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「伊賀越道中双六」

沼津の段」 床本



東路に、こゝも名高き、沼津の里。富士見白酒名物を、一つ召せ召せ駕籠に召せ、お駕籠やろかい参らうか、お駕籠お駕籠と稲村の、蔭に巣を張り待ちかける、蜘蛛の習ひと知られたり。浮世渡りは様々に、草の種かや人目には、荷物もしやんと供廻り、泊りを急ぐ二人連れ、立場と見かけ立留り、
「これはしたり、大事の用をとんと忘れた。大儀ながらわしが寄つた所まで、一走り往て来てたも」
と急ぎの用事走り書き、さらさらさらと書き認め、
「早ふ早ふ」
と手に渡せば、主に劣らぬ達者もの、心安兵衛逸散に、元来し道へ引返す。稲村蔭より、
「旦那申し、お泊りまで参りませうかい。申し旦那様、どうぞ持たして下さりませ。今朝からまだ一文も銭の顔を見ませぬ。どうぞお慈悲」
と言ひかけられ、
「イヤイヤ、わしは今夜は夜越しに行く」
「サア、サアそこがお慈悲でござります」
と、頼みかけられ是非なくも、
「サ、そんなら吉原までなんぼぢや」
「エヽお前様も、私頼んで持つのぢやもの、なんぼのかんぽのと、そこゑい程に下さりませ」
「サ、そんならやらしやれ。ハア、年寄のよしにせいでの」
「エヽ、そんなら持たして下さりますか。ハア忝い忝い。サアサアお出でなされませ。ヤ、ヤ、ヤツト任せ」
は声ばかり、一肩往ては、ム、立ち留り、
「アノ、今日は結構なお天気ぢやなア。ヤ、ヤツト任せ」
二肩往ては、息を継ぎ、
「旦那申し、向ふの立場にそれはそれは旨い鰌の名物がござりまつせ。何でもマ、そこまで往たら、ヤツト任せの八兵衛とな」
杖する度に追従口。深田に下りし白鷺の、餌ばみをするに異ならず。
「コレ親仁殿、ちつと持つてやりませうか。アヽソレソレ、危ない危ない」
「イエイエ、勿体ない勿体ない」「テモ気の毒な足元。最前から見て居るに、気しんどでならぬわいの」
「イエイエ、これは私が足の癖でござります。旦那のお蔭で今日もうち入りがよござります」
「シテこなたは、幾つ位ぢやの」
「ハイ、七十に手が届いてござります」
「アヽソレソレ、合点の行かぬ足取り」
「イエイエ、お気遣ひなされますな。これでも若い時は、小相撲の一番もひねりましたもんでござりますわいハヽヽヽヽ。ヤ、ヤ。ヤツと任せのドツコイドツコイドツコイナ」
言ふ下道の爪先上り、木の根に躓きひよろひよろひよろ。
「アヽイタヽヽヽ」
「ソレ見やしやれ。エヽきついことをしたの。親指を蹴かいたか。ヨシヨシ早速に治してやろ」
と用意の薬取り出だし、つけるとそのまゝ、
「なんとどうぢや。痛みは止まろがの」
「ハイ、これは結構なお薬でござります。痛みはとんと治りました。サア、サアお出でなされませ」
「アヽイヤコレ、荷は俺が持つてやる」
「アヽ旦那様、滅相な」
「イヤサコレ、駄賃はやるわいの。気遣ひさしやんな。こなたの足許最前から、危なふて危なふて、荷を持つ方がやつと気楽な。話しもつて行きませう。サヽござれ」と先に立つ、平作は千鳥足、しんどが利になる蒟蒻の、砂になるかと悲しさに、小腰屈めて、「申し旦那、一肩やりませうかい」
「イヤイヤ、これで大分歩き良い。こなたの足許茶めいたもんぢやの。その足取りを狂言師に見せたいわいの。乱れなどと言うて伝授事になりさうなこと」
「イヤモ、旦那のおつしやる通り、大概乱れかゝつてをりますはいハヽヽヽヽ」
「ハヽヽヽヽ」
と、道の伽する笑ひ草、踏み分けて来る道草に、菊の折枝持ち添えて。見合はす顔は、
「とと様か」
「オヽお米ぢやないか。今日は結構な旦那のお供したので、荷は持たずにお世話になつた。ソレ、ちやつとお礼申してたも」
「これはこれはありがたい。もうこゝが私が内。暫くお休み遊ばしませ」
と、昔の残る風俗も、尾羽打ち枯れし松影に、伴ひ入るや西日影、佗びたる中の二人住み、門の柱に印の笠。
「お掛けなさるりや庭一杯。いつそ座敷へ、マアお上り」
と、親仁が馳走娘の愛、前垂の藍薄くとも、
「マアお茶一つ」
と差し出だす、こぼれかゝりし藁屋葺。
「折悪う湯も沸かず、水でなりと大御足を」
「アヽイヤイヤ、もう行きまする。さて娘御はよい器量、不躾ながらこの内には、せゝなげに咲いた杜若。アよい床へ生けたいのう」
「ハイ、どなたも左様におつしやります。自慢で作つておきましたれど、近頃は手入れが悪さに、いかう田地が荒れました。何が身には構はず賃仕事。貧乏は苦にもせず、それはそれは孝行にしてくれます。それで私が年寄つての雲助も、せめて三文なりと肩休めと、あんまりあれがいぢらしさからでござります」
「アヽコレとゝ様、初めてのお方に、その様なさもしい話を」
「オヽ、ほんにさうぢやのハヽヽヽヽ。イヤコレお米よ、今日は大きな怪我をしてな。コレ、これを見や。爪が起きてある。ガマア薬もあればあるもんぢや。あなた様のお薬、きつい妙薬。ありや何と申す薬でござりますえ」
「これか。この薬は大切ないもの。第一金瘡にはその場で治る妙薬。武家方には尋ぬれども、金銀づくでは手に入らぬ妙薬」
と、語れば娘はなほほたほた、
「とゝ様の命の親。一日や二日でお礼は言ひも尽されず。ならう事なら今宵はこゝに、御逗留遊ばして」
「エヽイ娘、何言ふぞい。こんな内に泊めまして、肴は干鰯一疋なし。虱より他あなたのお身に付く物はないぞよ」
「イヤイヤ、不自由は仕つけてゐます。娘御があの様に、しなつこらしう言はしやるので、どうやらこゝに根が生えた。大事なくば、いつそ泊めて貰はふかい」
と、目の鞘抜けし商人も、上手な娘の饗応に、ころりとなれば
「お枕」
と、油気はない真身の馳走、これも一樹の笠やどり、尋ぬる軒の。目印当てに内に入り、
「旦那、これにござりますか。サお立ちなされませんか」
「ホヽ安兵衛か。早かつた早かつた。そなたはその荷物を持つて、吉原の鍵屋で宿を取りや。アヽ日和が知れぬ、早う行きや」
雨具の用意は吉原の、鍵屋をさして急ぎ行く。後見送つて十兵衛、
「コレ親仁殿、この娘御より他にもう子供はないかいの」
「ハイ、このお米が上に男の子が一人あつたれど、二つの年養子にやりました。ガまたその親の手を離れ、今は鎌倉の屋敷方へお出入り。モ良い商人になつているとの噂。イヤモそれ聞いてとんと思ひ切りました」
「そりや又なぜに」
「ハテお前様、一旦人にやつたれば捨てたも同然。わが子ながらも義理あるもの。今その粋が身上が良いとて、尋ねに往て箸片端貰うては、人間の道が済んませぬ。今出逢うても赤の他人。子といふはハイ、このお米一人でござります」
「ムヽ、それも尤も。シテその兄貴は、今幾つ位ぢやの」
「ハイ、さいぢやな。あれが、ム、丁度今年二十八。鎌倉八幡宮の氏地の生れ、母の名はとよと書付け、守り袋に入れてやりました。ガその後、このお米を産んで嬶も相果て、即ち今日が命日で、孝行な娘が水手向け。花の立て方、ご覧じやつて下さりませ」
と、何心なき話の合紋、一々胸に応ゆる十兵衛、
『思ひ合せば覚えある、さては、産みの親父様、血を分けたわが妹が貧苦の有様。有り合せた路用の金。なま中親子と名乗つては、受けぬ気質を何とがな』
金のやりたい屈託に、胸を痛めて。
「これ親仁殿、何と物は相談ぢやが、このお娘をわしに下されぬか」
「エヽ、エヽ御奉公に上げますのかな」
「イヤテヤ、まだ女房のない男。利発な娘御、商人の嬶には極上々の羽二重地。得心して下さるなら、仕拵へはこつちから。旅商人のことなれば、呼び迎へる日限は、まだ何時とも定められぬ。嫁入の拵へ料、こゝに少々持ち合はす。これ置いて去にまする。得心かいの、どうでごんす。コレよい女房、モ面目ないが最前からわしやこな様に、惚れたわいの」
と、じなつきかければ、ついと退き
「とゝ様、あのお方もう往なして下さんせ。いかに貧しう暮らしてゐるとて、あたなめ過ぎた。阿呆らしい」
と、打つて変りし腹立ち顔。
「嗜め嗜め、嗜め嗜めやい。よい女房と言はれるが、何のそれ程腹の立つことがあるて。われが器量がよい故ぢやと、おりやモウ嬉しいわいハヽヽヽヽヽ。イヤ申しあなた様、ようマアご親切に、ホヽ惚れさしやつて下さりました。したがこのお米は女房というてはやられぬ訳がござります」
「ム、そんなら御亭主があるのか。ヤこれはこれは。実は只今のはほんの座興。主のある人とも存ぜず麁忽申した。真平御免に預りませう。コレ娘御、機嫌直して貰ひませうぞや」
「アノマア痛み入つたお詞。ほんに思へば在所者を、おなぶりなさるを真受けにして、お恥かしや」
とにつこりと、笑ひに心打ち解けて。
「話しに紛れてずつぷりと、日の暮れてあるに気がつかなんだ。アレアレ三日月様が上つてござる。宵月夜で行燈はゐらぬ。御燈明を伽にして辻堂の雨宿り、お客様ももうお休み。足伸ばすと壁に支へる奥座敷。ゆるりと、ちぢかまつて御寝なりませ。私はこの台所。コリヤ娘、われはアノ、ずつとそちらに寝いよ。旦那様はお堅いけれど、時のはずみでは主のある池へ踏込みなさりよも知れぬぞよ。用心には網を張れぢや。今夜はおれが股引をはいて寝や。むさけれどあなたには、わしがどんざを裾になと」
追風持て来る鐘の声、いとしんしんと、聞こえける。お米は一人もの思ひ、心に掛かる夫の病気、わが手で介抱することも、浮世の義理に隔てられ、秋の蛍の消え残る、仏壇の灯も細々と、嵐にふつと気のつく娘。
「奇妙に治つたとゝ様のあの疵。今でも敵の手掛りが知れてから、志津馬様のあの病気では思ひも寄らず。ムヽ、ム」
と心でうなづき胸を据え、灯の消えたるは天の与へ、夫のためと抜き足、差し足、探り寄り。印籠取り上げ立退く足、躓く音に目覚す十兵衛、思はず高声、
「何者」
と、裾を捉へて引留むれば、
「わつ」
と泣き入る娘の声、平作もびつくりし、起き上つても真暗がり、
「お米、お米、お米、お米、お米」
と、言ひつゝ探す竈の埋み火。付け木に移し顔見合はせ、
「娘ぢやないか。わりや手に印籠持つて、オヽ旦那様か。エヽなんの因果でこの様な、情けない気になつたぞいやい。コリヤヤイ、この親仁はな、その日暮らしの者ぢやけれど、人様の物一文半銭、盗もと思ふ気は出さぬわい。気を急いてござる旦那様を、無理矢理にお泊め申して、親子言ひ合はせてこの様な事したかと思はれては、旦那の手前おりや面白ない、面目ないはいやい。エヽ、親の顔まで穢しをつた」
と、わつとばかりに泣きゐたる。十兵衛は気の毒顔、
「ハテモ、金銀を取つたといふではなし。これには訳のありさうな事」
と、問はれてお米は、顔を上げ。
「恥かしながら聞いて下さりませ。様子あつて言ひ交はせし、夫の名は申されぬが、私故に騒動起り、その場へ立合ひ手疵を負ひ、一旦本復あつたれど、この頃はしきりに痛み、色々介病尽せども効なく、立ち寄るかたも旅の空。この近所で御養生、長しい間に路銀も尽き、その貢に身の廻り櫛笄まで売り払ひ、悲しい金の才覚も、男の病ひが治したさ。先程のお話に金銀づくではないとの噂。燈火の消えしより、あの妙薬をどうがなと思ひつきしが身の因果。どうぞお慈悲にこれ申し、今宵の事はこの場限り。お年寄られしお前にまで、苦労をかけし不孝の罪。今日や死なうか、明日の夜は、わが身の瀬川に身を投げてと、思ひしことは幾度か。死んだ後でもお前の嘆きと、一日暮しに日を送る。どうぞお慈悲に御了筒」
と、東育ちの張りも抜け、恋の意気地に身を砕く、心ぞ思ひやられたり。嘆きの端々つくづくと、聞き取る十兵衛、
「コレ娘御、そんならこな様は、江戸の吉原で全盛の、松葉屋の瀬川殿ぢやの」
「ハイ、テモよう御存知」
「すりや瀬川殿の夫のためにこの印籠。ムウ、ム」
と心の目算、思案を極め、
「イヤコレ太夫殿。夫の手疵を治す薬、欲しいは尤も。それ聞いては進ぜたいものなれど、これは人の預かり物。この事はモとんと思ひ切らつしやれ。今こなた衆の話の通り、わしも又恩を受けた、サその恩を受けた人のために、いづれの寺でも苦しうないが、石塔一つ寄進がしたい。ガなんと、世話しては下さるまいか」
「ハイそれは御奇特、結構な御寄進でござります。何時なりともお世話致しまするでござります。私も来年は嚊が年忌。勧むる功徳共に成仏とやら。是非お世話致しまするでござります」
「サ、どうぞ今度の下りまで、違はぬ様に頼みます。兼ねての願ひに書付も、この内に委しうござる」
と、金一包み取り出だし、
「コレ、必ず頼んだぞや、親子の衆。もはや夜明に間もなし。随分無事に、親仁殿」
と、立ち出づれば平作も、
「必ずお下り待ちまする」
「コレ娘御、ちよつとこゝへごんせ、ちよつとこゝへごんせ。モ言うまではなけれども、たつた一人の親仁様、随分と気を付けて孝行に、さつしやれ。ヤ、アハヽヽヽヽヽ。姉御さらば」
とばかりにて、心に一物荷物は先へ、道を早めて急ぎ行く。後に親子は顔見合はせ、金取り上げて、
「コリヤお米、随分大事に掛けておきや。夜明までは間もあり、そなたも休みや」と水入らず、見廻す傍に落ちたる印籠、
「アヽ、これは今の旦那のぢや。定めて尋ねてござるであろ」
と、言ふにお米が手に取つて、
「この印籠はどうやら覚えのある模様。ハテ合点のゆかぬ。それかこれか」
とよくよく眺め、
「オヽほんにそれよ、コリヤコレ沢井股五郎が常々持ちし覚えの印籠」
「ハテ、不思議な」
と平作も、金取り出だしよく見れば、
「金子三十両、この書付けは、『鎌倉八幡宮の氏地の生れ、稚な名は平三郎、母の名はとよ』ヤア、コリヤコレわが子に付けておいた書付け」
「エヽそんなら今のお方は、私がためには兄様」
「オヽ、わが子の平三であつたかいやい」
「そんなら最前からの親切は」
「オイヤイ、それとは言はずこの金を、貢いでくれた石塔代。不思議の縁」
と親と子は、暫し呆れてゐたりしが。お米は印籠手に取つて、裾ばせ折つて駆け出だす、
「コリヤ待て娘、ワリヤどこへ」
「どこへとはとゝ様、この印籠を持つてゐるその兄様は敵の手掛かり。追駆けて股五郎が在処を尋ね、志津馬様へ」
「オヽ尤もぢや尤もぢや。ガわれではいかぬわい。モ年寄つたれどもこの平作、理を非に曲げても言はして見せう。われも続いて後から来い。どの様なことがあつてもな、必ず出なよ。敵の在処聞くまでは大事の場所、木蔭に忍んで立ち聞きせい。必ず共に粗忽すな。ヨ、合点か合点か。本海道は廻り道、三枚橋の浜伝ひ、勝手覚えし抜け道を」
と、子故に迷ふ三悪道、こけつ転びつ、走り行く。後にお米は身拵へ、続いて出でんとするところへ、折から来かゝる池添孫八、
「瀬川様か」
「オヽ孫八殿、よい所へござんした。今夜こゝに泊つた客で、敵の手筋が知れそふな。詮議のためにとゝ様が、後追うて行かしやんした」
「エヽ忝い。シテその行く先は」
「吉原まではよも行くまい」
「何かの様子は道にて聞かん」
と、瀬川に続く池添も、足に任せて、慕ひ行く。実に人心様々に、町人なれども十兵衛は、武士に劣らぬ丈夫の魂、夜深に立ちし一人旅、千本松にさしかかる。
「オヽイ、オヽイ」
と、杖を力に息すたすた。
「申し、申し旦那様。ヤレヤレお早い足許」
「フウ、今呼んだはこなたか。慌ただしう何の用」
「ハイ、只今のお金を戻しに参じました。石塔料と名をつけて、大枚の金子三十両。その日暮しの雲助に、下さるにも訳があろ、又受けまするにも訳がある。けれども、この金を受けましては、さる人が立たぬ義理がござります。これをお返し申します代りに、あなたにお頼みがござります。お聞きなされて下さりますか」
「ハテ、一夜さ泊るも何ぞの約束。様子によつて頼まれまいものでもない」
と、夕闇の夜の声しるべ、後より窺ふ池添瀬川、固唾を飲んで聞きゐたる。
「シテ、その頼みの様子は」
「ハイ、おつしやつて下さりませ」
「ヤア」
「サア、この印籠の主の在処を、承りたうござります。これを尋ねて知りたいばつかりに、モ様々の流浪致す人。それ故娘も廓を出て憂き艱難。これが知れると本望成就。娘につれて私まで、この上の悦びはござりませぬ。二十や三十の端銭で露命を繋ぐ私が、死ぬるまで安楽に暮される程の三十両。サヽその金銀に代へてのお願ひ。七十になつて雲助が、こに叶はぬ重荷を待つ。それはまだ休みもする。子の可愛ひといふ重荷は、寝た間も休まぬ。一生の苦痛を助ける薬の名、お前様も親御があらば、子故には愚痴になるものぢやと、思し召しやられて、願ひを叶へて下さりませ。これ申し旦那様」
と、血筋と義理と道分石、分けて血の緒の三界に、踏み迷ふこそ道理なれ。親の心を察しやり、
「ムヽ、さうあらう、心底至極尤もぢや。ガこればかりはどうも言はれぬ。俺も頼まれた男づく。その方の人が大切なら、こつちにもまた大切。たとへ又在処を聞いても、命がなうては本望が遂げられまい。そつちの内に落しておいた、主のない印籠の、その妙薬で疵養生。達者になつたその上では、望みの叶ふ時節もあらう。親仁殿、サそふぢやないか」
と、心の掛け籠、一重明けぬ十兵衛が情の詞。
「サヽヽそれ程お慈悲のあるお方。とてものことなら、その薬の持ち主」
「イヤサコレ、悪い合点。この薬の持ち主は、その病人とは大敵薬。三十両のその金、敵の恩を受けまいため、戻したではないかいの。この持ち主の名を言へば、敵の薬で疵本復。恩を受けてはまさかの時、鋩がなまらうぞや。やつぱり拾うた薬にして、心置きなふ養生さしたが、よささうに思はるゝ」
と、聞いて平作感じ入り、
「アヽさうぢやあつた。お前様は恐ろしい、発明なお人ぢやの。さう聞きましては申し様もござりませぬ。左様ならもう帰りましよ。旦那様、おさらば」
と、言ひつゝ探つて十兵衛が、脇差抜き取り、腹へぐつ、
「コレ親父殿、危ないぞや、気をつけて行かしやれ。コレ親仁どの、危ないぞや、気をつけて行かしゃれや。コレ親仁殿、危ないぞや。何とした、ど、ど、プツ、コリヤ自害か何故に、誰を恨んで勿体なや」
と、うろうろ涙、驚く娘、声に手当てる池添が、泣く音とどむる轡虫、草に喰ひつき、泣くばかり。平作苦しき目を見開き、
「おりや、おりやこなたの手にかかつて死ぬるのぢや、死ぬるのぢや、死ぬるのぢやわいの。こなたと俺とは敵同士、志津馬殿に縁のある、この親仁を殺したれば、頼まれたこなたの男は立つ。コレこの上の情けには、平作が未来の土産に、敵の在処を聞かして下され、他に聞く者は誰もない。今死ぬる者に遠慮はあるまい。不思議に初めて逢うた人。どうした緑やら、わが子の様に思ふもの。何のこなたに引け取らす様なこと、この親が、イヤサこの親仁が、致しませうぞ。これが一生の別れ、一生のお頼み。聞かずに死んでは迷ひます、迷ひますわいの。コレ、拝んます、拝んます、旦那殿」
と、子故の闇も二道に、分けて命を塵芥、須彌大海にも勝つたる、
『誠の親に初めて逢ひ、名乗りもならぬ浮世の義理。孝行の仕納め』
「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど、十兵衛が口から言ふは、死んで行くこな様への餞別、今際の耳によう聞かつしやれや。股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。道中筋は参州の吉田で逢うた、と人の噂」
「エヽ忝ない忝ない忝ない。アレ聞いたか、サヽ誰れもない誰れもない誰れもない。聞いたは、聞いたはこの親仁一人、それで成仏致します。名僧知識の引導より、前生のわが子が介抱受け、思ひ残すことはない。早ふ苦痛を留めて下され」
親子一世の逢ひ初めの、逢ひ納め、
「親仁様、親仁様、平三郎でござります。幼い時別れた平三郎、段々の不孝の罪、御赦されて下さりませ、御赦されて下さりませ」
「アヽ兄かい、平三かい、エヽ、顔が見たい、顔が見たいわい」
「親仁様、親仁様、お念仏をおつしやりませ、お念仏、お念仏」
「なむあみだ、なむあみだ、なむあみだ、なむあみだ」
「ソレ、今が親仁様の御臨終、今が親仁様の御臨終。なむあみだぶ、なむあみだぶ、南無阿弥陀仏」
と、唱ふる十念十兵衛が、堪へ兼ねたる悲嘆の涙、始終窺ふ池添が、小石拾うて白刃の金、合はす火影は親子の名残後に、見捨てゝ、別れ行く。


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