2002年8月4日 三重県松阪市 中万
松阪駅前からバスで20分、射和地区に到着します。
上記の地図は松阪市観光協会殿より引用いたしました。
ここに記された場所を全て歩いたわけではありませんが、射和寺からスタートし、東の聖徳寺まで
そこから戻って、西の延命寺までが、歩いたコースとなります。
暑い時期でしたので、正味2時間ほどの散策でした。
松阪市観光協会
スタートの射和寺跡です。今はお堂である大日堂だけが残っている状態です。
このあたりは北畠氏の所領であった地域ということです。
、国宝の延命地蔵があると案内板にはかかれてありましたが、このお堂の中にあるのか、
隣にあった収蔵庫のような建物の中にあるかはわかりませんでした。
この射和寺跡の東側には蓮生寺があります。このお寺の開基は聖徳太子と伝えられています。
鎌倉時代には般若院と号して曹洞宗に属していました。その後火災にあい堂宇を焼失しますが、
室町時代の真盛上人に再建され、寺号も現在の名称となり天台宗に属しています。
国道42号線の下をくぐって東側に出ます。道の右側には櫛田側の土手が続きます。
そんな中でお堂を見つけました。お堂の隣には民家がありましたので、この民家の方が
このお堂を守っておられるのだと思います。額に書かれた字がわかりづらかった
ので名称はわかりませんでした。
このお堂を過ぎて東に向かうメインストリートを歩いていくと、黒々とした「きざみ囲い」の
町並みが続きます。なんか由緒ある格式の高さを感じてしまいました。
やはり伊勢商人を輩出した場所柄ということなのでしょうか。
できるだけ保存していってほしいものです。
左の立派な門構えのお屋敷は竹口家(中万文庫)です。
公開をしているのかも知れませんが、門が閉まっておりましたので外からの写真だけと
させていただきました。「ちくまみそ」などの製品で有名だそうです。
右は心光寺です。由緒があるお寺かも知れませんが、建築は結構最近かと思われます。
ここは今回一番行きたかった場所です。「太子山 聖徳寺」です。その名前の通り聖徳太子ゆかりの寺です。
ここには、大工道具で書かれた「南無阿弥陀仏」の掛け軸や「地獄曼荼羅」が存在しています。
また「人食い鬼」の墓があります。それと言われる墓がありましたが墓石を撮影するのは止めましたが。
伝説では次のように言われています。
その昔、中万市の日に毎年子供が一人行方不明になった。ある年の市の夜、居酒屋で一人で酒を飲んでいる
大男がいた。男の胸元から赤子の腕が見えた。男はこれを肴に一杯やっていたのだ。気付いた村人たちは、
大男が酒に酔いつぶれるのを見計らって、店から家財を運び出し、家に火をつけて焼き殺してしまった。
憎き鬼といえども死ねば仏。鬼の墓を河原に立て、後々までも供養したという。
聖徳寺の境内です。本堂と鐘楼です。本当は上で述べた掛け軸を見せてもらいたい気持ちもありましたが、
突然訪れてのお願いも失礼と思い、今回はあきらめました。
本堂と家屋の間の廊下に赤ん坊が昼寝をしておりました。ちょうど天気も時間もお昼寝日よりでした。
さて、道を引き返して今度は射和地区の西側です。左の写真は國分家(右)と竹川家(左)です。
國分家は江戸時代「大黒屋」と称した「亀甲大」印の醤油を商った豪商です。
今もかんづめや食料品で有名なんだそうです。
竹川家は江戸末期の経世家竹川竹斎が、国内の文献を集めて開設した私立図書館。射和文庫といわれています。
旧国道42号線を越え西に行くと、まず真宗大谷派の「本宗寺」があります。(写真左)
そこからまた少し西に行くと「伊馥寺」があります。(写真右)浄土宗に属し、延命寺と並立しており、正面を
櫛田川岸にあけ、高い石垣を築いています。寺の歴代記によると本堂は延宝8年に建立供養を行っています。
また、表門は延宝4年の建物であり、庫裏、方丈、書院も17世紀後半代の建立になります。
このような伽藍の整備には射和の豪商富山家が深く関わっています。
同じく「伊馥寺」です。写真右の山門はまさに櫛田川に向かって開いています。
街道側に開いていないのはなぜでしょうか。やはり当時の水運と関係があるのでしょうか。
「伊馥寺」の山門を下ると、左方向(西方向)に参道が続いています。草が刈られていたので道と
わかりましたが、そうでなければ道とは思えなかったかも知れません。
こちらのお寺「延命寺」も山門は川に向かって開いていました。
山門の上にある額には「戴龍山」とかかれていました。「龍を戴く」とはすごいお寺ですね。
この山門は和様の伝統的な手法を見せる四脚門で、市内最古の建物ということです。