京都2003年8月

8月に入ったとたんに暑くなってしまいました。ここ京都も例外ではありませんでした。
訪れたのは8月3日。蝉時雨の京都を上御霊神社から河合神社までと、
おまけに四条大橋からの鴨川の風景をお届けします。


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地下鉄を鞍馬口駅で下車。上御霊神社に向かいます。写真左は猿田彦神社です。
猿田彦神というと道開きの神様として知られていますね。(ちょっと逆光になりました)
写真右は上御霊神社入り口の鳥居と楼門です。



    

相国寺の北にあるこの神社は平安遷都の折りに非業の死をとげた早良親王(さわら)の御霊を鎮める
ために桓武天皇の勅願により御霊を祀る社とされました。のちに光仁天皇殺害の容疑で投獄された
井上内親王、謀反を企てた首謀者として捕らえられ伊豆に流された橘逸勢(はやなり)らいずれも
無念の死を遂げた8人の神霊を合祀し、祭神八所御霊とされました。
また応仁元年(1467)ここに陣を敷いた畠山政長と義就の合戦が起こり、これが応仁の乱の発端となり
ました。鳥居のそばに「応仁の乱発祥の地」の碑が建っています。古社の風格漂う閑静な神社です。



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次は西園寺です。西園寺という名の由来は、 鎌倉時代、太政大臣藤原公経が北山に西園寺を創立し、
その寺の名が一族を表す名前となったということです。もともとは北山にあったのですが、室町幕府
第3代将軍足利義満により、その場所を所望されたので(今の金閣寺)、この場所に移ってきたという
ことです。写真左は境内内にあった地蔵堂です。お地蔵様の背景の壁には、地獄と極楽の様子が
描かれているということですが、薄暗くてよくわかりませんでした。写真でもわかりづらいと思います。




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こちらは天寧寺です。寺町鞍馬口を南にそこに東側にこのお寺はあります。
この寺は、庭からではなく、門前から比叡山を眺めることになります。
山門の向こうには、普通なんらかの建築物が見える場合が多いものですが、この寺の本堂は、
門を入って左に折れたところにあるもので、山門のまっすぐ向こうは、寺のはるか外という光景になります。
この山門は別名「額縁門」と呼ばれているようです。



    

その額縁門の画像です。写真右はそのクローズアップで、中央棕櫚の木の背景にあるのが比叡山です。



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こちらは阿弥陀寺です。写真左の石柱には織田信長公本廟と刻まれていますいます。
本能寺の変のとき信長公の遺体はみつからなかったと言われていますが、この寺には、
信長公と親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が遺骸を持ちかえって供養したという言い伝えがあり、
ゆえに阿弥陀寺は「織田信長公本廟」となっています。



     

阿弥陀寺の本堂に掲げられていた額です。「蓮台山」と書かれています。本堂横には小さな蓮池が
ありましたのでその写真を載せておきます。花は咲いていなかったので残念でしたが蕾の色から
赤い蓮なのでしょう。咲いているところを見たかったですね。



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写真左は十念寺です。なんとも洋風な感じのする建物なので思わず立ち止まってしまいました。
屋根のてっぺんには鳳凰が乗っており、わかりづらいかもしれませんが、中心の円筒形の部分から
四方に飛び出した屋根の先端には四天王(?)が立っているようです。
十念寺の解説によると、このお寺は華宮山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来は空海作といい、
「雍州府志」は恵心作とする。永享三年(1431)真阿(後亀山天皇皇子)に帰依した将軍足利義教が
誓願(現京都市中京区)寺中に一宇を建立したの起りで、当初宝樹院と号した。
宝樹院から十念寺への経過は明らかでないが、分明年中頃以前には十念寺となっていたことがわかる。
本堂には開基真阿像を安置し、一休筆と伝える紙本著色仏鬼軍絵巻一巻(国指定重要文化財、
京都国立博物館寄託)、足利将軍諸士念仏講名帳を蔵する。境内には豊臣秀吉に仕えた医師施薬院全宗、
儒医曲直瀬道三の墓がある。


写真右は仏陀寺です。十念寺の西洋風の建物を見た後だったので落ち着く感じがしました。
仏陀寺という名前にも惹かれるものがあったからかも知れません。
仏陀というと仏教の教祖であるお釈迦さまのことですよね。
本堂には重要文化財の阿弥陀如来坐像が安置されています。



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寺町での最後は本満寺です。相国寺の東に位置する日蓮宗の寺。「本願満足寺」と号していましたが、
現在の寺号はその略称です。 山内山中鹿之助の墓があり、また開山の愛用の品と伝えられる夢を
食うという「獏」の像が什宝として保蔵されています。



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さて最後に訪れたのは下鴨神社の摂社である河合神社です。(写真左)
ちょうど式年遷宮のために、仮殿(写真左中央奥)に御遷座されていて本殿は足場が組まれ工事中でした。

河合神社は鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社と云うのが正しい名前です。
今は下鴨神社の摂社となっていますが、平安時代の延喜の制では名神大社に列せられる名社です。
小社宅(おこそやけ)とは社戸(こそべ)のことで、世襲制をもって神に仕える人々、その形態のことをさします。

河合神社にはゆかりの鴨長明の方丈が復元展示されています。鴨長明の歌に
「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてやすむ」
とあり、この瀬見の小川が今も河合神社の東側を流れています。

復元された方丈は一丈四方の、約五畳半の広さです。間口、奥行きともに一丈四方で
あるところから「方丈」と云われます。鴨長明と云えば「方丈記」が有名ですが、
その方丈にあって書かれたのが「方丈記」と云うことになります。

鴨長明は久寿二年(1155)、河合神社禰宜長継の次男として泉の館に生まれます。
七歳の時には神職に就いたと云いますから、神社との関わりはそれなりにあったようです


写真右は、河合神社の楼門と向かい合うように鎮座する三井社です。
そんなに大きくはなく、高さは大人の背丈ほどでしょうか。
お社の説明には「重要文化財申請社殿」となっており、 通称 三塚社と呼ばれています。
 御祭神  中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
 西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
 東社   玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)

 古い時代の下鴨神社は、古代山代国愛宕、葛野郷を領有していました。
その里には、下鴨神社の分霊社がまつられていました。
この社は、鴨社蓼倉郷の総(祖)社としてまつられていた神社である。




    

最後に、涼しく鴨川の流れを見ていただきましょう。四条大橋から北の方向をみたら、なんか能舞台
のような特設舞台が作られていました。どんな催しだったのかは確認しませんでした。そばまで行ってみれば
よかったのでしょうか。でも暑くてそこまで考える余裕はありませんでした。



    

能舞台のズームアップです。紫色の屋根も印象的ですね。
写真右は京都夏の風物詩である川床です。
一度こういうところで食事をしながら京都の黄昏時を楽しんでみたいですね。


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