(TOP)        (戻る)

志度寺訪問記〜田宮坊太郎の物語


平成18年4月、金毘羅歌舞伎の帰りに香川県大川郡志度町の志度寺(真言宗善通寺派第85番札所)に寄って来ました。 高松市からJR高徳線で30分ちょっとのところです。「志度寺縁起絵図六巻」によれば推古天皇33年(625)、薗子という尼が霊木で本尊を彫り、お堂を建てたのが寺の始まりだそうです。その後、天武天皇10年(681)に藤原不比等が妻である海女の墓を建立して「死度道場」と名付けました。縁起に語られる「海女の玉取り伝説」は謡曲「海士(あま)」のもとになっています。 

その粗筋は次のようなものです。房前の大臣(子方)が志度の浦の房前で亡くなった母の追善のために志度の浦へ赴きます。そこで出会った海人(シテ)は、唐から興福寺へ渡される三つの宝のうち、面向不背の玉が龍神に取られたこと ・それを取り返すために不比等(淡海公)が身をやつしてこの志度の浦に下り海人と契りを結び ・一人の子を儲けたこと、その子が房前の大臣であることなどを語ります。そして海人はその玉を龍神から取り返した時のことを語ります。玉を取って帰ってきたならばこの子を藤原家の後継ぎに しようという淡海公の言葉を得て、海人は海底の竜宮城に行って・玉を取り返しますが、龍神の追跡を受けます。海人は剣で乳の下を切り・玉を押し込め、縄を引き上げさせ ます。死の息の下で海人は乳の下を見よと言って玉の存在を伝えます。このようにして房前の大臣は藤原家の後継ぎになったのだと海人は語ります。そ して自分こそがその海人の亡霊( つまり房前の母)であると名乗った後、弔いを頼んで姿を消します。十三年忌の供養を行う房前の前に亡霊は龍女の姿で現われて・経文のありがたさを喜び・舞を舞 います。「法華経」の功徳で龍女は成仏し、志度寺は仏教の霊地となったのでした。

*写真上は志度寺山門から五重塔を望む。左の写真は志度寺本堂で、右にある看板が「海士の墓」です。

 

もうひとつ、志度寺で有名なのが浄瑠璃「花上野誉石碑・志度寺の場」です。これは1642年(寛永19年)に丸亀で実際にあった田宮小太郎(俗に坊太郎)の仇討を題材にしたものです。田宮坊太郎はまさに仇討ちのためだけに生まれてきたような人物で、敵を追いまわす長い人生の果てにやっと敵を討ったと思ったらほどなく死んでしまうのです。坊太郎の仇討ちは歌舞伎や浄瑠璃で繰り返し上演され、坊太郎は孝子の手本として全国的に有名になりました。「志渡寺の場」では坊太郎の乳母「お辻」が幼い坊太郎(口がきかない病であった)のために水垢離(みずごり)を取り火物断ちをしたりします。現在はこの芝居あまり上演されませんが、その粗筋は次のようなものです。

坊太郎は父源八を闇討ちされ、今は乳母のお辻と一緒に志渡寺に住んでいます。敵は剣術師範の森口源太左衛門と言います。敵を油断させて探るために坊太郎は叔父の内記に命じられて口がきけない振りをしています。寺を訪れた森口の折檻も坊太郎は黙って堪え忍びます。それを知らない母代わりの乳母お辻は 断食をし・水垢離を取って坊太郎が口をきけるようにと、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と一心不乱 に祈ります。そして願掛成就の日にお辻は自害を図ります。坊太郎はたまりかねて叫び声をあげます。森口が敵という証拠もそろった・近く仇討ちをするという坊太郎の言葉を聞いて、お辻は満足して息絶えます。それから10年後に坊太郎は父の仇を討ち本懐を遂げます。

「志度寺 」は孤児となった坊太郎のためにわが身を痛めつけて回復を祈るお辻の母性愛が見せ場です。水垢離して・仇討ち成就のために命をかけて神仏に祈るその姿がまさに女武道そのものです。ところで「花上野誉碑」の先行作において は「お辻」が乳母ではなく母親として登場し返り討ちにあうのですが、芝居のなかでは女武道的な活躍をするそうです。このことから「花上野誉碑」系統のお辻のイメージが「摂州合邦辻」の玉手御前(本名お辻)のイメージに も重ねられていると折口信夫は推論しています。

「女武道の型に這い入る女の物語の要素が、合邦辻で行なわれた仇討ちと結びついて、合邦の玉手御前・すなわち合邦娘お辻ができているのではないだろうか。このお辻という名前は「誉碑」の乳母と同名であって、表面は関係がないが、同じ名を付けるような同じ刺激が働いているのだろう。そういう心理的要素をやはり考えてみなければならない。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

「誉碑」の乳母お辻と「合邦辻」の合邦娘お辻(玉手御前)は同じ共通項を持つ役なのだという・この指摘は非常に重要です。ここで「お辻」という名前が孕むイメージが交錯するのです。そのキーワードは折口信夫が指摘している「女武道」と・もうひとつは「母性愛」 なのです。(別稿「玉手御前のもうひとつのイメージ」をご参照ください。)

志度寺境内の庭園の片隅に「お辻の井戸」があります。(写真上)立て札を見ますと・乳母お辻はこの井戸の傍で自害したと書いてあって・ 吉之助も感じ入ったのですが、帰って調べてみるとこれは史実ではなくて・井戸は浄瑠璃人気にあやかって後に造られたものであるそうです。

(H18・4・26)

*写真は吉之助が撮影したものです。



  (TOP)        (戻る)