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内輪歩きを考える

*本稿は「バロック的なる歌舞伎・その4〜永遠に女性的なるもの」と関連したもので、女形の技法「内輪歩き」のことを考えます。


1)小袖の変遷

小袖は現在の「きもの」の原形に当たるもので、袖口が狭く押し詰まった仕立てになっているので小袖と呼ぶそうです。小袖の起源は平安時代にまでさかのぼります。平安時代には貴族が下着として使用したもので、さらに武家が下着としても・表着としても使用するようになりますが、まだその頃には小袖に華やかな文様を施すことはなかったのです。それが戦国時代になって庶民に次第に広がり・小袖の着流しで外出するようになったりして、伸びやかで大胆な意匠・文様の小袖が出現することになります。この辺りに下克上の世の中の気風が見られるようです。これは小袖の着流しがちょうど現代の若者が柄シャツをゾロッと出して歩いているのと同じような感覚で、そこに「傾(かぶ)いた」気分があったのかも知れません。

天正5年(1577)に来日したポルトガル人ジョアン・ロドリゲスは「日本教会史」のなかで「一般的に日本人の着物は裁断に創意工夫が見られない。むしろ一定の決められた形で、それ以上の変化を示すことがない」と書いています。また、永禄5年(1562)に来日したルイス・フロイスは「日欧文化比較」のなかで、「「西洋の衣服の袖は狭く手首にまで達するが、日本の着物の袖は緩く・男のも女のも腕の半ばまでである」・「西洋の男の衣服は女に用いることができないが、日本の着物は男にも女にも等しく用いられる。」と記しています。ここでの着物とは小袖のこと を指しますが、すでに一般的に小袖を着物と呼んでいたことを示しています。

室町・桃山期の小袖を見ますと、身幅がひろくて・袖幅が狭く、袖幅は身幅のほぼ半分の比率になっています。 (左の写真を参照ください。)それは絹織物はもともと公家や上級武家の装束用として織られたものであったので・織幅が広くてほぼ45〜6センチ程度あったからです。桃山期の織物はやや狭くなって・41〜2センチ程度ですが、それでも小袖にするにはやはり身幅は広くて・その織幅の生地のまま袖に用いると裄(ゆき)が長くなって手が隠れてしまいます。また、身幅が広いので・帯を締めると布が余って多くのたるみが生じることになります。 それでゾロリとだらしなく着物を垂らしたような着方になったりします。

この頃はまだ正座の習慣がなく、立て膝をして座るのがほとんどでした。袴をはかず・小袖だけのいわゆる着流しで座った場合、立て膝をすると裾がはだけて開いてしまいますから、身幅が広ければ裾がはだける心配がなかったということも言えます。

江戸期になると・ずんぐりと膨らんだ着こなしから、自然に身体を皺なくスッキリと包む姿が美しいと感じるようになったようです。それで身幅を狭めて・袖幅を広げた小袖を着用するようになります。「慶長小袖」は慶長末年から元和・寛永期にかけて製作されたものですが、桃山時代のものと比べると、身幅と袖幅の比率に顕著な違いが見 られます。(左の写真を参照ください。)

 

寛永期を過ぎた頃には小袖中心の世の中になって、ほとんどの階層の人が小袖を着るようになりました。身幅と袖幅はほぼ同じ寸法になり、定型化していきます。したがって、小袖を選ぶという場合は形を選ぶ余地はあまりなく 、色と模様と材質で選ぶということになってきます。

桃山時代のような身幅の広い小袖は見られなくなります。そのため41センチから45センチという広織幅の絹織物は・いわゆる装束や古典的衣装などの特殊用途のものに限定されて・これを製作する織物業者も少なくなりました。それで、37センチ程度の細幅の絹織物が一般的に使用されるようになります。

寛文(かんぶん)小袖は寛文期(1661〜1672)を中心にはやったものですが、小袖の様式としてほぼ完成されたものになっています。町人階級のの明るく溌剌とした気風を反映した・大胆で伸びやかな文様が寛文小袖の特徴です。(左の写真を参照ください。)文様に絵画的な面白さを求めるだけでなく、そのなかに季節感や文学的情緒など・そこに意味を持たせようとする傾向が見られるのは、町人階級の経済力と文化教養が向上したことが背景にあります・

また、寛文時代頃までは帯の幅は10センチくらいで・それほど広くありませんが、その後は次第に広くなり、華やかに結ぶのが流行になっていきます。

 

2)浅間山の噴火のもたらしたもの

小袖が庶民に普及していくのは、浅間山の噴火(享保5〜7年・1720〜22)が大いに関連しています。浅間山の噴火により北関東の穀倉地帯は火山灰土化してしまいますが、農耕に適さなくなった土地が桑畑化されることによって・後に北関東は 養蚕の大生産地になっていきます。これが生糸の飛躍的な増産につながり ・生糸の価格が安くなり、これが質の良い絹織物を江戸庶民に安価で提供することにつながるわけです。

浅間山の噴火が与えた変化のもうひとつは、北関東を中心とする生糸の増産がそれまで輸入生糸で独占的に儲けていた上方経済に大きな打撃を与えたことです。江戸が急速に経済力を付けていき・上方と拮抗し・やがてこれを追い越すことになります。

それまでは中国からの輸入生糸が主体でした。この輸入には上方商人が大きく係わっていました。それが次第に国内生糸が主流になり・幕末には生糸が日本の主要輸出品目になるまでに成長します。江戸経済が急成長する一方で、輸入生糸で儲けていた上方経済は停滞するということにな ります。江戸と上方の・このような逆転現象が顕著に見えてくるのがちょうど天明期(1781〜1789) なのです。

経済状況が変化すれば、それにつれて文化状況も大きく変わっていきます。歌舞伎関連で見ると、寛政6年(1794)の当時随一の劇作家並木五瓶が江戸へ大金で以って引き抜かれたことが、文化面から見 た最大の事件です。(五瓶の影響によりこれ以後、江戸に鶴屋南北以下の優れた劇作家が輩出することになります。)以前にも初代瀬川菊之丞・初代中村富十郎ら人気と実力のある役者が江戸へ引き抜かれていますが、これ以後江戸へ引っこ抜かれる上方人気役者が続出します。宝暦(1751〜1764)頃からの江戸の庶民経済の隆盛のほどが、このことからも察せられます。

3)狭窄衣のような衣服

このような小袖の変遷と歌舞伎との関連ですが、例えば次の錦絵を見てください。明和5〜7年(1768〜70)に描かれた鈴木春信の「笠森おせん」シリーズです。江戸・谷中の笠森神社の境内の茶屋「鍵屋」の娘お仙(当時15〜18歳)は、江戸の三大美女として評判でありました。

まず左の「縦て縞の着物を着ているお仙」ですが、歩く時に裾がまくれて・ふくらはぎまで見えてしまっています。そこがまた色っぽいので、評判を呼んだのでありましょう。動きがあってフレッシュな感覚に溢れています。

 

 

 

左は同じく春信の「キセルを持った青年にお茶を出すお仙」。これはふくらはぎは見えておりませんが、ここでもやはり裾がはだけているのが分かります。

この笠森おせんの絵は、初代中村富十郎の内輪歩きの発明よりちょっと時代が下ったところの作品になりますが、恐らくこれは当時の女性は内輪で歩くという習慣がまだまだ普及してなかったのです。当時の女性は外股で歩いていたのです。細幅物の小袖の場合、外股で大きく歩幅をとって歩くとどうしても裾がまくれやすかったのです。それで時として裾が乱れて・ふくらはぎが見えてしまうということがあったようです。

 

以上で見られる桃山期から江戸期の衣服の流れから言えることは、衣服が見た目の良さだけで選ばれていて、逆に動きにくいものに変化していることです。動きやすさという点から見ると逆行の感を呈しているのです。これは行動的で変化を望む桃山期と・動かないこと(変化しないこと)を美徳とした江戸初期の違いを反映しているように思われます。

寛文小袖の時代には、反物はほとんど細幅物になっていたことは先に書きました。とにかく細幅物の小袖は激しく動くと乱れるので 、裾を乱さないで動こうとすると歩幅は小さくせねばなりません。自然と動作を限定されるのです。帯の幅が広がっていくこともこれと連動した現象でして、 着物の乱れを防ぐために帯が太くなっていくのです。そして、締め付ける帯がますます身体の動きを制限することになります。

武智鉄二は「絹織物が細幅物に限定されたため、衣服はさながら狭窄衣の観を呈するようになり、屈伸を含めた身体運動が極度に制約を受けることになった」と指摘しています。歴史的に見れば・江戸期の日本人の体位はもっとも貧しかった(平均身長は桃山時代より低かったそうです)ということが分かっています。こ れについては江戸時代の食生活の低カロリーの問題とか複合的な要素が絡みますが、日本人の体位と衣服との関連はもう少し研究される必要がありそうです。

もうひとつ面白いのは、小袖が着物の代名詞になり・形(スタイル)の面においてほとんど変革が見られない代わりに、刺繍・文様・色彩デザインの面では実にバラエティに富み、その発想はまるで押さえつけられたイマジネーションをこの分野 に噴出させたように・多種多様で・大胆かつ繊細であることです。つまり、江戸期の小袖はその発想が非生産的・消費主義的な一面があるのです。吉之助流に言えばそこが実に「バロック的」なのです。

4)内輪歩きについて

このようなことが歌舞伎役者の様式に影響しないはずがありません。初代中村富十郎は安永・天明期(1772〜89)を代表する名女形ですが、内輪歩きを発明した女形です。内股をくっつけて・つま先を内輪に取ることで・狭い筒状の裾のなかでの動きを確保し・裾の乱れを防ぐのが内輪歩きです。それは真の女性に比べて体格が良い野郎(成人男性)女形の苦肉の工夫であったのですが、そのなよなよとした・美しい歩行を見て、女性たちはその女らしさを喝采し・こぞってこれを真似をしました。そして内輪歩きが女性のたしなみとして拡がっていきます。

武智鉄二は「娘道成寺」は初代富十郎がその歩きという技術を特技として誇示しているようにさえ見えるとして次のように書いています。

『上方芸の特徴をなす歩きの芸能の風体は「娘道成寺」の振り付けのなかに、今でも多くの方を残している。上方舞では最初に立って三歩歩むことで、その一曲のすべてを表現し尽くすという伝承が、今日の地唄舞にも多く残っている。その三歩歩む振りが「娘道成寺」には最初の間に二度も重なって出てくる。舞の段の「是生滅法と響くなり」でただ三歩前へ歩み出た踊り手は、次の手踊りの段でまずまた「言わず語らぬ我が心」と三歩歩むのである。もちろん能掛かりと手踊りと、舞の位はまるで違うけれど、三歩歩むという行為では何の変りもない。(中略)これらの歩行に共通した要素は、上方舞の特徴に従って逆ナンバで歩かれるということに煮詰まるのである。左足を出す時、左肩は足と共にナンバに出るが、その時左肩は下へ落とされ、逆に後ろへ引かれた右肩から右腕のみが日常生活的に、あるいは日常的な消費の身振りを外見的に真似て、前方へ押し出される。すなわち身体行動としては生産的なナンバの体位を取っているのであるが、外見的には消費的な日常生活を真似ているのである。これが伝統芸術の基本(つまり生産性)を失わないで、しかも風俗を写すという意味での写実芸を確立する具体的方法だったのである。』(武智鉄二:身体行動論・昭和47年)

初代富十郎が「娘道成寺」を初演したのは、宝暦3年(1753)3月江戸中村座でのことでした。別稿「バロック的なる歌舞伎・その4〜永遠に女性的なるもの」は初代富十郎の内輪歩きについて触れています。内輪歩きは現実の女性を「写実」に写したのではなく、「女」の本質の何かを表徴的に提示したものと言えます 。さらに視点を変えて見れば・上記の武智鉄二の指摘のように、内輪歩きは伝統(生産性)に立脚し・その上に消費的な動きを重ねたものになっているとも言えます。つまり、内輪歩きは上半身を様式に保ち・膝から下を写実に持つ動きと考えられます。それぞれの動きが分離しているのです。吉之助流に言えば、そこに「裂け目がある」 のです。(ナンバについては別の機会に考えたいと思います。)

武智鉄二が細幅物の小袖を「さながら狭窄衣のようだ」と評したたことは心に留めておきたいと思います。小袖では自由な動作がどうしても制限されます。そこに江戸幕府によって写実の根本を奪われた歌舞伎との観念的な類似点を見出すことができる ます。(「バロック的なる歌舞伎・その1:歪んだ真珠」をご参照ください。)このことは歌舞伎の女形芸を分析すれば分かります。

内輪歩きは歌舞伎の女形が「女らしさ」を表現するために編み出した手法でした。それは確かにその通りですが・それは生身の女性を写生したものでなく、観念としての「女らしさ」・江戸時代における「あるべき女らしさ(ジェンダー)」を表現しているのです。つまり、それは社会的に弱い立場に押し込められていた江戸時代の女性を象徴していると言えますし、また同時に・本来あるべき性を剥奪されて虚構の性を押し付けられた歌舞伎の女形をも象徴してい ます。だから、内輪歩きは女形芸を象徴する・まさにバロック的な技法なのです。

以上、内輪歩きを服装の変遷と絡めて考えてみました。日本人の体位・動き方が変化したから服装形態が変るのか・はたまたその逆であるのか判然としないところがありますが、結果としてその変化は互いに連動しているのです。内輪歩きはそこから生まれた技法なのです。
 

(H18・6・4)

(参考文献)
高田倭男:「服装の歴史」(中央公論社)
長崎巌:「小袖」(京都書院美術双書)
武智鉄二:「身体行動論」〜定本武智歌舞伎・第1巻


 
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