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前回の四日市日永から鈴鹿までの伊勢街道の終着点の大灯篭が今回の出発点となります。
伊勢鉄道の鈴鹿駅方向に向けて東に歩き始めることとしましょう。目標は近鉄津駅です。
県道を渡って最初に目に入ったのが、矢崎神社です。式内社と書かれてありますから由緒のある
神社です。延長5年(927)に撰進され、康保4年(967)に施行された『延喜式』50巻のうち、巻第9
(神祇九、神名上)・巻第十(神祇十、神名下)の二巻が のちに「神名帳」と呼ばれるようにな
り、この中に、3132座の神社名が記載されており、この神社を延喜式内社あるいは式内社と
呼んでいます。千年以上の歴史が有るんですね。 鈴鹿マップその1
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伊勢鉄道の高架下を越え、国道23号線を横切り、国道に沿う形で南下します。
北玉垣町から東玉垣町に入り、南玉垣町に入りかける直前に神社があることに気付き立ち寄りました。
この神社は彌都加伎神社といい、式内社です。祭神は大土御祖神です。伊勢神宮外宮の別宮
である土宮の祭神と同じとなっています。今から約1250年程前、古来からこの土地に携わって生活
していた人たちが、山田原の御霊を海部村に勧請し、その後、村の中の清浄で村人たちが
集まりやすい中心地である現在の地に御遷座させたのがはじまりだといわれています。
彌都加伎神社」という社名は、905年(延喜5年)醍醐天皇の御世の頃からのもので、
それ以前は「土宮」、または「土御前」と呼ばれていたそうです。
更に南下すると、フジクラの鈴鹿工場にぶつかりました。約10万坪の敷地を持っています。
ここでは樹脂絶縁電力ケーブル、プラスチックケーブル、光ファイバ通信ケーブルが製造されています。
ツツジの綺麗なピンク色が迎えてくれました。 鈴鹿マップその2
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フジクラ鈴鹿工場を後にして更に南下します。江島という地区に入ります。
実際は北江島町、中江島町、東江島町、南江島町、江島本町の4つの地区に分かれています。
近鉄の線路が見えてくると次の目的地が近づきます。踏み切りを超えると北江島から中江島を
かすめて東江島町に入ります。まず目に入ってのは写真左のお堂です。鎌倉時代(1192-1333)のもので
石像の周りに6地蔵が刻まれています。江戸時代”北の端の地蔵”と呼ばれ、伊勢型紙の行商に出る人
は道中の無事を祈願したといいます。いまでは電車や自動車で旅は簡単になりました。
東江島町の海岸の方に向うと江島若宮八幡神社(写真右)があります。ここは白子に隣接した
場所です。今は静かな港町となっています。江戸時代、白子では伊勢街道一帯の有数な問屋、
廻船業者、型売商人が活躍した。中でも江戸百万人の衣類を手がけた三井(松阪)を筆頭とする
伊勢商人は完成品をこの地(白子)に集めて江戸に送り出しました。このため江戸の荷受問屋は
白子・江島若宮八幡神社に常夜燈や絵馬を献上し航海安全を願いました。
祭神は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后です。醍醐天皇が(897−930)神意に問いて伊勢宗廟
の戌亥の方であるこの地に奉遷したものです。 鈴鹿マップその3
目標の中間点である近鉄白子駅に到着しました。鈴鹿というと鈴鹿サーキットを思い浮かべる
方が多いのではないでしょうか。オートバイの8時間耐久レースが行われる時期は北は四日市から
南は伊勢ぐらいまで三重県内のホテルが満杯になることが結構有るんです。伊勢路の旅を
ゆっくりと楽しむときは、この八耐レースの時期をはずして旅行されることをお勧めします。
白子はもう一つ、伊勢型紙で有名です。伊勢型紙とは着物の柄や文様を染めるために、丈夫な和紙を
柿渋で数枚重ねて貼り合わせたものに、その文様を透かし彫りしたものをいいます。全国シェアの
99%が伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)地区のみで生産されたため、その名がついたと思われます。
江戸時代中期、「江戸小紋」の流行により飛躍的な発展を遂げ、全国にその名が知られることとなります。
この粋で繊細で優美な文様は、近世の武士の裃(かみしも)やゆかた・布団・友禅などの柄を染めるのに
広く愛好されてきました。現在では一般に「伊勢型紙」と呼ぶが、その昔では「伊勢の型やさん」と呼ばれて
いました。史料などでも「かたや」と記述したものがほとんどです。厳密に「伊勢型紙」の名称がついたのは、
昭和21年(1946)に「伊勢染型紙彫刻組合」を結成してからのものではないかと推測されます。
ちなみになぜ「全国シェアの99%」なのかというと、型売り問屋は白子から江戸にも進出し、文政9年
(1826)には江戸在住の型売り問屋12人も株仲間として認められ、江戸にも型売り問屋ができたため
です。それ以外の全国各地の染色に使用する型は、全て「伊勢の白子」地区だけで彫られた型紙です。
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白子が最終目的地ではありませんので、歩みを先に進めましょう。白子の街に入ると住居が立ち並び
道路も車がようやくすれ違うことが可能な路があちこちに見られます。街道町という印象が強くなります。
ただ、路が込み入ってくるのに伊勢街道を間違わずに歩くことができるのは石の道標のおかげです。
近鉄白子駅から300mほど行くと白子小学校がありますが、その一角に白子代官所跡の説明書き
がありました。江戸時代、徳川頼信が紀州和歌山に入部することになります。頼信の領有していた山城の
飛地は和歌山からは不便で,一方,伊賀に接する藤堂藩は山城に接しているので,両藩話し合いが
まとまり,山城の地は藤堂藩に贈り,藤堂藩は伊勢領有地の内より18万石余を和歌山藩に譲ること
になりました。 これによって,白子代官所・松阪代官所・田丸代官所の所轄する18万石余の地は紀州領
となり,白子,寺家は紀州領となりました。そのとき置かれた代官所がここにありました(写真左)。
白子小学校から南に100mほど伊勢街道に沿ってあるくと、久留真神社(写真右)に行き着きます。
白子代官所跡の説明書きの図ではすぐ隣に隣接する区画に鎮座しています。鈴鹿なので久留真
(くるま)かと思ってしまいますが、当然この神社のほうが歴史は古いです。
当初は伊勢の森(現白子御殿町)に鎮座寛永11年(1634)現在地に遷座古くは福徳の神として
”福徳天皇社”と呼んでいました。当地は栗真荘であったので文政4年(1821)"久留真神社”となります。
21代雄略天皇の時伊勢国に漢織姫を迎え機織の技術指導をうけます。その功績を讃え姫を合祀
しました。”栗真荘”の由来は機織の糸車となっています。祭神は大已貴尊と須世理姫尊です。
鈴鹿マップその4
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久留間神社の鳥居に向って左にまっすぐ行くと、真宗・唯信寺に至ります。そこを右に曲がり、
突き当たると、そこに道標が現れます。間違いなく伊勢街道を歩いているようです。指差す方向が
「さんぐう道」、すなわち伊勢街道です。あまり広くはない道の両側には住居が軒を並べています。
ここから伊勢街道を800mほど歩き、ふと右折する道路の奥のほうを見ると朱と白が目立つ山門
が目に入りました(写真右)。これが、子安観音です。正式には真言宗白子山観音寺といいます。
白子浦の海中より鼓の音がしたので網を入れたところ鼓に乗って白衣観音が現れたのでお堂を
建て安置したと言います。子授け、安産信仰で知られている境内には元禄16年(1703)建立
の仁王門、年中葉や花を絶やさない不断桜(国天然記念物)、俳人山口誓子の句碑などがあります。
不断桜とは真夏を除き一年中咲き続けるという珍しい桜です。エピソードとしては、この不断桜の
葉の虫食い跡をみて伊勢型紙を思いついたという話も残っています。
子安観音の本堂と三重塔です。三重塔横の寺務所では、安産のお守りを授与しています。
このお守りには不断桜の葉が入っており、裏なら男の子、表なら女の子という言い伝えがあります。
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安産の祈祷には今のところ縁はありませんので、先を急ぐことにしました。子安観音前の通りを
南へ向います。伊勢街道を見失ったかと思ったところに道標が現れました(写真左)。
右さんぐう道とありますから右に曲がることとします。するとまた突き当たり。どっちへ行こうかと
思案していると小さい道標が電柱に隠れていました。「左いせみち」、迷わず左へ曲がります。
でも、こんな細い車も通れない道が伊勢街道かと思ってしまいます。
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道は鼓ヶ浦に注ぐ堀切川にぶつかります。鼓ヶ浦の由来は子安観音寺の略縁起にあります。
「人皇45代聖武天皇の御時、この浦に時々鼓の音あり、怪しきまゝ網を下しけるに鼓に乗り観世音
の尊像上らせ玉ふ。このよし帝聞召し、伽藍御建立ありて勅願寺となりぬ。この浦をいまに鼓ヶ浦という。
御本尊は殊に慈悲深く、難産の憂いを救い、子孫長久を守らせ玉ふ、故に子安観音と崇がむ」
どんな鼓の音だったのでしょうか。興味津々ですね。
先に進むためには国道23号線に出なければなりません。堀切川を遡って、近鉄の踏み切りを越える
ことになりますが、船やロケットが目に入ったので写真を撮ってしまいました。鼓ヶ浦保育園です(写真左)
国道23号線は愛知県豊橋市を起点として三重県伊勢市伊勢神宮内宮宇治橋前まで路線です。
結構な交通量がある道です。GW期間中ということもあって行楽の車も有るのかも知れませんが
県都津市に近づくにつれ渋滞が激しくなっているようでした。いよいよ鈴鹿市を後にして河芸町です。
鈴鹿マップその5
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鈴鹿市と河芸町の境を流れる中ノ川を渡り河芸町に入りました。国道23号線から海側の道にそれて、
伊勢街道に戻りました。やはり人工的に作り出した道よりも、古くから多くの人が歩いた道はいいものです。
再び国道を横切って山側の街道に入ることになります。伊勢街道と国道23号線絡み合うように津に
向っているようです。国道を横切る前に近鉄千里駅に到着しました。ここで水分の補給を行いました。
駅名は「千里」ですが、読み方は大江千里ではなく森下千里のほうです。分かりづらい? 「ちさと」です。
千里駅で水分補給と休憩を十分に行った後、再び出発です。国道を横切り、上野地区に入ります。
最初に見つけたのが田中地蔵(写真右)です。左隣の家の壁と同じですね。大事にされているようです。
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田中川に架かる田中橋を渡ると、雰囲気のある建物がありました。(写真左) 酒屋さんです。
連子格子を街道沿いに向けた家が多く残されており、往時の伊勢街道の雰囲気を残しているようです。
国道23号線がすぐ左側にあるのに車の音や喧騒が聞こえず、ゆっくりと歩くことができました。
上野地区の真ん中辺りまで来たところで、上野神社の石碑が目に入りました。祭神は八幡大神。
国司北畠氏の祈願所として創建(年代不詳)されました。永禄年間(1558-70織田)信長は太刀、
鎧を奉納しました。慶長6年(1601)分部光嘉が5万石の黒印を寄進しました。紀州領になってから
徳川頼宣が社殿造営を行いました。
参拝をしたかったのですが、上り坂を見て断念しました。疲労も結構たまってきているようです。
河芸マップその1
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上野神社から300mほど歩くと、弘法井戸がありました。弘法大師を祀るお堂とその前に木の蓋が
された井戸がありました。現在も使われている井戸のようです。その昔旅の高僧がこの辺りの一軒の
農家に立ち寄り水を所望した。農家の主人は遠く迄行き水を汲んできた。高僧はここを堀りなされ
と錫杖をさした。掘ってみると清水がでた。高僧は弘法大師で、村人はお堂を建て祀ったのが始まり
とされています。 この辺りは上野宿の中心で近くに本陣、高札場、問屋などがあったらしい。
河芸マップその2
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途中だんだんへばって来てしまった様で、写真を撮るのも億劫になって歩いていたら津市に入って
しまいました。津市に入ってもう2キロも歩いていました。先ほど歩いていた河芸町ですが、平成18年
1月1日をもって津市と合併しますのでなくなってしまいます。最近の平成の大合併により、多くの由緒
ある市町村がなくなっていくのは少し残念な気もします。ついでをいうと、津市と合併するのは、河芸町
のほか、久居市、芸濃町、美里村、安濃町、香良洲町、一志町、白山町、美杉村です。面積が今の
7倍の面積になるそうです。それでも人口は1.7倍の約29万人にしかならないということです。
近鉄名護屋線の踏み切りを越えると逆川(さかがわ)神社の鳥居が見えてきました。祭神は
伊邪那美命、豊玉毘賣命です。第68代後一条天皇の時創建といわれています。この辺り川が逆に、
西に向かって流れていることから逆川といわれる。昭和の始めごろ、しもやけの宮と知られ、境内の
弁天池の水を土用丑の日に汲み取り手足につけるとしもやけ、下の病が治るといわれ遠くから人々が
汲みにきたといいます。
逆川神社から200mほど歩くと、電柱の看板に見逃せない文字がありました。地ビール工房という
文字です。疲れていてもこういうことには動物的な何かが働くのかも知れません(笑)。寒紅梅酒造
さんです(写真右)。津市で唯一の造り酒屋ということです。地ビールは津の酒類販売店の組合で作る
会社から委託を受けている伊勢乃国麦酒を醸造しています。残念なことに今日はお休みのようでした。
一気にのどが渇いてきてしまいました。
津マップその1
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国道23号線を再び横断し、600mほど歩くと大きな常夜灯が目に入りました。ここは巡礼道と
伊勢街道の追分となっています。追分とは分岐点のことを言います。私が歩いてきた道が伊勢街道で
白子、四日市から来た道です。巡礼道が白塚、豊津からの道となっています。
松が一本植わっており、一里塚のような感じです。常夜灯には天保十年己亥正月とあります。
天保十年は西暦1839年となります。水野忠邦が行った天保の改革の2年前となります。
天保の改革前には全国的な大飢饉が発生し(1830〜1844)、この辺りも大変だったのでしょう。
そういった思いもあってこの常夜灯が建てられてのかも知れません。
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天保の大飢饉から抜け出したことを感謝して建てられたのがこの常夜灯です。
常夜灯には、嘉永4年辛亥孟夏、五穀成就と刻まれています。嘉永4年は西暦1851年です。
特徴は荒削りな自然石で作られているようです。このことから急いで作られてのか、あるいは資金
が十分にはなかったのか、ということが考えられます。この辺りはもう三重大学がすぐそばです。
GW中にもかかわらずサークル活動でしょうか。学生さんと結構すれ違いました。
津に来たら是非見たかったのが、この江戸橋です。路面はアスファルト、橋脚はコンクリートですが
欄干などは木製でまさに江戸時代を思わせる橋でした。この橋と並んで左側には国道23号線の
新江戸橋が架かっており、トラックや乗用車がひっきりなしに通っています。いい対比を見せています。
津マップその2
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しかし木製の橋だから江戸時代と思ったら大間違いでした。木製になったのは明治時代で、それまでは
土橋だったということです。ちなみに現在の橋はは昭和32年に架け替えられたものです。
この橋が江戸橋と呼ばれるようになったのは、江戸時代に参勤交代という制度があり、藩主は定期的に
江戸へ行かなければならず当時は、 この橋が藩境で、藩士の見送りもここまでで、渡れば江戸への
第一歩となるという意味で 「江戸橋」と名付けたと伝えられています。
江戸橋を渡ると常夜灯が目に入りました。安永6年(1777に)嶋田氏個人寄進したものです。。
津市内では最古の常夜灯です。春日型といわれ高さは5.4mあります。
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この常夜灯が有る場所は、伊勢街道と伊勢別街道の合流点に当たります。伊勢街道からは東国
の人々が、伊勢別街道からは京や西国の人々がやってきました。ということはここも追分ですね。
さあ、今日の最終目的地JR津駅、近鉄津駅に到着です。ここまで近鉄鈴鹿駅から三万四千歩、
1615キロカロリーを消費しました。所要時間は約6時間。次回の伊勢街道は津から出発です。
このあと消費したカロリーを補うために地ビールを飲みに行きました。これで帳消しですね。
津マップその3