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谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その1:妹背山

*団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論の関連記事です。


谷崎潤一郎の小説「吉野葛」は、昭和6年(1931)に雑誌「中央公論」1月号と2月号に分けて掲載されました。谷崎は前年・昭和5年10月に吉野に滞在、さらに11月に周辺地域 へ取材をしたようです。谷崎は昭和4年に「蓼喰う虫」連載を完成、さらに昭和5年に並行して執筆していた「」連載を完成ということで、この「吉野葛」は、その後の「源氏物語」現代語訳の試み、さらに「細雪」の執筆という、谷崎が日本の風土・文化へ傾斜していく時期への過渡期的佳品として重要な位置を占めるものとされます。

ところで「吉野葛」は小説的紀行文のような読み方をされることがとても多いようです。このため、主人公「私」が作者谷崎自身と重ねて読まれて、谷崎が創作のために実際に奥吉野のどの辺まで行ったか・行かなかったかとか、友人津村のモデルの詮索とかが始まったりすることが、これまた多いようです。それはこの小説がそのような書かれ方をされている、つまり歴史的文献を散りばめてストーリーに真実味と深みを持たせて重層的な構造を取るように作者が仕掛けているからですが、友人津村とその母に纏わる筋に関しては、完全な谷崎の創作であると考えた方がよろしいようです。

「吉野葛」の時代設定ですが、小説冒頭に『私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが・・』と書かれています。谷崎は昭和5年に「吉野葛」執筆のため吉野に滞在する以前は、大正12年4月・大正15年4月 ・昭和4年8月に吉野を訪れたことがあったようです。

現在は吉野山への観光客は近鉄吉野線で終点の吉野駅で降りて、ケーブルカーで山を上って金峯山寺へ向かうのが一般的なコースですが、これは昭和3年に当時の吉野軽便鉄道(吉野鉄道)の吉野駅までの路線が開通してからのことになります。それ以前はその3つ前の六田(むだ)駅が終点で、ここが旧吉野駅でした。さらにさかのぼると、吉野軽便鉄道が旧吉野(六田)駅までの路線が開通したのが、明治45年(大正元年)のことだそうです。昭和3年以前の観光客は六田駅を降りて、そこから進路を右に、 美吉野橋を渡って吉野山を目指したわけです。

大正の初め頃が時代設定となっている小説の「私」と津村の場合は一般観光客と違って、旧吉野駅で鉄道を降りてから、 美吉野橋を渡らずこれを右に見ながら、進路をそこから左に取って、ここから吉野川を遡って、菜摘(なつみ)・窪垣内(くぼかいと)・国栖(くず)方面へ向かったことになります。小説では「私」はこれまでに吉野に二度来たことがあって、幼少の頃、上方見物の母に伴われて群衆のなかに交じりつつ山道を右へと登ったことがあるが、左の方の道を行くのは始めてであるとなっています。小説では、分岐点になる美吉野橋に差し掛かった時に「私」が亡き母を懐かしく思い出す場面があります。

『近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、むかし花見に来た者は、きっとこの、二股の路を右に取り、六田の淀の橋の上へ来て、吉野川の川原の景色を眺めたものである。(中略)私の母も橋の中央に俥(くるま=人力車)を止めて、頑是ない私を膝の上に抱きながら、「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」と、耳元へ口をつけて云った。幼い折のことであるからはっきりした印象は残っていないが、まだ山国は肌寒い四月の中旬の、花ぐもりのしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を、川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の峡(かい)から吉野川が流れて来る。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、ぼうっと夕靄にかすんで見えた。それが川を挟(はしさ)んで向かい合っていることまでは見分けるべくもなかったけれど、流の両岸にあるのだと云うことを、私は芝居で知っていた。(中略)その折母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女に遭えるような、子供らしい空想に耽ったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしく想い出すのである。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

上の写真は、美吉野橋からもうひとつ上流にある、大和上市駅から近いところの橋の中央辺りから吉之助が撮った妹背山の写真ですが、美吉野橋からのアングルとほぼ同じになるはずです。手前にあるのが近鉄吉野線の鉄橋で、その奥に、左に妹山・右に背山が確かに見えています。しかし、前後の山影に重なって、ちょっと判別がしにくいようです。これで歌舞伎の「妹背山婦女庭訓・吉野川」の感慨に浸るのには 、いささか苦しいかなあという気もしなくもないですが、まあ「ああ、あれがその妹背山か」と思う分には、これで十分かなあ。

妹山・背山は、奈良県吉野郡吉野町にある、二つの対になった小さなお山です。「吉野葛」中間部以降は友人津村の母に纏わるストーリーが中心となって行きますから、「私」の母の思い出が語られるのはこの箇所だけです 。永遠の理想の女性たる母への思慕と云うのは谷崎文学の永遠のテーマとされていますから、どうしても読者はここで「私」を作者谷崎自身に重ねたくなるところです。谷崎が幼少に母と一緒に吉野を訪れた事実はないそうなので(母は関西へ旅行したことがなかったと谷崎自身が別のところで書いているそうです)、この逸話は谷崎のまるっきりの創作ではあります。ただし、「吉野葛」のなかに唯一ここで「私」の過去が語られることは、やはり何か意味があると考えねばならぬでしょうねえ。

これは平山城児氏のご指摘(考証「吉野葛」)ですが、後年谷崎の回想・「幼少時代」(昭和30年)のなかで、谷崎は幼い頃に歌舞伎座へ母と一緒に人力車に乗って芝居見物によく出かけたこと、歌舞伎座へ入ると空気がすうっと肌寒く感じられたこと、 『その肌寒さはあたかも梅見頃の陽気の爽やかさに似て、そくぞくしながらも心地よ く、「もう幕が開いているんだよ」と母に促がされながら、慌てて廊下を走って行った』思い出などを書いています。「まだ山国は肌寒い四月の中旬の」吉野川の空気に触発されて、谷崎は自らの幼少時代の母との芝居見物の思い出を小説のなかに密かに忍ばせているのです。 これはプルースト効果なのだなあ。

下の写真はもっと上流に行って撮った妹背山で、窪垣内へ向かう途中でバスの車窓から吉之助が撮ったものです。(つまり小説で「私」と津村が向かった左の方の道です。)ここの国道は交通量が結構多いので、 この川べりから写真を撮るのは危ないみたいです。ここからだと、左に妹山・右に背山があって、二つの山を吉野川がふたつに隔てていることがよく分か ります。これはなるほど歌舞伎の「吉野川」の舞台面そのものだなあと思います。ただし、吉野川の流れは芝居にあるように「山川の此早瀬、水練を得たる者だに渡りがたき此難所」と云うほどの急流ではありませんね。背山の 前面に見えるのは、県立吉野高校と吉野漁協の建物です。これがちょっと目障りではありますが、これを大判事の館だと思うことにしましょう。妹山の麓には、妹山を御神体として祀る大名持神社(おおなもちじんじゃ)という由緒ある神社がありますが、残念ながら時間がないのでバスで素通りしました。すみません。

ところで余談ですが、吉野川をもっとずっと下ったところに、妹背山というのがもうひとつあるのです。それは、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある妹山・背山で、万葉集に、「妹に恋ひ 吾が越えゆけば 背の山の 妹に恋ひずて あるがともしさ 」(大意:妻への恋心に苦しみつつ山路を越えてゆくと、背の山が妹の山といつも一緒にいて、恋に苦しんでいないのがうらやましいことであるなあ。)とも詠われている有名な場所です。 他にもこの地を歌枕にした和歌があります。(このサイトをご覧ください。) それで吉之助はこの地が「妹背山婦女庭訓・吉野川」の舞台であると混同しそうになったのですが、よく考えてみれば、この辺りではもう川の名前が紀ノ川に変わっていて吉野川ではないのですねえ。ということで、歌舞伎の「吉野川」の舞台と云えば、それは奈良県吉野郡吉野町にある妹山・背山ということになるわけです。 (この稿つづく)

(H29・2・10)

*写真は吉之助が、平成29年2月6日・7日に撮ったものです。

*続編「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その2:釣瓶鮨」もご覧ください。

平山城児:考証『吉野葛』―谷崎潤一郎の虚と実を求めて

谷崎潤一郎:幼少時代 (岩波文庫)

谷崎潤一郎:吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)


 

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