(TOP)        (戻る)

カラヤンと歌舞伎


三島由紀夫監修により戦後始めての「桜姫東文章」上演がされたのは昭和34年(1959)11月歌舞伎座夜の部のことです。桜姫は六代目歌右衛門、清玄/権助が八代目幸四郎(後の初代白鸚)でした。日程から見ると11月4日か5日のことですが、ちょうどウイーン・フィルと来日公演中の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが・結婚したばかりのエリエッテ夫人と 一緒に歌舞伎座を訪れています。「桜姫」終演後にカラヤン夫妻が歌右衛門の楽屋を訪ねた場面がNHKのニュースでも取り上げられました。ニュース映像では「岩淵庵室」の場面がちょっとだけ見られます。

 

*左は終演後に楽屋で桜姫の扮装の六代目歌右衛門に挨拶するカラヤン夫妻

 

 

 

カラヤンが歌舞伎を見たのは多分この一回だけであったと思います。カラヤンはその後も来日していますが、歌舞伎座へ寄ったという話を吉之助は聞いた事がありません。しかし、後年カラヤンはこんなことを言っています。

「歌舞伎は私の理想だ、完璧ならば何も変える必要はないはずだ。」

このカラヤンの発言はロジャー・ボーンの評伝「カラヤン・帝王の光と影」(時事通信社刊)に出てくるものです。著者ボーンが歌舞伎をどの程度知っているのかよく分らないところがあります(能と混同している感じがあります)が、ボーンは次のように書いています。

『歌舞伎と同様オペラも、三十曲か四十曲が何年ものあいだ繰り返し上演されている。もはや一種の儀式となっていて、知り尽くしているものが繰り返されることから楽しみが生じ、伝統的な衣装と装置を用いて新しい歌手が役割を演じ、新しい指揮者が指揮台に上がることに魅力が感じられるのだ。カラヤンの歌舞伎への傾倒ぶりが(カラヤン演出の1983年ザルツブルク音楽祭での)「薔薇の騎士」に見られる殺風景な装置、堅苦しい演技、音楽への厳格なまでの執着に現れているのではないだろうか。』

ロジャー・ボーン著:カラヤン―帝王の光と影

吉之助もボーンの指摘の通り、カラヤンの歌舞伎についての発言はカラヤン芸術のある一面を示しているように思います。カラヤンはオペラのスタンダードなレパートリー(概ね40〜50曲程度)をウイーン国立歌劇場とミラノ・スカラ座それにニューヨークのメトロポリタン歌劇場が歌手と装置を提携し融通しあうことで、質の高いプロダクションを恒常的に 提供することを夢見たのです。(その計画は結果的に頓挫しましたが。)そのためには演出もある程度標準化されたものにしなければなりません。そうすれば歌手は 演技の手順に過度に神経を払わずに・歌唱に集中できます。バイロイトで演出家ヴィーラント・ワーグナーと衝突したこともあるカラヤンは、恐らくオペラの演出が音楽からどんどん離れて一人歩きしていく風潮を危惧したのです。そして「音楽にすべてが描かれている・演出は音楽だけのために奉仕しなければならない」という信念のもとに自ら理想的な演出を志したのです。それがザルツブルク・イースター音楽祭の創設 (1967年)につながって行きます。あるいは歌舞伎がカラヤンに何かのヒントを与えたのかも知れません。歌舞伎の舞台を見ながら「これだ、ここに私の目指す オペラ芸術の在り方がある」とカラヤンが無邪気に興奮したであろうことを吉之助は実に微笑ましく思います。

*上は歌舞伎座貴賓室から「桜姫東文章」の舞台に見入るカラヤン夫妻


 

  (TOP)        (戻る)