近鉄四日市駅にて近鉄内部(うつべ)線に乗り換えました。 内部線を走る電車は普通の近鉄
車両とは違ったスリムな車体です。 単線のため、すれ違いは駅で行います。あぶら蝉のうる
さい声を聞きながら、「追分」駅にて下車です。 駅から東に向かうと旧東海道と参宮街道の三
叉路の中に存在する緑地帯、「日永の追分」に到着です。 三角形の土地で1辺が15Mくらい
でしょうか。 追分とは主要な道が分岐している場所につけられた名称ようです。
スタートする前にまずは調査です。
今回の旅のポイントは伊勢街道を歩く、ということなのですが、併せて道標や石灯籠を探して
歩くというのも目的のひとつです。 自動車がなかった時代の人達は、この道標や石灯籠を目
印に伊勢へと向かっていた訳ですから、その足跡をたどる旅でもあります。
左の道標には「右 京大阪道 左 いせ参宮道」とあります。「日永の追分」の中央には井戸
がありました。ちょうどこの水を汲みに来ていた方がありました。名水なのでしょうか。
さて、意を決してスタートです。 南に向かって500Mほど歩くと、左角に「蟹築山密蔵院」を
案内する道標4基がありました。ちょっと見ずらいですがすみません。
さらに1.5KMほど南に行くと川に架かる橋が出現です。内部川に架かる河原田橋です。
ここから車を避けるように住宅地のほうへ向かう事とします。
まだスタートして2KMですが、もう汗だくです。 用意したスポーツドリンクも半分ほどになり
ました。 このあたりは四日市市の南部で鈴鹿市に隣接する地域です。
いかにも往時の人達が歩いていたような風景が飛び込んできました。
「又兵衛橋」というのも由来を調べれば、興味深い事実がわかるかも知れませんね。
河原田町内のメインストリートを歩いていると道標を見つけました。
やはりこの道が参宮街道だと感じた瞬間です。
左の写真(道標の北面)には「名古屋市 十五里十一町、守山市 十七里十五町」、
右の写真(道標の南面)には「久居市 八里十二町 宇治山田市 十七里四町」とあり
ました。 宇治山田市とは今の伊勢市のことです。
さらに南に向けて200M程歩き、河原田小学校を過ぎたあたりで、西側に石灯籠が飛び込ん
できました。 河原田神社の参道でした。参拝もしたかったのですが、写真左でもわかるように
本殿に向かう階段を見た瞬間に、その場で拝礼して踵を返してしまいました。(失礼しました)
この近くにはJR関西本線と伊勢鉄道のの河原田駅がありますので、無理せず訪れることも
可能です。
さて、いつのまにか四日市市から鈴鹿市に入りました。訪れた時期が施餓鬼会間近でしたの
で思わず通り道にあったお寺の山門を映してしまいました。お寺は臨済宗善誓寺といいます。
柵があったので中に入ることは出来ませんでした。
ここまで来ると暑さも限界、でも渡りに船というか、コンビニを見つけ思わず飛び込みました。
スポーツドリンクの900mlを買い込み再スタートです。
自動車道から離れ、関西本線に沿う道を歩いていくと、自動車道の下をくぐることになります。
右の写真の右にある土手が自動車道です。見えづらいかも知れませんが、高岡神社と書か
れた石柱の後ろに関西本線が走っています。こちらもお参りはここからさせていただきました。
高岡神社の石柱の隣にある畑の中に石灯籠がぽつんと立っていました。
さていよいよ鈴鹿川を渡ります。青い欄干のある橋が高岡橋です。 これでいよいよ本格的に
鈴鹿市に入ります。
高岡橋から見た鈴鹿川上流方向の様子です。川風は強く一瞬の涼を与えてくれました。
でも帽子が飛びそうで、この写真を撮る時も片方の手で抑えていました。
高岡橋を渡り、右方向を見たら石灯籠が眼に飛び込んできました。
すかさず近寄ってみると、梯子のついた石灯籠でした。梯子は最近付けたもののようです。
でも梯子があるということは、本当に灯をともすことがあるということを表しています。
現在でも旅人の道しるべとして現役の灯篭なのですね。
上の写真の灯篭をそばから見たのが左の写真です。文化4年丁卯正月に作られた物です。
文化4年は1807年です。もう200年もここにあるのです。何人の旅人を見てきたのでしょうか。
この200年の灯篭のある土手を下り、一路鈴鹿市中心を目指します。
しばらく隠れるところがない田んぼの中を進み、ようやく民家が見え出して、住宅地に入った
ところでまたもや石灯籠を発見(右の写真)。ここは鈴鹿市十宮です。
十宮とはおもしろい地名だなと思いました。これもおもしろい由来があるかも知れません。
ここまで来ると鈴鹿市中心まであと1kmというところです。
もう市街地になっている道を歩いていると、古そうな石垣が現れました。さては鈴鹿城の城跡
かと思いました。(実は鈴鹿城というのはなく、神戸城が鈴鹿の中心地にあります)
南北朝時代にこの地の豪族神戸氏が城を築いたのが起こりとされ、江戸時代に本多忠統が
神戸に移り神戸城を築城します。今でも神戸高校の西に本丸跡の石垣が残されています。
この場所は城跡ではなく、神戸の見付跡でした。ここには木戸があって夜間は閉じていたそう
です。そういえば、赤坂見付とか四谷見付とか、関所ではないけれど、番人がいて木戸の管理
をしていたという話を聞いたことがありますから、ここもそうだったのでしょう。
この神戸の見付跡そばに公園があったので、しばし休憩を取りました。ほとんど限界です。
鈴鹿市は神戸城の城下町となっており、またおもしろいことに、神戸城の周りは寺院がたくさん
あり、いざという時の要塞の代わりにこれらの寺院を使用するねらいがあったとのことです。
右の写真は市内を流れる六郷川煮かかる大橋です。名前が「大橋」というだけで、そんなに大
規模な橋ではありませんでしたが、「大橋」刻まれた石柱が古さを感じさせました。
左は「神戸の札の辻」といわれる場所で、ここにも道標が立っておりました。
写真では見えづらいですが、「距 津市元標五里三十四町」とありました。
町並みの写真はあまり撮らなかったのですが、連子格子が連なったところが多く
鈴鹿市というとすぐサーキットの町と思ってしまいますが、意外に古さを残した町
であると認識させられました。
お寺が多いということで、歩く道すがらにもお寺にぶつかります。右は補陀落山観音寺です。
いかにも観音浄土を示した山号寺号であると思いました。
補陀落山観音寺の山門の額の写真です。葵紋が入っていますが、これは本多家の紋です。
江戸時代に葵紋が徳川家と親藩である松平家以外には使用を禁じられていましたが、
本多家のみが認められていたようです。検索して調べたら次の内容にヒットしました。
「三河国松平郷は賀茂神の神領で、松平氏もその有力な氏子であった。それゆえ
神紋の葵を家紋にした。元神官で徳川氏の家臣となった本多氏もこれを用いている。」
右の写真は「伏見稲荷」です。地図を見たときに興味を持ったので寄ってみました。
観音寺の直ぐそばにありました。(跡でわかったのですが、豊川稲荷もこの隣にあったのです)
こちらも近くにあったお寺です。東王山慎福寺です。三重県札所の第14番目ということです。
参道には牡丹の株が植えられており、「仏様に牡丹を供えましょう」というような意味合いの
言葉がかかれてありました。牡丹の時期なら素敵だったと思います。
ここでも水分補給のため日陰をお借りしました。
左の写真もお寺の山門ですが、二階建ての山門も珍しかったので写真に収めました。
浄願寺か善導寺の山門であったかと思います。メモを紛失してしまい、どちらかの寺
であることは限定できるのですが、特定が出来ません。
右の写真の石灯籠は結構な大きさでした。基壇のところの高さが私の身長(170cm)
程ありましたから、全体の高さは4mぐらいあるのではないでしょうか。
本当は近鉄白子駅まで歩くつもりですが、あまりの暑さに、ここでリタイヤです。
次回の三重伊勢街道の旅はここ鈴鹿からのスタートとなります。 ご期待の程を。