明日香2004年4月

奈良で知り合いの方々とBQを楽しんだ翌日、久しぶりに明日香を歩きました。
桜や菜の花も咲いており、天気にも恵まれ散策にはうってつけの日和でした。

橿原神宮駅東口から明日香村行きのバスに乗り込みました。
スタート地点は明日香の遺跡などの資料を展示した飛鳥資料館からです。


    

満開の桜と亀石のレプリカが出迎えてくれました。この亀石の本物はあとで紹介します。
亀石のひょうきんな顔が資料館を訪れる人々を迎えてくれます。この亀石は、本当は資料館の
建物の有る側におきたかったということですが、間にある川を越えるためにクレーンで
持ち上げなければならないのですが、川に架かる橋がクレーンの荷重に耐えられない
という理由で手前の資料館入り口の広場におかれることとなったそうです。


    

資料館入り口の広場の一番西にある古墳です。レプリカではなく本物の古墳の石材を
ここに移動させて復元したものです。写真では大きさが分かりづらいかと思いますが、
身長170センチの私が中に入るとすっぽり隠れてしまう大きさです。(写真左)

資料館の橋を渡って建物側の広場に行くと大きな石柱が目に入ります。全体の型や山型の
浮彫があるところから須弥山石(しゅみせんせき)とよばれています。庭園にともなう噴水
施設で、周辺から溝や石敷きもみつかっています。斉明朝(655〜661年)に、蝦夷や南方の
人をもてなしたとき、甘樫丘東方の河原や飛鳥寺西方に造ったという須弥山は、このような
ものであったようです。上・中・下三つの石は、いずれも内部をくり抜いてあります。
底から水を引き上げて、下の石の中にため、小孔から四方は噴き出させるようになって
います。中の石は、下の石と直接つながらず、間にもう1石あったらしいです。(写真右)


    

さて、飛鳥資料館の見学を終えて次の目的地に向いましょう。飛鳥資料館から歩いて15分、
南西約1キロのところに飛鳥寺があります。飛鳥寺は、596年(推古4)に蘇我馬子によって建
てられた本格的な伽藍配置の日本で最初の大寺院です。本堂には年代のわかる現存の仏像
では日本最古のものと言われています。 金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇が
止利仏師(とりぶっし−鞍作鳥・鞍作止利 くらつくりのとりともよばれるように,もともとは馬具
製作に携わっていた百済からの渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏。605年
に造り始め,606年に完成しました。 しかし,887年と1196年の落雷のため火災に遭い
本堂が焼失したが江戸時代に再建された。飛鳥大仏も補修されたが,顔の一部,左耳,右手
の中央の指3本だけが当時のまま残っています。(写真左)

飛鳥寺の西側の田圃のなかに五輪塔があります。これは蘇我入鹿の首塚と伝えられている
石塔です。首塚の背景にある山は甘樫の丘で、蘇我氏の館があった場所となっています。
甘樫の丘には今回登りませんでしたが、ここからは明日香と大和三山を一望することができ
ます。天気がよければ畝傍山の向こうに大津皇子の陵がある二上山が望めます。



    

飛鳥寺から南へ300mちょっと行くと2000年2月に発掘された亀型石にたどり着きます。
ちょうどNHK朝の連続ドラマ「あすか」が放映されていて、明日香村ブームになっていただけ
に、この亀型石の発掘は話題を呼びました。画像(写真左)では分かりづらいかも知れませんが
上部の煉瓦積みの部分から水が供給され、今はありませんが樋を伝って真ん中の四角い部分
に流れ込み、その上澄みが下の亀型石の中に流れ込む仕組みとなっています。この亀型石が
作られたのは斉明天皇の時代で天皇の祭事に使われた施設であるということです。

この亀型石の画像上部にある丘を登っていくと、明日香の石造物でも有名な酒船石があります。
長さ5m、幅2mの花崗岩の表面に大小数個の丸いくぼみを掘り、数条の細い溝で繋がった
形状をしています。石の両側には鏨の跡があり、石の一部が他に使われてしまったようです。
この上で酒を造ったとか、油を絞ったとか、薬を作ったとかと言われていますが、実際の
用途はよくわかっていません。


    

酒船石の有る丘を下りて、南西へ400mほど行くと田んぼの中に遺構が現れます(写真左)
この場所は飛鳥板蓋宮の跡と考えられています。ただ確定はしていないので頭に「伝」という
文字を付けて伝飛鳥板蓋宮と呼ばれています。この飛鳥板蓋宮は皇極天皇、斉明天皇の皇居でした。
天皇は、皇極二年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移って来られました。
 当時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対して、板蓋であったため、この名がついたと思われます。
飛鳥板蓋宮は、「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となりました。

伝飛鳥板蓋宮から直線距離で東南東に700m弱の場所に西国三十三ヵ所第七番の霊場となって
いる東光山龍蓋寺(りゅうがいじ)、通称岡寺があります。   飛鳥時代の名僧、義淵(ぎえん)が
天武天皇の皇子、草壁皇子の宮を賜わり学問所としたのが起源といわれています。飛鳥の里を
見下ろす高台に仁王門(重文)、本堂、大師堂、昭和に再建された三重塔などを配しています。
本尊は天平の如意輪観音坐像(重文)、像高4.5mで塑像としては最大の仏さまです。
厄除け観音の名で知られています。

その岡寺に行く手前に坂の茶屋があります。(写真右)このお店は、NHK朝ドラ「あすか」でもロケ地の
一つとなった場所です。老夫婦がお店を仕切っており、おばちゃんは「あすか」にも出演されたそうです。


    

坂の茶屋の店内の様子です。訪れた人が残していった色紙とノートへの書き込みがすごいです。
その色紙のなかにはデビュー数日前に書かれたさくらももこさんの色紙もありました。
お勧めは、夏ならば冷たい素麺セット(画像は素麺だけですが、かやくご飯がつきます)、
冬ならば暖かいにゅう麺セットです。素麺で有名な三輪素麺は明日香村隣の桜井市の特産です。

ただ、岡寺にいたる路はものすごい坂道なのでその積もりでおいでください。
笑顔が素敵な坂の茶屋のおばさんが出迎えてくれますよ。


    

冷たい素麺で火照った身体を冷やし、お腹をいっぱいにした私が次に向ったのは、明日香といえば
絶対ここをはずしては帰れない場所、石舞台に向いました。岡寺から南に直線距離で500m弱。
歩いて15分ほどの場所にあります。(写真左) 石舞台周辺は公園として整備されており、
屋外ステージなども設置され、季節ごとにいろんなイベントが行われています。
この石舞台は蘇我馬子の墓とされていますが、はっきりとはわかってはいません。

大体普通の方はここまでで、これから奥に行かれる方は少ないかも知れません。
観光バスも石舞台までは来ますが、この奥は道幅が狭くなるので観光バスは入れません。
石舞台から南に向うと、吉野に通じる道路があります。その途中に棚田が広がる稲渕地区
があります。ちょうど田起こし直前であったので、棚田には菜花が咲いていました。黄色い絨毯
を敷き詰めたような姿に思わずシャッターを切ってしまいました。(写真右)
秋には、田んぼの畦に彼岸花が咲き乱れ、多くのカメラマンでいっぱいになります。


    

同じく棚田の風景です。積み上げてある稲わらがなんとも郷愁を感じさせます。
写真右の中央の木はちょっと思い入れの有る木です。この木を見たくて明日香好き
になったといっても過言ではありません。この木はNHK朝ドラ「あすか」で子役のあすかが
登った木です。あすかが竹内結子になったあとも何度か明日香村のシーンでは登場します。


    

写真左はあすかが登った木の下から見た棚田の様子です。子役のあすかが明日香村を離れ
京都に行く前に、明日香に対して別れの言葉を告げたときに見ていた風景です。
いつまでも明日香の風に吹かれていたい気分でした。あすかの主題曲も風笛というタイトル
でしたから、作曲された方もこの明日香の風を感じて作られてのかも知れませんね。

さて、そろそろ帰る時間が近づいてきました。稲渕の棚田を後にして、近鉄飛鳥駅に向うことと
します。石舞台の前を通りすぎ、北西に1キロメートルほど歩くと、聖徳太子が生誕されたと
される橘寺が見えてきます。(写真右) 
推古天皇14年(606年)に、天皇の命により聖徳太子は
勝鬘経(しょうまんきょう)を講義したと伝えられ、その時、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠
から光が輝いたといいます。天皇は驚き、この地に寺を建てるように命じたとされ、聖徳太子は御殿を
改造して寺を建て橘樹寺(たちばなのきてら)と命名(橘寺は通称)したと伝えられています。
しかし、創建当時のものは礎石以外存在しておらず、寺の伽藍もかなり小さくなっています。


最後はお約束した亀石です。飛鳥資料館の庭にもありましたね。この亀石が西を向くと
この付近が泥沼になるというこわーい伝説があります。ちなみに今は南西を向いています。

明日香村はこういった石の遺物、遺構があちこちに点在しています。
是非明日香村を訪れて古代のミステリーに触れてみてください。


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