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さてJR高茶屋から再びスタートです。JR紀勢本線の線路を渡り、田んぼの中を通る道を南に進みます。
この辺りは雲出島貫町です。家屋はこの街道沿いにのみ点在し、街道から外れるとそこは田んぼか畑地
となっています。家並みを目標に歩けば街道から外れることがないので安心して歩くことができます。
ただ日差しを遮るものがないので炎天下で歩くとしたら大変です。この日は晴れたり曇ったりという天気
だったので、熱中病になる心配はなかったのが何よりでした。
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JR高茶屋駅を出発して約2キロ弱、伊勢街道の名残を見つけられずにいたところへ
大きな石柱が目に入ってきました(写真左)。明治天皇がここ島貫で休憩を取られた
場所跡ということです。明治天皇は天皇として初めて伊勢神宮に参拝された天皇
であるので、そのときに伊勢街道を通られてここで休憩されたのでしょうか。
伊勢街道は土手にぶつかりました。雲出川に突き当たりました。雲出川は、
その昔、南朝と北朝の境で、橋はなく小野古江(おののふるえ)の渡しと呼ばれ船
で往来していました。雲出川は三重県下で櫛田川、宮川と並ぶ大きな川です。
雲出川に架かる雲出橋を渡った先(写真左)と渡る手前(写真右)にそれぞれ常夜燈が見えました。
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雲出橋を渡る手前には雲出島貫の常夜燈がありました。写真右は説明書きです。
見づらいと思いますので、その内容を以下に記します。
伊勢街道の雲出島貫の宿は雲出川の渡しをひかえ、参宮客で賑わう宿であった。当時の絵図を見ると、
街道の両側に民家や宿屋が建ち並び、水路があちこちで道を横切っており、中心部には本陣、その近く
には高札場があった。堤防下の毘沙門堂の境内には「島貫の松」(県の天然記念物に指定されていたが、
伊勢湾台風後に枯れた。)があり、当時の旅人の目をなごませていた。江戸時代には、柏屋、魚屋、紀の国屋、
大和屋などの旅籠があり、昭和の初めごろまでは、津屋、京屋、大阪屋などが残っていたが、参宮鉄道
が敷設されたころから、宿の灯りが徐々に消え、今は本陣跡に「史蹟 明治天皇島貫御小休所址」の碑
と常夜燈がひっそりと残るのみである。
この常夜燈は、かつては渡し場口にあったもので、高さ4.6m、竿石には「奉献」 「天保五年甲午三月建」
と刻まれている。明和八年(1771)、天保元年(1830)などに、おかげ参りが全国的に流行し、その旅人
の安全や神宮への祈願のために多くの常夜燈が建てられた。常夜燈は、一般には、夜道の安全を確保
するために、一晩中、火をともしておく燈火のことで、とくに参宮道者のために建てられたものを「参宮
常夜燈」という。この島貫の常夜燈もそのひとつで、当時の風情をしのばせている。
島貫の常夜燈そばにあった伊勢街道の案内図です。案内板中央に雲出川が縦に描かれており、
右側にある入り江のような川が三渡川です。先はまだまだ長いです。
雲出橋より下流を眺めてみました(写真右)。遠くに見える赤い橋は雲出大橋です。川の中にある中州
あたりには以前橋が架けられていたそうです。ただ、車一台くらいしか通れない橋だったようです。
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雲出橋を渡ると松阪市に入りました。といっても平成の大合併以前は三雲町という町でした。
平成に入ってからの合併は貴重な市町村がなくなってしまい、残念な感じがします。
橋を渡りきるとそこにはまた常夜燈が置かれていました。寛政十二年(1800)に建立されたものです。
ここにも説明書きがありましたが、写真では読めないと思いますので内容を以下に記載します。
この常夜燈は、寛政12(1800)年に奉献されたもので、伊勢街道(参宮街道)西小野江(旧村名 須川村)
の渡し場にありました。幾度かの大地震で倒落しては、その都度、再建がなされました。近年では、昭和19
(1944)年の東南海大地震で倒壊し、火袋が補修されました。形状は宮立型(宮前型)で、高さ4.7メートル
、石材は花崗岩が使われており、奉献された頃の姿をそのまま今にとどめています。
常夜燈は、仏教とともに伝来した石灯籠の一つで、闇夜を照らすことから常夜燈といわれ、道中の安全を
守る役割も持っていました。石に大きく刻まれている「常夜燈」には、常に心の不浄を焼き払い家内安全
を祈るもので、神仏に帰依するために献燈することを意味しています。 常夜燈の奉献については、建立
する土地と献燈用の油代を賄う田を寄進し、地元で管理してきました。 石には西面の「常夜燈」の他に、
東面に「寛政十二龍集庚甲晩春穀旦」、北面「京都 講大坂屋 藤七」、南面「腰山市左衛門 藤忠三」
と銘文が刻まれています。この常夜燈は、当時の伊勢信仰を物語る大切な文化遺産です。
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小野江の街に入りました。蒸し暑さのせいか外を歩く人には出会いませんでした。
街に入って数分で石柱が目に入りました。北海道という名前の名付け親である松浦武四郎の生家です。
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800メートルほど南に歩き、小野江町の端にある金剛寺そばまで来たときに常夜燈を見つけました。
文政7年(1824)に建立されたものです。土台の石には「江戸」「乾物問屋中」という文字が刻まれて
いました。 現在は金剛寺西十字路に建っていますが、もとは北へ1.5キロの石垣の上に建っていた
そうです。江戸の商人が寄進したものなのでしょう。
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金剛寺から伊勢街道を南下すること約800メートル。交通量の多い県道を横切り、
住宅地の中に入ると、家の前に道標が現れました。文政4年(1821)に建立されたものです。
「旅神社 小舟江村是より三丁 右からすみち」と刻まれています。
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堀沿いに歩き進むと月本の追分にぶつかりました。ここは奈良街道と伊勢街道の分岐点です。
伊勢街道で最大の道標と大きな常夜燈が建っています。道標には「月本おいわけ」
「右いがご江なら道」と刻まれています。
常夜燈の下には、月本追分の説明が書かれていました。
昔の伊勢参宮街道は、四日市市日永の東海道の分岐点から分かれて、神戸、白子、津から月本を通り、
松阪、山田へと通じていました。また大阪、大和方面の旅人は長野峠を越える奈良街道を通り月本へと
出ました。 この二つの街道が合流したところが月本の追分で、ここには役人の常駐の立て場があり、
また旅人の宿る旅籠屋や支度店もたくさんあって大変賑わいました。 この追分には、街道で一番大きな
石の道標が建てられており、「右さんぐうみち」「右いがごえなら道」「左やまと七在所順道」と書かれています。
この銘文は、小津の中村正雅が書いたものです。また伊勢神宮へ奉献された高さ六メートル余の常夜燈
は、明治三年十一月に建てられたものです。
昭和六十三年に三重県指定文化財(史跡)に指定されています。
写真右は奈良街道方向を見たものです。大阪や奈良からの人々がこの道を通って伊勢に向ったのですね。
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月本の追分から約400メートル、また香良洲道との分岐点の道標が現れました。
御門橋北にある道標です。「右からす道」と刻まれています。
案内図には書いてなかったのですが道標と小ぶりの燈篭が現れました。御門橋から200メートルです。
これらは、前回の第61回式年遷宮を記念して地元の人が建てたもので、道標・常夜燈・山の神です。
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最後の香良洲道と伊勢街道の分岐の道標に行き当たりました。(写真左)先ほどの地点から200
メートルです。「右さんぐう道」と書かれています。特徴的なのは上部に丸い穴が開いていることです。
細長い常夜燈もなんか倒れそうですが建っています。
約600メートルとちょっと歩くと、JR六軒駅へ至る道(西へ300メートル)のところに常夜燈が現れました。
この常夜燈は結構新しく、明治45年に建立されたものです。明治の終わりごろ、鉄道の参宮線が開通
しても白装束姿の旅人は六軒駅で降り、この曲がり角を通って伊勢まで参宮したそうです。
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旧三雲町と旧松阪市の境を流れる三渡川までやってきました。三渡川は別名「泪川(涙川)」と
呼ばれました。中世に渡し口が三ヶ所あったため、三渡の名前が付けられてそうです。
涙川ということは、ここで別れを告げたのでしょうか。それとも伊勢の旅から戻る旅人が
伊勢路の旅を偲んでこの渡しを渡ったときに涙を流したのでしょうか。
三渡川を渡ると進行方向に向ってすぐ右側に常夜燈がありました。文政元年(1818)建立されたものです。
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常夜燈の反対側(写真左)には大きな道標が建っていました。ここは初瀬街道との分岐点です。
「大和七在所順道」「いがごへ追分」「やまとめぐりかうや道」と刻まれています。
初瀬街道は、初瀬(長谷)寺詣でを終えた参宮道者たちが、伊勢神宮を目指して通った信仰の道です。
現在の「伊勢街道」に合流する松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て初瀬(現奈良県櫻井市)へと
至ります。古くは「青山越」「阿保越」と親しまれていました。古代には壬申の乱の際、大海人皇子が名張に
至った道筋であり、斎王が都から伊勢へと赴いた道筋でした。
この三渡川を渡ってからの町並みは特徴的な黒塀が多くなりました。市場庄地区に入っています(写真右)
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ここ市場庄は全国的にも珍しいといわれる妻入り(つまいり)と連子格子(れんじこうし)の町並が残り、
当時の風情を漂わせています。市場庄地区では、地域住民による「格子戸の会」が、町並み保存活動を
行っています。30数年間空家だった建物を改修した「いちのや」を活動拠点に、郷土の歴史や伝承文化を
語り伝える学習会やイベントなども開催されているそうです。
ここで見つけたのは忘井乃道の道標です。「忘れ井」とは、斎王であった恂子内親王が一志頓宮のあたり
を通りかかった際、お付の女官・斎宮甲斐が詠んだ和歌「別れゆく 都のかたの 恋しきに いざ結び見む
忘れ井の水」(千載集)が残っています。現在、忘れ井の水は枯れてしまっていて跡だけが残るだけです。
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近鉄のガードをくぐり、市場庄町から久米町に入るところで、「格子戸の町並み案内」という看板が
目の前に現れました。現在地が赤いしるしのところです。この地区は本当に当時の伊勢街道の
様子を街ぐるみで残している場所だということがよく分かります。
伊勢街道が少し東に曲がるところ、写真左の案内板だと、赤い印のところから右に進んで、
最初に上(東)に曲がるところにぶつかりました。そこには、左から、道標、庚申堂、常夜燈、
行者堂、山ノ神二基、いおちかんのんの道標が並んで建っていました。道標には「左さんぐう道」
と刻まれています。常夜燈は嘉永5年(1853)江戸橋室町の人による建立です。
季節柄お彼岸の頃でしたので、田んぼのあぜ道は彼岸花でびっしりと埋め尽くされていました。
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久米の街道に入ると両側に黒塀の家並みが続きます。由緒ある家なのだと思い、写真左の左側
の入り口に続くわき道を入ると、立派なナマコ壁の門がありました。伊勢地方らしく注連飾り
が入り口に掛けられていました。「蘇民将来子孫家」と書かれた木札が飾りの真ん中にあります。
この門は舟木家長屋門といいます。舟木家は、南北朝時代から続く家柄で江戸時代には久米村惣庄屋、
津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士」としてお目見を許されるまでになっています。
屋敷への出入り口としてだけでなく、舟木家の格式を示すこの長屋門は、屋敷の南側に位置しています。
間取は、中央に出入り口を取り、向かって左側が侍部屋、右側が中間部屋として使われていました。
この長屋門は、寛政六(1794)年に建築され、天保五(1834)年に改修されたと伝えられています
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近鉄松ヶ崎駅を左に見て通り過ぎ、久米町から塚本町に入り、県道756号線の高架下をくぐり、
百々川に架かる塚本橋まで来たところで、常夜燈を見つけました。長屋門から約800メートルです。
この常夜燈は嘉永5年(1852)に建立されたものです。土台石には「紅林氏(?)」、「江戸日本橋」
と刻まれています。「氏」の字は頭に突き抜けているので「氏」ではないかも知れません。
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塚本橋からJR紀勢本線の踏み切りを渡り150メートルほど歩くと、仁王門が現れました。
この仁王門は薬師寺の本堂前にある山門となっています。唐様を基調として和様を混入した
造りとなっています。仁王門を入ると薬師寺本堂に至ります。この建物も唐様を基調として
和様を混入した建物で、承応2年(1653)の建築です。本尊の薬師如来坐像(平安後期の作)
は三重県の指定文化財となっています。しかし、屋根瓦を見ると歪んでいたり、浮いていたりして
きちんとした補修をしないと雨漏りなどがして大変なことになるのではと思ってしまいました。
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街道はいよいよ松阪の中心街に入って行きます。阪内川にかかる松阪大橋です。(写真左)
赤い欄干に青銅の擬宝珠(ぎぼし)があり、何か由緒が有る橋なのだと思います。
この橋を渡ると街の喧騒である自動車の音が大きくなり始め、交通量も次第に多くなって行きます。
松阪大橋を渡るとすぐに「松阪商人の館」(写真右)が有りました。「旧小津清左衛門家住宅」です。
天正16(1588)年、蒲生氏郷が開いた松阪の城下町は、江戸時代に商人の町として栄えました。
三井・小津・長谷川・長井・殿村などの豪商は江戸時代前期に、江戸・京・大阪に出店を構える
までになりました。 小津本家の当主は、代々清左衛門と襲名していました。3代目長弘が、
承応2(1653)年に紙店を開業し、創業の祖と呼ばれています。その後、紙業や繰綿を扱う
小津党第一の富商として成功していきました。松阪においては、数多い江戸店持ちの豪商の中でも
筆頭格にあげられ、宝暦5(1755)年に、紀州藩の御為替御用を命じられています。明治以降は、
紡績会社や郵便船会社などの経営を行い、現在でも、不動産業を中心に営業を続けているそうです。
そういえば、映画監督として有名な小津安二郎記念館も松阪に有ります。この小津家と関係が
有るのかもしれません。そこはちょっと調査不足です。
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「松阪商人の館」から100メートルちょっと行ったところに鉄格子の門で守られた立派な門がありました。
ここは、松阪商人の代表格として知られる三井家発祥の地です。松阪市の指定史跡となっています。
三井家は、三井財閥、そして「三越」の元祖です。元和8年(1622)、松阪に生まれた三井高利は、延宝元年(1673)
に江戸に越後屋呉服店を開店し、以後、江戸はもとより京都・大坂にも呉服店や両替店を営んだ豪商です。
大きな交差点に出ました。左に行けば(東方向)JR松阪駅、まっすぐ行けば伊勢、右に行けば(西方向)
和歌山に向う和歌山街道です。交差点に面した薬局の前に大きな道標が建っていました。
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伊勢街道と和歌山街道の分岐点を左に曲がり、今回の終着点であるJR松阪駅に到着しました
駅前には駅鈴をかたどった噴水がありました。なぜ噴水が鈴なのかというと、それは松阪が鈴に
縁の深い土地だからです。国学者本居宣長は鈴を愛して住居を鈴屋と号しました。また鈴屋学、
鈴屋門は学界では有名です。これ以外に、まだ町も無かった遠い上代の頃から、駅路鈴止
(馬に付いている鈴の音を止めた所)の地でした。つまり松阪は伊勢神宮、斎宮等の神宮と京都を
結ぶアクセスロード上にあり、神領の外堺となっていました。一方当時の交通手段は「馬」を乗り
継ぎましたが、官史が諸国に向かう時は朝廷から駅鈴と伝符を賜り、途上鈴を鳴らして官吏で
有ることを示し、駅家(うまや)では鈴と伝符を示し次の馬を徴用しました。しかし松阪は神の遠堺と
され、駅鈴の音を止め、身を清め、静々と神の領域に入っていきました。また同行者(案内人等)が
入っていくことは許されず、神宮より迎えに来た者と交代しました。ちなみに現在の駅部田町
(まえのへたちょう)は駅の部田(うまやのへた)が変じたもので、よいほモール商店街の歩道
にも馬問屋跡の標識が有ります。
次回はここ松阪を出発し、明和町の斎宮を目指すこととします。伊勢までの完歩達成を目指します。