(TOP)        (戻る)

桜姫の聖性

*本稿は別稿「母性喪失の隅田川」の関連記事です。


地獄太夫をご存知でしょうか。地獄太夫は室町時代に泉州堺の遊郭に実際にいた遊女です。山賊にかどわかされて苦界に身を沈めたのですが、これも前世の不信心ゆえであると・懺悔の心を込めて自らを「地獄」と名乗り、地獄模様の着物を羽織って仏の御名を唱えながら客を送り迎えたそうです。風狂で知られる一休禅師はその評判を聞いて地獄太夫のもとを訪ねました。「聞きしよりみてうつくしき地獄かな」と詠むと、地獄太夫は「生きくる人の落ちざらめやも」と返したと言います。

こうして一休禅師と地獄太夫はうちとけて語り合いました。地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めた そうです。また、有名な「門松は冥途の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし」という歌は一休が地獄太夫に贈ったものだとの伝もあるそうです。

 

 

 

 

 

 

地獄太夫は多くの画家たちの題材になっています。上の写真は小林清親の筆による「地獄太夫」画の部分です。この絵の全体は下のように三幅対になっておりまして、右の骸骨の幇間は手拭をかぶって鉦に合わせて踊りを踊っており、左の骸骨の客がやんやの喝采を送っています。中央で超然としている地獄太夫だけがこの世の空しさを知っているということでありましょう。                                             

ところで、「桜姫東文章」は文化14年(1817)3月河原崎座での初演。この作品のユニークなところは、由緒ある高貴な姫君を最下層の女郎にまで堕としてしまったところにあります。

 

 

文化4年(1807)、品川の安右衛門という者の経営する遊女屋に、「こと」という名の遊女がいて、この女が浅草源空寺の門前の善兵衛という者の養女になった後、自分は京都の日野中納言の息女であると言い出したのです。彼女は官女のような格好で奉行所に乗り込んだり、客に正二位とか左衛門とかいった署名をして和歌を書いてやったりして、さらに評判は高くなりました。捨て置けなくなった奉行所がこれを調べた所、これはまったくのデタラメだと分かり、その行為が不届きだというので追放されたそうです。善兵衛も手鎖の刑を受けています。南北はこの話を桜姫の設定に取り入れたのです。

桜姫を女郎に墜してしまうという発想は、お姫様の聖性をひっくり返して・その権威をあざ笑いパロディー化してしまおうという意図でありましょうか。いや、そうではない かも知れません。それは遊女の穢れを聖化・浄化しようとするものであるかも知れません。地獄太夫の例を挙げるまでもなく、「遊女の聖性」について語られることがあります。彼女たちはその流転の人生のなかに、この世の無常・この世の実相を見たかも知れないからです。

 

 

 

写真は昭和34年11月歌舞伎座での「桜姫東文章」の舞台です。上の写真は「山の宿町」での六代目歌右衛門の風鈴お姫。女郎に墜ちた桜姫はお姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使います。つまり、気位の高い姫君ときっぷの良い姐御肌の女郎の人格が同居している面白さです。同居している二つの人格の、そのどちらもが真実なのです。

右の写真は「三囲(みめぐり)」の場での六代目歌右衛門の桜姫と・初代白鸚の清玄です。「三囲」は、「隅田川の世界」の聖性としての母性のイメージをその原点に持っています。二人はすれ違い、観客に謡曲「隅田川」の世界をすれすれに垣間見させたままに素通してしまいます。「三囲の場」は母性喪失の・完成されないままに残される「隅田川」なのです。

 

 

 

 


 

 

 


 

  (TOP)        (戻る)