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夕陽丘と日想観四天王寺から閻魔堂・生玉神社


鎌倉末期に描かれた「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」に当時の大坂・四天王寺の風景が描かれています。現在の西門は石造りですが、当時は赤く塗られた木の鳥居であったことが分かります。鳥居の横に掘っ立て小屋があり、そこには施しをする大勢の人々の姿があります。また車輪をつけた背の低い小屋(車小屋)がいくつも並んでいます。この頃から四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でした。写真は四天王寺境内。

四天王寺には、彼岸の中日に「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきたものでした。日想観とは、四天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。このため人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。これには作法があったようで、まず夕日をじっと眺め、目を閉じてもその像が消えないようにしてから、夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされていました。写真は四天王寺の西門から西方を望む。こんなアングルでお彼岸の夕陽を見たんじゃないでしょうか ねえ。

中世期までの大坂湾の入り江はずっと奥地にまで入り込んでおり、四天王寺の西門から海がほど近かったそうです。江戸時代になる頃までに土砂に埋まったり、埋め立てられたりして、現在の大阪 湾の形にほぼ近くなったのだろうと思います。謡曲「弱法師」には夕日に向かって手を合わせる盲目の俊徳丸の脳裏に、見えるはずのない難波の海がありありと浮かんでくるシーンが出て来ます 。これは当時の風景を反映しているのかも知れません。人々は海面を真っ赤に染めて沈んでいく夕日を見ながら神秘的な感動に浸ったことでしょう。

「住吉の松の暇より眺むれば、月落ちかかる、淡路島山と、眺めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、日想観なれば曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも見えたり見えたり、満目青山(ばんぼくせいざん)は心にあり、おう、見るぞとよ見るぞとよ」(謡曲「弱法師」)

四天王寺の西門を出ると、通天閣方面へ向かう長い坂道になりますが、その坂を下りきったところに位置するのが、閻魔堂です。この辺りは合法辻と呼ばれていました。「摂州合邦辻」に出て来る閻魔堂が 、ここです。「合邦庵室」だけの見取りでは関連がよく分かりませんが、本作は四天王寺の日想観と深く結びついたお芝居です。玉手御前が俊徳丸の業病を平癒させる血潮の軌跡は、何だか呪術的な奇跡を想像してしまいますが 、実はそうではなくて、四天王寺の西門の先に位置する閻魔堂で起こる有難い弥陀の奇跡だということです。(別稿「天王寺の西」を参照ください。)

ところで「摂州合邦辻」は安永2年(1773)の大坂北堀江座での初演ですが、当時の大坂の観客が「合邦辻」と聞いて真っ先に何を思い浮かべたのかというと、実はそれは仇討ちということでした。ちょうどその頃、合邦辻の閻魔堂の近くで非人の仇討ち事件があったのです。実説がどんなものか、詳細は伝わっていません。江戸時代は仇討ちが頻発した時代でしたが、さすがに非人の仇討ちは珍しいことだったので、この事件は当時とても話題になりました。非人の仇討ちというシチュエーションは、たとえ乞食に身をやつしても仇を追い求めんとする仇討ち行為の極限を示すものとして読み本などに取り入れられました。後にこれをネタ本にして四代目南北が「絵本合邦衢(えほんがっぽうがつじ)」(文化7年・1810・江戸市村座)という仇討ち狂言を書きました。この芝居で敵役の左枝大学之助が討たれる大詰めの場が合邦辻の閻魔堂の前、つまりまさしく「摂州合邦辻」と同じ場所なのです。(別稿「女武道としての玉手御前」を参照ください。)写真は閻魔堂で、入口の左に玉手の碑があります。

四天王寺から西へゆっくりと下って行く丘陵地帯は、昔から夕陽丘(ゆうひがおか)と呼ばれていました。嘉禎2年(1236)、歌人・藤原家隆が、浄土宗の教えである「日想観」を会得する為、この地を終焉の地を定めて移り住み、「夕陽庵」(せきようあん)と云う庵室を立てたことが、この地名の由来です。夕陽丘は、大阪湾に沈む夕日を眺めるのに絶好の地とされていました。この辺りには、神社やお寺やがいつくも並んでいます。(別稿「芸道小説としての「春琴抄」」を参照ください。)生玉神社 (生國魂神社)もそのひとつです。

近松門左衛門の「曽根崎心中」(元禄16年:1703、竹本座)冒頭の「観音巡り」は今は上演がされることがありませんが、ひとりの美しい女が駕籠から出てきて、大坂三十三箇所の観音廻りをします。女の名は明らかではありませんが、歌詞には「十八・九なるかおよ花」で、つまり年頃18・9歳の美人(かおよ)だと言っており、「今咲き出しのはつ花に」で、「お初」の名前を掛けています。「観音さまは衆生を救おうと、三十三のお姿に身を変えて、人々を色で導き、情けで教え、恋を悟りの橋にしてあの世へ掛けて渡してくだされる、その誓いは言いようもなく有り難い。」、お初の大阪三十三観音巡礼の最後の地が生玉神社です。境内で お初は愛しい醤油屋の手代・徳兵衛と偶然の再会をします。(別稿「お初観音めぐりの意味」を参照ください。)

ところで岩崎武夫氏は「さんせう太夫考」において、四天王寺の縁の下にいて乙姫の救いを待つしんとく丸の姿と、近松門左衛門の「曽根崎心中」の天満屋の場で、縁の下にひそんで遊女お初の足を押しいただく徳兵衛の姿との類似性を指摘しています。この指摘は、とても大事 だと思います。汚辱のなかから徳兵衛を救い上げるお初を観音と重ね合わせる「曽根崎心中」冒頭の観音廻りも、そのような中世的な精神的つながりのなかから発しているのです。 (別稿「哀れみていたわるという声」を参照ください。)

岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)
 

写真は平成29年1月18日、吉之助の撮影です。


 

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