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振袖について考える

*本稿は「バロック的なる歌舞伎・その4〜永遠に女性的なるもの」と関連したもので、別稿「内輪歩きを考える」の続編となっています。


1)振袖について

「振袖」とは、広義には身頃と袖との縫い付け部分を短くして振りを作った小袖のことを言います。狭義には薄綿を入れた絹もので振りがあり・かつ内掛として着用しないものを指し、一般的にはこれを振袖と 言うそうです。 こうしたものは室町時代から桃山時代に掛けて既に見られ、もっぱら子供や若い女性が着用するものであったようです。当時はこれを「振袖」とは呼ばず、袖も後世のように長いものではありませんでした。

左は江戸初期の絵で「春秋遊楽図」(部分)。桜花を散らした振袖と・枝垂桜模様の内掛を腰巻きして舞を舞う女性。その振袖はまだ後のように長いものではありません。

 

 

 

 

 

近松門左衛門は「日本振袖始」(享保3年・1718)で、振袖の起源について次のように書いています。

『日本は日の神の御国にて陽気盛んにして暖成事、天地の内に並ぶ方なき国土なり。(中略)ゆえに日本に生まるる物は、十六の夏までは両袖の下を闕腋(けつえき)の脇明けにして熱を漏し、涼しみを受けざれば国と人と相応ぜず。(略)今より日本の貴賎男女、我詞を式となし、闕腋を著せさせば、見よ見よ無病延命疑ひあるべからず。(中略)末代我国闕腋は此御神の教なり。』

「闕腋(脇あけ)」にすることは大人に比べて体温が高くて・動き回って熱を出しやすい子供の体温を一定に保つための工夫で、十六の夏を過ぎると脇あけをやめました。 いわば脇あけをやめることが「大人になる」ということを意味したわけです。このように振袖にはもともと実用的な意図があったのです。

 

 

 

しかし、次第に振袖は非実用的で・装飾的な意味合いが強いものになっていきます。寛文年間(1661〜1673)には一尺四・五寸ほどのものが現われ、元禄年間(1688〜1704)には二尺二寸、宝暦年間(1751〜1764)には二尺九寸にもなって、以後はそのくらいの長さで落ち着いているようです。また、振袖の丈が長くなるのと比例しているかのように、文様は意匠が凝らされ・ますます華美なものになっていきます。

なお女性は結婚すると振袖の袖丈を短くしますが、これを「留袖」または「脇ふさぎ」と呼びました。これはもともと脇あけをやめるのが成人に達したことを意味するものだったという振袖の起源から来ています。

 

(参考文献)長崎巌:振袖(京都書院美術双書)

 

 

2)袂の使い方

「新版歌祭文・野崎村」のお染という役は、袂(たもと・振袖)を大切に使う役です。歌舞伎の約束事として、お姫様の袂の使い方は町娘のそれとは違って・非常に袂を大切に使うということがあります。ところが、お染だけは商家の娘なのにお姫様と同じ袂の使い方をしても構わないという約束があるそうです。お染は大商家のお嬢さん(しかし今は没落してしまっているわけですが)で、そうした町人金融資本は大体大名に匹敵したものですから、お染に限っては大名の姫君と同じ袂の使い方をしていいということになっているのです。このお染の袂の使い方について、武智鉄二が興味深い指摘をしています。

『「野崎村」のお染の袂の仕草の場合、フロイト的な解釈としてやるのとやらないとでは、演技の質はまるで違ってきます。あのなかにお染が久松の後ろへ行って・肩越しに袂をかけてやる、それを久松が胸のところで押さえて、後ろへ見返る型があります。一体女性が大きな帯をして、大きな袂をするようになったのは、徳川の中期以後、女が非常に非生産的な地位におかれるようになってからのことですがね。しかしその場合、未婚の女性ほど袂の振りが大きいのは、未婚の女性の抑圧されたままの性欲の、つまり外面的な現われなんです。その証拠に、結婚した女性だと袂は短くなりますね。それにあの袂の振りの形というのが、やはり女性の性器の、つまり女子外陰部の自己拡張だと見るわけなんです。それを肩越しに男の前へ出してやるというのが、ひとつの恋愛の象徴だということですね。だから、久松も袂を取る場合、指一本を振りに添えるのです。そうすると大変に色気があるように受け取られる。観客の受け取り方も無意識裡に違ってきます。とにかく、そういう風に(役者に)説明してやるのとやらないのでは、同じ後ろから袂をかける型をしていても、演技の質がまるで違ってくるのです。』(武智鉄二:「武智歌舞伎物語」・昭和30年)

武智歌舞伎での指導の一端を伺わせる逸話です。何でも性欲に結びつけるフロイト的解釈は今ははやらないという向きもおありでしょうが、武智鉄二の指摘は非常に興味深いと思います。歌舞伎の女形の演技において袂の使い方は大事なことは誰でも知っていますが、武智鉄二の上記フロイト的解釈を知 ると・女形の技法がまるで違ったものに見えてきます。そう見ればお染が袂を久松にかける仕草というのは結構あられもない求愛行為なのです。そこに「嬉し恥ずかし」という羞恥心がなければならないわけです。

同様に「本朝廿四孝」の八重垣姫にしても・「桜姫東文章」の桜姫にしても・その袂の使い方が印象的です。そこに彼女たちの性的願望のちょっと歪んだ部分が見えてくることになります。姫の袂の使い方は歌舞伎の女形の技法のバロック的表現の最たるもの と見ることができます。

このように歌舞伎の女形の袂を使う技法は、服装史において非実用的で・装飾的な意味合いが強いとされる「振袖」というものなくしては成立しません。逆に言えば袂を使う技法も虚飾的で・「実がない」と言えます。そこに共通した要素があるわけなのです。別稿「おむなもしてみんとて」において日本古来の女芸の「実のなさ」というレトリックを考えましたが、女形の袂を使う技法もこの流れの上に位置付けることができると思います。

(H18・6・18)


 
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