2002年7月 東京 羽村市

  東京都羽村市に変わった井戸があるということで訪れました。
しかし、井戸以外にもたくさんの見るべき場所がありました。

羽村市は東京の西部にあります。JRを利用すると東京から立川まで中央線快速、
立川から羽村までは青梅線に乗り換えます。私は横浜からでしたので、横浜から
川崎まで東海道線、川崎から立川まで南武線、立川から羽村までは青梅線です。
東京からなら乗り換えもいれて1時間半(青梅特快なら1時間ほど)、横浜からなら
2時間程度かかります。ちょっとした小旅行です。


    

羽村駅北口を出て100mぐらいのところに「五ノ神社」があります。この中に今回の散策
の目的である変わった井戸が存在します。この神社は羽村市指定文化財となっています。

「創建は推古天皇9年(601)と伝えられる古社で、宝亀年間(770〜780)、熊野五社権現
を祀ったところから、もとは熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたといわれます。    
慶長12年(1607)の修理棟札にみえる「五辰宮」は現本殿の前身と推定されます。   
現本殿は、青梅の宮大工・小林藤馬が嘉永2年(1849)に着工、文久2年(1862)に竣工
され、二十四孝の彫刻や絵様など、周囲の細部意匠にも江戸時代後期におけるこの地方
の社寺建築の特徴がよくうかがえます。                  羽村市教育委員会」

    

五ノ神社内にある「まいまいず井戸」です。写真のように井戸に至る道が螺旋状になっている
おり、すり鉢状の地形となっています。砂礫層の場所に造られているため、まっすぐに井戸を
掘ることができないため、すり鉢状になったものと見られます。

    

説明書きが見づらいと思いますので、以下に記述いたします。

「まいまいずとは、かたつむりのことで、井戸に向かって降りる道路の形がこれに似ている
ため名づけられたものである。この井戸は地元伝説では大同年間(806〜810)に創始
されたものとしているが典拠はない。形態および板碑などの出土からみて、鎌倉時代の
創建と推定される。さく井技術の未発達の時代に筒状井戸の掘りにくい砂礫層地帯に井
戸を設ける必要から、このような形態をとるにいたったものである。おそらく、隣接の熊野
神社(現在・五ノ神社)とともに村落の中心になって継続して使用されてきたものと思われ
る。                                                   
元文6年(1741)に、当時の五ノ神社の村中の協力で井戸普請が行われた記録があり、
その後も数回修復されてきたが、昭和35年町営水道開設に伴い使用を停止した。   
地表面での直径約16メートル、底面の直径約5メートル、深さ約3.4メートル、すり鉢状
のくぼ地の中央に直径約1.2メートル、深さ約5.9メートルの掘り井戸がある。地表面
からは周壁を約2周して井戸に達するようになっている。      東京都教育委員会」

    

羽村駅から立川方向に向かうように10分ほど歩くと、医王山宗禅寺に至ります。
このお寺は臨済宗建長寺派のお寺です。建長寺というと鎌倉五山のひとつでしたね。
外から写真を撮っていたら、ご住職が、どうぞ上がって見て行ってください、とのお誘い。
本堂は江戸時代の造りということでした。京都のお寺のように、本尊を中心に前に3部屋、
後ろに3部屋というつくりで、各部屋は襖でも仕切れるようになっていますが、襖は外され
柱と欄間だけとなっています。

    

左の写真は宗禅寺の釈迦如来坐像および迦葉・阿難両像(市指定有形文化財)です。
 宗禅寺の本尊、釈迦如来坐像は、脇侍に迦葉・阿難を従え、三尊像として須弥壇に座しています。
天保10年(1839)の制作です。
正面から撮らせて頂くのはちょっと憚られたので、遠慮がちに写したために
ちょっと映り具合が悪いですが申し訳ありません。右の写真は本堂横にある薬師堂です。

    

この薬師堂も市指定有形文化財となっています。元々はこの場所にあったわけではなく、
ここから、多摩川に向かう途中の玉川上水に至る坂あたりにあったそうです。
その場所は「堂坂」と呼ばれています。

    

左は、ちょうど、薬師堂が元あった堂坂すぐ下の玉川上水の流れです。恥ずかしいことに
玉川上水がここ羽村市に起点があったとは、この日初めて知りました。
多摩川沿いの堤防の道を歩いていたら、車止めの上に雀のオブジェがあったので
思わず写真に撮ってしまいました。羽村と雀って何か関係があるのでしょうか。
この日は休みであるのと、暑いということもあって、川の中で水着で遊んでいる子供達や
バーベキューをしているグループがたくさん川原に来ておりました。

    

多摩川を渡り、堤防の土手を上流方向に向かって5分ほど歩くと、羽村市郷土博物館があります。
ここは、羽村の自然・歴史・文化を紹介した博物館です。特に、玉川上水・養蚕・小説『大菩薩峠』
の作者中里介山についての展示が充実しています。羽村の歴史・文化を知らない私にとっては
とても参考になりました。入館料は無料となっています。

羽村市郷土博物館

この写真の建物は、博物館内にある旧下田家住宅です。国指定重要有形民族文化財となっています。
弘化4年(1847)に建設された入母屋づくりの茅葺民家で、この地方の一般農家の姿をよく示しています。

    

囲炉裏には火が入っていて、写真ではわかりづらいですが、煙が結構ありました。
やはり茅葺屋根では、煙で燻すことで、虫除けや防腐、防水の効果が出てくるのですね。
また、写真では撮らなかったのですが、養蚕で有名な羽村であったため、屋根裏は蚕を飼う部屋
があり、2階へ上がるための「はしご」が立てかけられてありました。

    

郷土博物館からまた多摩川を戻ることになります。玉川上水の取水口付近の写真です。
左の写真は取水口にある堰で、洪水時に大量の水が入り込まないようにする調整堰です。

昔はこの部分は投渡堰と呼ばれ、投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太を横に渡し、そこへそれより
細い丸太や木の枝、砂利などをあてがってつくってありました。大水のときは、取水口へ水が集まり
過ぎて水門や土手を壊してしまうので、この投渡木を外して堰を取り払い、水を多摩川に流す
ことで上水をまもっていました。

右の写真は取水した水の量を調整するための堰です。かつてはこの場所には幕府の出先機関として
陣屋が置かれ、その下で水番人と呼ばれる管理人が堰を守っていました。
現在は東京都水道局羽村取水所で管理しています。

    

玉川上水取水堰の内側からの写真です。水の勢いがすごかったです。
玉川上水は、庄右衛門と清右衛門という兄弟により承応2年(1653)に完成しました。
羽村から四谷まで水を流すためには100m進むごとに21cm下がる計算で水路を
作らねばならず、かなりの測量技術が必要だったと思われます。
今も東京都水道局が管理する重要な施設であるわけですから、
昔の人の努力苦労には頭が下がる思いです。

    

玉川上水取水堰から羽村駅に戻る途中にあったのが、東谷山禅林寺です。
このお寺も宗禅寺と同様に臨済宗建長寺派のお寺です。
由緒については手抜きして、下の写真の説明をお読みください。
「大菩薩峠」は映画にもなった文学作品ということですが、内容についての
詳細は皆様の方がご存知かと思いますので割愛いたします。m(_ _)m


機会がございましたら、皆様も羽村を訪れてみてはいかがでしょうか。

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