、実際に建
   物が建っていれば結構な大きさの伽藍になるの
   かも知れません。
    結構風が強く、寒さに震えるぐらいでしたので、
   十分に大来皇女の気持ちを推し量るという余裕が
   もてず、名張駅に戻ることにしました。
    名張には、郷土資料館もありますので、また名
   張を訪れる際には寄ってみたいと思います。















     青山町阿保 阿保頓宮跡
     名張を後にして、次に向かったのは青山町にある阿保頓宮跡です。 頓宮跡は何れも、伝承地となっているた
    め、この阿保頓宮跡も本当であるかはわかりません。 ただし、阿保に頓宮があったことは名前に残っているの
    ですから間違いはないのでしょう。


   場所は、青山町駅から南へ1kmほど、
   県道29号線を挟んで阿保親王の墓
   (古墳)の反対側の小高い丘というか
   山の中にあります。(左図参照)
    この阿保親王とは平城天皇の皇子
   で、在原業平の父君ということです。
    脱線ついでに、この阿保親王の墓は
   兵庫県芦屋市や大阪府松原市にもあ
   るそうです。
   この阿保頓宮跡に行く入り口は、何も
   看板もありませんし、立派な道がつい
   ているわけではありません。
   (昔は看板があったそうですが、朽ちて
   しまったとのことです。 斎宮歴史博物
   館学芸委員談)
   道路のそばの山肌を見ると、なにやら
   幅60cmほどの階段らしきものが落ち
 

     葉や雑草の中にあるのが見えましたが(ちょうど、阿保親王の墓の参道と県道を挟む反対側ぐらいのところ)、
     実はそこが入り口の階段だったのです。 こんな様子を見れば、他の頓宮跡の扱いも見えてくるようですが。
     その狭いちょっと急な階段を上り、上りきったところを右に曲がると、平坦なくぼ地に出ますが、ここに阿保頓
     宮跡の碑が立っていました。
     たまには、草刈をされているのでしょうから、広場的な場所が確保されているのでしょうが、それも行われなけ
     れば熊笹や雑草で覆われてしまい、とても人が入れるような場所ではないのが、この場所に立ってみて感じた
     ことです。
     この広場の大きさは幅15m、奥行き20mぐらいでしょうか。 建物が建てられない広さではないでしょうが、
     そんなに多くの人が宿泊できる場所ではなさそうです。 ですから、斎王とその近習の者だけの建物かと思い
     ます。 それ以外の随行者は別な場所に宿泊したのだと思われます。
     いずれにしても、この場所が本当に頓宮跡ということは確定しているわけではないということだけは頭に入れて
     おくことは必要ですが。

      次にもうひとつの頓宮跡である白山町の川口頓宮を目指そうかと思いましたが、移動手段を鉄道に頼ってい
     る私にとっては、松阪にいったん戻り、JR名松線に乗り換え関ノ宮駅に向かわねばならないのですが、青山町
     から松阪まで出る近鉄の本数があまりないことと、JR名松線も本数がないため明るいうちに、川口頓宮跡まで
     いけるかどうか心配になりましたので、今回はあきらめることとし、次回、暖かくなってからまた挑戦することにし、
     この日は宿泊先の伊勢に戻ることとしました。

      この日は歩いた距離からすれば5km程度ですが、やはり寒風の中を歩いたせいで、結構疲れてしまいました。
     その分、ホテルに帰ってからは結構早く寝てしまいました。 

     2月12日(月)伊勢市 伊勢神宮参拝
     伊勢神宮は私がここ8年ほど、興味を持って訪れている場所です。 伊勢神宮のお祭りがある都度足を運んだり、
     摂社末社までを合わせた125社参りを行なったりと、ピーク時にはほぼ毎月といっていいほど訪れている場所で
     す。     今年に入ってもこれで3回目の伊勢となっているのですが、実はまだ伊勢神宮参拝をしていなかった
     のです。
       1回目は1月14、15日です。1月13日は、あすか会議室第2回総会(宴会)で飛鳥資料館にお邪魔していま
     したので、メインは明日香村ということで、伊勢は宿泊のみでした。 14日は雪の明日香を見て(といっても寒すぎ
     て途中断念)、伊勢に直行でした。 明日香から伊勢までは近鉄特急を使っても、乗り継ぎが良くないと2時間は
     たっぷりかかってしまうので、伊勢についたのは午後2時過ぎ、外宮・内宮両社をゆっくり参拝する時間はないと
     判断し、角屋麦酒蔵へ直行し、これで伊勢の予定はおしまい。(実は翌週再度訪れるのがわかっていたのでこう
     したのですが、そうでなければ無理しても参拝をしていたはずです)
       2回目は1月20日、21日です。 これは伊勢にて行われた「伊勢文化フォーラム」に参加するためです。
     1月20日のフォーラムはお昼から夕方までのイベントでした。 ですから当時の参拝は無理で、翌日帰る前に
     と思っていたのですが、突然の 大雪と発熱のため、翌日は横浜に帰ってくることで精一杯で、参拝はできませ
     んでした。
       3回目は今回なのですが、お金がそこをついてしまったので、内宮まで往復する交通費(820円)とお賽銭
     分が全くなかったので、外宮だけの参拝となってしまいました。
     こんなにも、何か抜けているというか、ついていないというのははじめてです。
     今回は、お金がなかったというのも大きな理由なのですが、カレンダー上の理由にもよって伊勢参拝が二の次
     になってしまった格好になっています。
     というのは、2月11日(日)には「建国記念祭」が伊勢神宮で行なわれたのですが、これを見学すると、1日のう
     ちのお昼ごろの時間が取られてしまうため、当日の行動範囲が伊勢近辺の限られた範囲に限定され、名張まで
     なんてとても行っている時間はなくなります。 それと今回の主目的は斎王の足跡を訪ねることであったので、旅
     に出発する前から、伊勢神宮参拝は最終日としたわけです。
     
       外宮は近鉄宇治山田駅あるいはJR・近鉄 伊勢市駅から歩いて10分ほどの所に有ります。(内宮を参拝する
     にはバスに15分ほど乗らなければなりませんが)
     今年の1月より、外宮の神楽殿が立て直され新しくなって参拝客を迎えられるようになりました。
     2年ほどまえの台風により、旧神楽殿の屋根も被害を受け、また建てられてからかなりの年数も経っており、かつ
     手狭になっていることもあって、建替えされることになり、1年以上も仮の神楽殿であったのですが、このたび、建
     替えが終り、銅葺の屋根が輝く神楽殿へと替わったわけです。
      外宮では私が参拝する社は、正宮・多賀宮・風宮・土宮の4つです。その他にも、外宮には一般の人が参拝可
     能できちんとしたお社が有るのは(と書いたのは、岩が神体となっているものも有りますし。一般の方が参拝不可
     能な社も有るからです)、3つほどありますが、通常の参拝順路からは外れてしまいます。
     私もその3つは125社参りをした時にお参りさせていただいただけです。
      神妙に、まず正宮にお参りし、日頃の感謝、参拝できたことへの感謝、などなどを祈念し、次に高台にある多賀
     宮へ参拝(多賀宮へ行くには、亀石という岩の橋を渡ります。大きさは3m×1mぐらいで、長いほうの辺が亀の
     頭としっぽになっており、この亀の背中を横断する形になります。また、多賀宮へ行く階段を上りきって右に曲が
     り、10mほど行くと地蔵岩というお地蔵さんの形をした岩が有ります。参道に寝た様な格好で岩が飛び出してい
     るだけですので、大半の人が気づかずに通り過ぎるようです)し同様の祈念を行ない、階段を下って、土宮、風
     宮の順で参拝を行ない、外宮の参拝は終了しました。
      風宮に関してエピソードをひとつ。 風宮は別宮という格付けとなっています。 伊勢神宮のは、内宮、外宮の両
     正宮の下に別宮があり、更にその下に摂社、末社があり、あわせて合計125社存在しています。
     この風宮は初めから別宮であったわけではなく、元寇の際に神風を吹かせた功により別宮に昇格したということ
     です。
      不思議なものついでにもうひとつ、内宮にも有るのですが、外宮には風宮と亀石の間の参道脇に夏みかん(?)
     の木が有ることです。ちょうど黄色に色づいた果実が2,3個なっていました。これも気が付いてみている人がどれ
     だけいるでしょうか。
      また、残念だったのは毎年年初には楠の一刀彫りで作った干支の置物を伊勢神宮で初穂料を納めて拝領して
     いるのですが、
        (ここで、横道にそれまして。 神社ではお守りなどは、売っているのではなく、あくまで初穂料を納めそれに
         対する下賜という形を取っていますので、巫女さんが「毎度有り難うございます」という言葉をしゃべるのは
         ご法度だそうです。 確かにお守りを買って(いや頂いて)、巫女さんから「何にいたしましょう」とか「毎度あ
         りがとうございます」なんて言葉は聞いたことが有りません)
     今年はもう置いてありませんでした。 6年連続で手に入れていたので次の「蛇」の置物は12年後になってしまい
     ます。
     本当に無理しても今年1回目の伊勢訪問の時に手にいれておけばよかったと今更ながら悔やんでいます。

     内宮まで行くお金と時間も無くなりましたので、あとは帰宅するだけです。
     近鉄宇治山田駅から名古屋行きの特急にのり約1時間半、そのままJRのほうに連絡して名古屋始発のこだまで
     約3時間で新横浜へ。 新横浜からJR横浜線で桜木町まで10分、桜木町からJR根岸線で山手まで10分。そこ
     から歩いて10分で自宅到着です。
       ここで、なぜ「ひかり」に乗らず「こだま」なのかというと、結局は混むのが嫌いということだと思います。
     (行きの場合は、到着時間優先ですから「ひかり」を利用しますが)
     名古屋始発であるということと、遅いということで余り人は乗ってきません。 そして乗る場所も1号車の再後部の2
     人がけの窓際と決めています。 各駅停車で行きますから、駅やその回りの様子が見れて面白いです。
     行きの場合はほとんど回りの景色を見る余裕はないのですが、帰りは目的を達成したことで回りを見る余裕も生
     まれますので、いろんな意味も含めて毎時55分発の名古屋始発の「こだま」を利用しています。

       これで、3日間の旅行記は終了しますが、今度はデジカメを持っていって旅行記のページを写真でいっぱいに
     したいと思っています(今回は他からの引用ばっかりでしたので)。


      おしまいです!!
      ここまで読んでくださりありがとうございました。



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