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谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界・その6:吉野南朝

*「谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界・その 5:葛の葉」の続きです。

*団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論の関連記事です。


吉野の吉水神社は、元は吉水院と云い、奈良時代の役の行者が建てた格式の高い僧坊でした。だから昔はお寺だったのですが、明治の廃仏毀釈令に関連した経過で、吉水神社と改称して現在に至っています。(吉水神社のサイトはこちら。)
写真は、吉水神社の本殿。吉水神社が歴史の舞台で登場するのが、少なくとも3回あります。

 

ひとつは、文治元年に鎌倉方の追っ手を逃れた源義経弁慶らがこの吉水院に隠れ住み、後の静御前も合流して、ここで数日間を共に過ごしたということです。つまり、ここが「義経千本桜・川連法眼館」のモデルというわけです。(別稿「「吉野葛」の世界・その 4:狐忠信」に関連写真を掲載しています。)

二つ目は、延元元年(1336=建武3年)、後醍醐天皇が京都の花山院から逃れ、吉水院宗信法院の庇護のもと、吉水院を皇居と定めました。吉野南朝4代75年の歴史がここから始まるのです。

三つ目は文禄3年(1594)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した時に、吉水院が本陣と定められて、ここでお歌やお茶、お能の会などが催されたことです。この吉野の花見と慶長3年(1598)の醍醐の花見は、晩年の太閤秀吉の権勢の最後の輝きを示すものです。写真は、秀吉の吉野の花見本陣の碑です。

 

 

 

 

 


話を吉野南朝の話に戻しますが、吉野の人々は後醍醐天皇に味方すると足利幕府の怒りを買って、平和な吉野が戦火に巻き込まれると云うことで、恐れて反対した人が多かったそうです。しかし、吉水 院宗信法印は「吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある」と断固として譲らず、吉野の人々を説得したのだそうです。

延元元年(1336)、後醍醐天皇は、吉水院を皇居と定めました。写真は、吉水院のなかの後醍醐天皇の御座所です。 京都の御所から移って、どのようなお気持ちであったか。ちょっとうらびれた雰囲気が、哀れを誘う・・かな。

 

 

 

 

 

この写真は、吉水院ではなくて、金峯山寺蔵王堂からちょっと下ったところにある妙法殿(吉野南朝跡地)です。現在は金峯山寺の一部となっています。吉野に入った後醍醐天皇は、金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。これが吉野行宮です。

 

 

 

 

 

 

後醍醐天皇は、延元4年(1339)8月に夏風邪をこじらせて病床につかれ、看病の甲斐なく8月16日に崩御されました。この時に「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」と云う遺言を残したとのことです。玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都のことを指しています。後醍醐天皇は、この地に留まりながらいつかは京都に帰るという思いを抱いていたのです。


写真は,、吉水神社の北闕門(ほっけつもん)で、ここから後醍醐天皇は京都の方角に向かって祈ったのでしょう。ここは、知る人ぞ知る吉野のパワー・スポットだそうです。
 

明徳3年(1392)に南北朝が合一されますが、この合意を潔しとせず、なおも南朝の再建を図った皇統の子孫や遺臣たちによる復興運動が続き、これを後南朝と云います。出生や生涯の詳しいことは不明ですが、尊秀王は後南朝の指導者で、地元では自天王(じてんのう)としてその名が伝えられています。

谷崎潤一郎の「吉野葛」は、発端を吉野の自天王の話に採っています。このため冒頭は歴史ミステリー小説のような重めの雰囲気に仕立てられています。それがいつの間にやら途中から、主人公「私」の友人津村の若くして亡くなった母の俤を追い求める筋に変わって行くわけです。「吉野葛」の最後に、「私の計画した歴史小説はやや材料負けの形でとうとう書けずにしまった」とあるせいで、谷崎は「吉野葛」で歴史 探訪紀行を書こうとして失敗したと信じている方もいらっしゃるようです。自天王の件は、読者を吉野の歴史・伝承の世界に引っ張り込むための谷崎の仕掛け に過ぎないのですから、誤解をなさらないように。もしかしたら、谷崎は「してやったり」と思っているかも知れませんね。

*写真は吉之助が、平成29年2月8日に撮ったものです。

(H29・5・6)


 

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