大阪・奈良から伊勢街道は大きく分けて、伊勢阿保越え道(三本松〜名張〜阿保越え)、
伊勢本街道(初瀬〜榛原〜田口〜山粕〜菅野〜石名原〜飯坂越え)の2街道があります。
榛原町では、西峠から旧街道の町並みは、健在。阿保越え道と本街道が分岐した萩原の
辻には、明和9年(1772年)に国学者の本居宣長が吉野旅行の際に宿泊したともいわれ
る「あぶらや」や常夜燈・道標などがあり、当時の面影がしのばれます。
(榛原町HP より引用)
今日のスタートは奈良県榛原町からです。ここは、奈良から伊勢に向かう街道が伊勢街道
と伊勢本街道二つに分かれる場所です。
榛原町で電車を降り、まずは墨坂神社にむかいました。
墨坂神社に向かう芳野川に架かる橋から写した、大和富士です。おもしろい山容ですね。
墨坂神社は日本書紀にも載っている神社ということです。
ちょうど夏祭りの後だったのでしょうか。竹飾り(七夕飾り)が本殿の手前に飾られていました。
御祭神は墨坂大神ですが、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊那郡岐神、伊那郡美
神、大物主神の六神を総称し墨坂大神としているということです。
日本書紀によれば神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのにわ)を築かれ、天皇みづ
から皇祖天神を祭祀され『この地を上小野榛原(かみつおのはりはら)、下小野榛原という』と
ある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。
現在は西峠地区内にあるが、神武天皇の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍
が、いこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火し
て進軍した所でもある。
崇神紀の九年春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため天皇は、いたく悩まれてい
た時、或夜御夢に神人が現れて『赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀り、黒盾八枚、
黒矛八竿をもって大坂の神を祀れ』と告げたので天皇はその教えに従って祀られたところ、
たちどころに疫病は平癒し天下安泰となった。
又天武天皇白鳳元年十月(西暦673年)大来皇女を使者として、金幣一対を奉幣されたと
も伝えられています。
さて、榛原から長谷に移動しました。本当は、榛原から長谷寺まで歩きたかったのですが、
昨日の四日市〜鈴鹿のこともありましたので、近鉄での移動としました。
牡丹や紅葉の時期ではないため、参道は閑散としておりました。
まず見つけたのが、「くさ餅」の看板に挟まれた道標です。 左側には「伊勢の辻」、右側に
は「右 いせみち」とかかれています。
長谷寺に参詣した伊勢参りの旅人は、ここを曲がり、榛原を経由して伊勢を目指しました。
長谷寺入り口にあった石灯籠と山門です。
今回の目的は伊勢街道を歩くということでしたので、長谷寺にはお参りせず、ここで失礼し
ました。 というよりも、階段を登る体力があるかどうか心配でしたのであきらめたというこ
とが実際のところです。
長谷寺から参道を戻ると、長谷寺の塔頭であり、開山堂である法起院があります。
寺伝によると、「天平年間、道明上人と共に長谷寺を開基した徳道上人が亡くなりあの世へ
行ったところ、閻魔大王から西国三十三箇所巡拝の功徳をひろめるようにと観音有縁の地
三十三箇所を示され、この世に戻された。現在の西国三十三箇所霊場巡りは、この徳道上
人が始めたものとされている。」
法起院から、参道を西に向かって歩いていくと、左側の路地の向こうに赤い欄干の橋が目に
とまりました。その路地を入り橋を渡るとそこには長谷山口坐神社がありました。
まず目を引いたのが、左側の写真の石碑です。なんと「元伊勢」と刻まれているではないです
か。これはすごいところに来たと思いました。
130段あまりの階段が目の前に現れましたが、意を決して登りはじめました。
この神社は長谷山の鎮めの神として大山祇神(おおやまずみのかみ)を祭神としていますが、
その後、随神として天手力雄神(あまのたじからおのかみ)を祭神とした延喜式内社です。
石段を登りきると、そこには、紐を巻きつけられた狛犬が現れました。
これは、狛犬に紐を巻きつけておくと家出した人が無事帰ってくるという伝説からだそうです。
長谷寺の参道を西に向かうと、国道165号線に合流します。
長谷寺エリアからはこれでお別れです。さらに東へ向かうと「出雲」という地区に入ります。
ここに十二柱神社という神社があります。神様は一人二人とは数えず、一柱二柱と数えます
ので、12の神様を祀っている神社ということです。
この十二柱神社には2つの興味深いものがありました。
そのひとつが、「武烈天皇泊瀬列城宮伝承地」です。
武烈天皇は御名を「小泊瀬稚鷦鷯尊( おはつせわかさざきのみこと
)」といい、「泊瀬列城宮
(はつせのなみきのみや)」を宮としています。その泊瀬列城宮がここ十二柱神社のある場所
ではないかということになっています。その石碑と案内板です。
十二柱神社の本殿と拝殿です。本殿の形式は春日造りのようです。奈良ではこの造りのお社
が多いのかも知れません。
もうひとつが、「野見宿禰の五輪塔」です。
野見宿禰は力士の始祖とされています。日本書紀によると、力持ちの当麻蹴速(たいまの
けはや)に対抗できる者として出雲から召されて蹴速と相撲をとり、蹴速を蹴り殺して勝った
という。相撲をとった場所は「山辺の道」に出てくる相撲神社のある場所とされている。
この出雲から召されたの出雲は、島根県ともされていますが、この出雲の集落とも考えられ
ています。
出雲の集落からさらに西に向かうと、黒崎地区に入ります。
ここには白山神社があります。この神社の北東の山麓にも雄略天皇の宮である泊瀬朝倉宮
があったとされています。伝承地の案内板がここにもありました。
ここ白山神社の本殿も春日造りのお社です。
また、境内の国道に沿った所に「万葉集発燿讃仰碑(はつようさんぎょうひ)」があり、その奥
に万葉集のトップを飾る雄略天皇の歌碑がありました。
白山神社のある黒崎地区からさらに西に向かい朝倉小学校を横切ると脇本地区に入ります。
ここでようやく伊勢街道の案内板に出会いました。歩いてきた道は伊勢街道であったと確認
できてほっとした瞬間でした。
「みわ いせ」の立て札は、確かに方向はあっていますが、ちょっと大雑把過ぎるかなという
印象をもちました。 右の写真の右上に映っているお社は春日神社です。
春日神社を拝殿正面から見た画像と、本殿を横から見た画像です。
本殿の横には3本の巨大な杉の木があったのですが、先年の台風で倒されて、その切り株
だけが残されていました。
春日神社の入り口から見た画像です。 鳥居の前に注連縄が張ってありました。
なんかちょっと変わった注連縄ですよね。
春日神社のある脇本地区からさらに西に向かい慈恩寺地区に入ります。
ここまで来ると近鉄大和朝倉駅が目に入ってきます。また南の高台に広がる朝倉台の住宅
地も見えてきます。場所的には、三輪山のちょうど真南に当たります。
そこには、大神神社の摂社である玉列神社(たまつらじんじゃ)があります。
祭神は玉列王子神です。三輪の大物主大神の御子神です。配神として天照大御神、春日大
御神が祀られています。玉列神社は延喜式内社で、初瀬谷最古の神社です。
この辺りの地名は慈恩寺といいますが、実際に慈恩寺というお寺があったそうですが現在は
既に廃絶して無くなっています。
この日はうす曇でしたが、歩いてきたせいもあるのでしょうが、結構な汗をかきました。それに
輪をかけるように、アブラゼミの騒々しい鳴き声が玉列神社境内に広がっていました。
玉列神社神宮寺の一部、阿弥陀堂が鳥居のすぐ右にあり、その前には樹齢800年を越える
欅の大木が残っています。
参道を真っ直ぐに進み、石段を上ると拝殿と本殿があります。参道の両側は椿の並木で、
花の咲く頃は見事な眺めだと思います。「玉列」の名前も「玉椿が列なって」いたからつけた
名前なのかも知れませんね。
このまま、三輪の方までとも考えましたが、奈良市内へ行きたいこともあり、大和伊勢街道は、
今回はここまでとしました。もう少し歩けば「山の辺の道」の桜井側入り口である金屋はもうわ
ずかです。
上の写真は近鉄大和朝倉駅からの写真で、左は玉列神社方向(北方向)、右は二上山方向
(西方向)です。
玉列神社方向の雲が厚く黒いですが、これが後で大変なことになります。
2002年8月2日 奈良県奈良市 法華寺、海龍王寺、不退寺
大和 伊勢街道散策をひとまず終えて奈良市内に向かいました。
どこに行くかはこの時点でも決まっていなかったのですが、前回、西大寺と秋篠寺に行って
いたので、今回はその近くの、法華寺・海龍王寺・不退寺に向かうこととしました。
この3つの寺は、10年ほど前に東大寺の転害門から西大寺・秋篠寺まで歩いた時に訪れて
いるのですが、それ以来ということになります。
法華寺です。ここまで来る人はあまりいないようで閑散としておりました。
法華寺については、私も詳しくはないので、奈良市観光情報センターのHPより引用させて
いただきました。
大和三門跡に数えられる、品格ある尼寺。もと藤原不比等の住居であったものを、光明皇后
が総国分尼寺として建立しました。法華滅罪の寺と称し、七堂伽藍を備えて隆盛を極めました。
平安遷都とともに衰え、豊臣秀頼の母淀君によって現在の構えに整えられました。
本堂は桃山時代に建築された和様の仏殿で、木造十一面観音立像〔国宝〕、乾漆維摩居士
坐像〔重文〕などが安置されています。
庭園は江戸時代初期につくられたとされ、横笛堂は滝口入道との悲恋の物語で有名な横笛が
出家後に住んだといわれるもの。光明皇后をモデルに刻んだといわれている木造十一面観音
立像〔国宝〕や、護摩の灰を粘土に混ぜて形を作り、文様彩色を施した愛らしい犬形のお守り
でも知られています。この法華寺も例外ではなく創建当時の建造物は見られない。しかし光明
皇后をモデルにしたという十一面観音立像、滝口入道との恋に破れた横笛がこの寺に入り修
行に明け暮れたという横笛堂などが尼寺としての優しさを伝えている。
特に印象的なのは横笛が滝口入道と交わした手紙で自作したという可憐な「横笛像」。
堂内には他に乾漆維摩居士座像(重文)や木造仏頭(重文)などが安置されているが、清楚で
穏やかな雰囲気の感じられるお寺。
(奈良市観光情報センターのHPより引用)
法華寺、本尊十一面観音立像の横に聖徳太子像がありました。
恵心僧都の作といわれ、聖徳太子2歳と3歳の像ということです。
本来は撮影はだめなのですが、お願いして特別に撮影させていただきました。
門跡様、この場を借りてお礼を申し上げます。
海龍王寺に向かいましたが、この日は残念ながら寺務のため拝観はお休みということで、
入り口の四脚門のみの写真となりました。
海龍王寺を後にして、不退寺へと向かいました。ここからが空が怪しくなってきました。
北の空が墨汁を流したように真っ暗になり、稲光と雷鳴が近づいて来ました。
なんとか、雨が降ってくる前に不退寺(右の写真)に到着しましたが、いつ大粒の雨が降って
来てもおかしくない状態でした。
いよいよ雨が降り出したので、急いでの見学となりました。
左の写真は石棺です。この石棺はウワナベ古墳南側の平塚古墳(現在24号線バイパス)
から発掘されたもので石材は砂岩の一種。草刈の人がこれで鎌を研いだ痕が沢山残って
いる。長さは2.7mで舟形割り竹刳り貫き石棺と言われています。
右の写真は、重要文化財である本尊木造聖観音立像を安置した本堂です。雨が降ってきて
いたので水滴が映りこんでしまいましたが、これよりいい写真はないのでご勘弁願います。
このお寺が「業平寺」と呼ばれる所以や由緒は以下の奈良市観光情報センターのHPよりの
引用を参考にしてください。
平安遷都ののち、平城京をなつかしむ平城天皇は、上皇として都を再び平城京に戻すことを
画策されたが成功せず、都を逃れてこの地に萱御所を営みました。上皇の崩御後は、皇子
阿保親王と在原業平が後を引き縦ぎ、承和14年(847)に業平自らが聖観音像を刻んで当寺
を開基したのが始まりとされ、別 名「業平寺」とも呼ばれています。南門の四脚門〔重文〕は、
鎌倉末期の建築で、本堂は大仏様式の最後の形を保ち、室町時代の建築とされています。
堂内にある本尊木造聖観音立像〔重文〕は業平の作と伝えられ、藤原時代の一木造、彩色
の像です。 (奈良市観光情報センターのHPより引用)
このあと、小1時間ほど、バケツをひっくり返したような雷雨のため足止めを余儀なくされまし
た。 でも本堂の縁側から眺める雨も趣きがありましたが。